四 闇夜を照らす
秋雪との夕餉を終えた睡蓮は一人外へ出た。本殿へと帰った秋雪を見送り、庭園へと続く道を一人ふらふら。
そう言えば、雲州に来てから一人で出掛けた事が無かったと気がつく。そうすると、ますます足取り軽くなった。
――城壁まで行ってみようかしら
庭園を越えた更に先。城門までとなると、離宮からは少し距離がある。汕枝には何も言わずに出てきてしまった為、引き返そうかを悩む。が――
――後で謝ろう
既に進んでしまった距離を思うと、何故だか謝る方が最善策なような気もした。
そうやって、とことこと歩いて城壁を目指す道すがら、睡蓮の脳裏は漠然な――形になるようでならない思想ばかりがより集まって、一向にまとまらなかった。
――私、何をしたいのかしら、何処に行きたいのかしら?
自由に決めて良いと言われて、睡蓮は自分がはっきりと何かを望んだ事が無いのだと思い知る。
運命はいつも勝手で、思い通りになった事が無いというのもあって諦めていたのもあった。
――……私、何になりたいのかしら?
そんな時だった。
「睡蓮」
低いはっきしとした男の声。睡蓮は足を止めて振り返る。同じ道を辿って二人で城壁上まで登ったのは、今日の昼間とあって記憶にも新しい。
そんなひと時を思い出して、睡蓮は屈託の無い笑みを向けた。
「天擂さん、どうしたの?」
「どうしたじゃねぇよ。お前が何も言わずに庭園に向かって歩いて行ったって虎が言うから、飛び出してきたんだよ」
「ふふ、後で怒られるつもりだったのに」
屈託の無い笑みは、悪戯なそれへと早変わり。悪意無き睡蓮の双眸は悪意どころか夜の深い闇すら吸い込んでしまいそうなまでに清廉と澄んでいた。
「獣人舐めすぎだろ。あいつら本物の獣並みかそれ以上に感覚鋭いからな」
天擂は反論を口にしながらも、何故か顔を横に向けて口を覆い顔を隠す。が、僅かな時間でそれも戻って視線は再び睡蓮へ。
「……で、どこ何処に行くつもりだった」
「夜の都を観てみたくなって」
「それならそうと言え」
天擂は胸を撫で下ろして肩を竦めた。かと思えば、何かを思いついたように指で上を指し示す。
「なあ、城壁よりも上からってのはどうだ?」
「お城からは見えないでしょう?」
「もっと上だよ」
そう言って、天擂は睡蓮の手を引いた。庭園の、一際広い場所を見つけると、睡蓮と距離をとる。篝火が照らす薄ぼんやりとした中、睡蓮の視線は天擂を見つめたまま。
すると、天擂の身体が波打った。
蜃気楼のように輪郭は朧げに揺らぎ、身体は全身が光沢ある鱗により黒く染まる。頭からは角が、口からは牙が、胴は蛇のように長くなり、手足は鋭い爪。
そして、瞳は金色に。
数日前に見た白龍とはまた違う。夜に沈んでしまいそうな黒でありながら、篝火に照らされて
普段、無頼漢と言われる男からは想像もつかないような姿に、睡蓮は息を飲んだ。
「怖いか?」
間近で龍を見るのは初めてだった睡蓮は、天擂の声に促され近づいた頭の鼻筋に怯える様子もなく触れた。
人肌とは違い、冷んやりとした鱗の感触が先程まで人であったなどとは思わせない。それが龍人という存在なのだと思い知るも、矢張り恐怖は感じない。
「こんなに近くで見たのは初めてだったの。天擂さんが龍人だと思ってなかったから少し驚いちゃった」
「まあ、そうか。外見じゃ、知りようもないしな」
姿は違えど、声は天擂のそれと変わらず。その声が、「それで」と続けた。
「どうする?」
◇
それは想像を超える景色だった。
夜の行燈が灯った景色は赤い都を幻惑的に照らし、太古に存在した
空を見上げれば夜空を照らす星々が、地上へと目線を戻せば幻想的な太古の都が。城壁よりも高い遥か上空で、幻想の詰め込まれた夜に包まれている。光の粒の一つ一つが身体に溶け、新たな感情を芽吹かせていくような――これまでに無い程に睡蓮の心を駆り立てた。
乗り慣れない龍の背の上で、落ちないようにと掴む龍の角はまるで皮を剥いだ太い木の枝のよう。
何の温かみもない。けれども、それが天擂の無骨さと優しさに似ていて、睡蓮はクスリと笑う。
睡蓮は角に捕まり体を預けながらも、後方を振り返る。ゆらゆらと、水中を泳ぐ魚のように尾の先が揺れて、背鰭や尾鰭の代わりに尾の先まで続く龍の立髪が揺蕩う。
黒き鱗、黒き立髪が夜を泳ぐ度に月光が反射して、きらりと
睡蓮はふと考える。
――私が
それならば、自身も幻想夜の一部になれただろうかと。
睡蓮に僅かな欲が込み上げる。
――天上聖母様、また私に奇跡を起こしては頂けないでしょうか
天上聖母と同じ癒しの力。神の祝福は人智の届かぬ
ただ、恐怖に打ち勝つ力が欲しかった。皇都へと戻ると一言口にする勇気が。
睡蓮が皇都で過ごした日々は辛くもあった。しかし、全てがそうではない。
睡蓮を頼り、治療院を訪ねる人々。
睡蓮の力になろうと手を貸してくれる尼僧達。
睡蓮が力を失いながらも人々を治療する術を懇切丁寧に指導してくれる
身よりもなく行くあてもない子供達が見せる笑顔。
そして、いつも傍で守ってくれていた――――
――あ、そうか……
睡蓮は天に投げかけていた願いを止めた。
今は龍の姿で何も言わないその人へと目線を落とす。
「天擂さん」
優雅に漂うだけの中空で、今は風もなく睡蓮が天擂を呼ぶ些細な声がしじまを遮った。
天擂は静かに「どうした」と返す。
「私が皇都へと戻りたいと言ったら、愚かだと思いますか?」
死にかけた経験がそうさせたのか、不安を押し込むように睡蓮は角を抱えていた力が強くなる。だが、天擂は睡蓮の不安など消しとばしてしまうほどに明朗な声で「いいや」と告げた。
「睡蓮、今度は必ず守ってやる。だから、好きに生きろ」
天擂の表情は見えない。けれども、いつも睡蓮を
そろそろ降りるかと天擂が呟いて黒龍は旋回してゆるゆると夜の都が遠のいて行く。それが少しばかり惜しいような気もして、睡蓮は見えなくなるその時まで目が離せなかった。
そうして近づく庭園。もう地上まで着くと言うところで、黒龍の姿がぐにゃりと歪んだ。足下の鱗も、それまで支えにしていた龍の角までもが手の内から幻のように消えて、睡蓮は均衡を崩してしまった。
「きゃっ……」
睡蓮は落ちる衝撃を前に目を瞑った。が――何かに抱えられ、無事着地したのだと気付いて瞼をゆっくりと押し開いた。
「悪い。背から降りられないと思ったからな」
睡蓮の眼前には、精悍な男の顔。
男の目は、未だ龍と同じ金色を帯びたまま。
いつも以上に近い距離と声。
抱きかかえられて感じる腕の逞しさ。
龍の背に乗る感覚とはまた違う心地に睡蓮の頬が上気した。
「あの……天擂さん……」
夜空で覚えた湧き上がる感情とはまた別の、高まる鼓動が嫌にうるさい。けれども、天擂の温もりから離れたくなくて――手放したくなくて、睡蓮はそっと天擂に身を寄せた。
天擂もまた、睡蓮を抱き留めたまま手を離さなかった。
「何処にでも一緒に行ってやるよ」
天擂の腕の中、届いた言葉に睡蓮は頷き返したのだった。
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