三 光差す②

 城へと帰る道すがら、睡蓮は一度として天擂の顔を見れなかった。


 簪の意味を考えなくて良い言われたが、到底無理な話。

 睡蓮は第二皇子の婚約者だった事もあり恋愛経験は皆無。その期間は十四歳から数えて九年にも及ぶ訳だが、果たして天擂はいつからそういった感情だったのだろうかと考えてしまうのだ。


 ――普通に考えて、昨日今日じゃないわよね? じゃなきゃ、雲州まで来てくれる筈ないもの。だとしたら……いつからなの?


 天擂が睡蓮の前に現れたのは、睡蓮が異能を失ってすぐの頃だ。睡蓮は天擂に助けてもらう事はあっても、秋雪のように治療をした覚えも無い。

 答えは隣に立って歩いているのだから尋ねる事も可能な訳だが、思い当たる節が無いというのも失礼な気もして簡単にその手段は選べそうに無かった。

 考えれば考えるほどに顔は熱くなるばかり。城どころか離宮へと戻るまで顔を上げられず、これから演習場に顔を出すという天擂をまともに見送る事も出来なかった。

 

 睡蓮は寝台淵に座ると熱をもったままの顔を覆う。天擂の言葉が今だに頭の中に留まって睡蓮の心を突き続けるのだ。


「随分と楽しかったみたいね」


 睡蓮はピクリと肩を揺らす。顔を覆った指の隙間から部屋を覗くと、今の今まで誰もいなかった筈の部屋に、虎の姿の汕枝がぬるりと入り込んでいる所だった。


「……頭がどうにかなっちゃいそう」


 睡蓮は掌を顔全体から頬に移しても、赤く染まる頬は隠しようもない。

 

「簪まで受け取って……やるわね」

「こ……これは、天擂さんはまだ考えなくて良いって」

「へえ、ふーん、そうなの」


 汕枝の虎の目は疑いの眼差しを向ける。堪らず、睡蓮は「だから……」と抗議の声を上げた。が――


「でも、嬉しかったんでしょ?」


 汕枝の単刀直入な言葉で睡蓮は縮こまり、いじいじと指を弄りながら、喉から出たのは素直な言葉だった。

 

「はい、嬉しかったです……こういう贈り物は初めてだったので……」


 いじらしく頬を赤らめる睡蓮のその顔は、純粋な好意を受け取った、恋する乙女そのものだった。



 ◆◇◆◇◆



 そうして迎えた夜。睡蓮は秋雪に向き合う。ただの食事。けれども今日ばかりは、ただの食事では済ませる事は出来そうにない。

 まだこれで何が決まる訳ではないが、それでも睡蓮には一大決心にも等しかった。

 だからと言うわけでではないのだが、目的の話ができたのは、食事も殆ど終わりの頃だった。


「秋雪様にお伺いしたい事があります」


 睡蓮には一大決心でも、秋雪には会話の一つ。さらりと流れる風の如く、爽やかな微笑んで返す。


「以前、私の今後はまた考えれば良いと言われていましたが――あの意味は私に決定権があるという意味だった……のでしょうか」


 睡蓮にはまだ惑いがあった。自分の思うままにに生きられるなど、ただの幻なのではないのかと。

 秋雪へと向かう姿は堂々と、しかしまだ不安は拭えない。睡蓮の顔は若干強張りがあった。

 しかし、そんな睡蓮を心配させぬようになのか――秋雪の端麗な顔は顔を傾け微笑みを溢す。

 秋雪は人払いを命じて、給仕をしていた女たちは皆下がって行く様子を確認して口を開いた。

 

「ええ、全て睡蓮が決めて問題ありません。これは皇帝陛下、第一皇子――皇太子殿下両名の決定でもあります」


 睡蓮は秋雪の返事と同時に、殿の名ではっとした。


「第一皇子殿下に決まったのですか⁉︎」

「ええ、正式に決まったと連絡役から伝え聞いております。決して、戯言などではないのですよ」


 これで第二皇子と睡蓮の婚姻は完全に無意味となった。既に破婚と決まっていたが、大きな区切りが目に見えたような気がして睡蓮は安堵するも、殊更に気になったのは矢張り自身の今後である。

 

「自由とはどの程度を」

「言葉のまま、睡蓮の意志の通り。貴女が仙女の名を隠して生きたいのであれば、信頼できる地方貴族の養女に。もしくは、婚姻でしょうか。国を転々とする生活も、まあ無くはないでしょうね。私や父としては、このままこの離宮に住んで下さっても一向に構わないのですが……貴女が望むのであれば、どんな形でも受け入れるそうです」

「でも、どうしてでしょうか。ご存知の通り、私にはもう価値は無に等しい。以前、第二皇子殿下にお会いした時も、私の過去の功績を考慮して婚姻したと聞き及んでおりましたし」

「私もまだ詳しくは聞かされていない部分があります。話自体は皇太子殿下に伺う必要があるでしょう。睡蓮、今後を本格的に決めるのであれば一度皇都へ足を運ぶ必要があります。その時に皇太子殿下に貴女の胸の内をお話し下さい」


 睡蓮は頷く。


「ただ問題が一つ」


 秋雪の顔が僅かに強張る。


「皇后陛下が何を企てていてもおかしくはない状況だと言う事です」

「……それは第一皇子殿下を恨んで?」

「ええ。そもそも今回の騒動を阻止し、第二皇子を追い込んだのは皇太子殿下ですから」

「逆恨みにも聞こえますが」

「皇后陛下は実直な方なのですが、実子の事となると熱くなる。貴女と第二皇子の婚約も皇后陛下が皇帝陛下の僅かな隙をついて押し通してしまった程です。現在、第二皇子は幽閉の身。皇后が第二皇子の復権を企むか、それとも八つ当たりに怨みを込めるか」


 睡蓮は思わず身構える。それを察した秋雪は眦を下げて、顔を伏したまま続けた。


「私は最初に嘘を吐きました。貴女が今も命を狙われていると言った時、無いとは言い切れなかったのです。此処にいる事は皇后陛下も知らない筈ですが、不測の事態が無いとは言い切れず終始護衛を側に置く結果となりました。どうかお許し下さい」


 頭が沈み続ける秋雪に睡蓮は、頭を上げるように静かに告げる。そうして目線を上げた秋雪に対して睡蓮はふわりと微笑んだ。

 

「此処で過ごした時間はとても穏やかで、今までに無い経験でした。それは秋雪様の計らいのお陰でしょう。それに汕枝はとても頼りになりましたから」


 それから――と睡蓮は続けようとしたが、遮るように秋雪が立ち上がって言葉は止まる。

 秋雪の足がゆっくりとしかし確実に睡蓮に近づいて、傍で止まるとその場で膝をついた。


 睡蓮は止めようと丁寧に置かれていた手が持ち上がる。が、秋雪はその手をふわりと飛ぶ蝶でも捕まえるように手中へと収めてしまった。

 己の口元へと引き寄せて、しかし触れる既で止める。

 捕らわれた手はこの上ない優しさに触れているよう。ただ、手に口付ける許可を求める眼差しは情愛に満ちていたが、どこか焦りのようなものが見え隠れする。

 言葉を紡ごうとする秋雪の唇が何かを言い掛けては堪えるように飲み込んで、迷いが生じた瞼を閉じた。


 そうしてもう一度開いたそこには睡蓮へと注がれる熱意は薄れて、真摯な男の声色がそっと紡がれた。


「どうか、ご自身を卑下なさらず。あなたの人生はあなただけのものです」


 秋雪が本当は何を言おうとしたのか。睡蓮はそれとなく察しながらも気付かない振りをした。


「……秋雪様、私の今後はまた後日お返事しても良いでしょうか」

「ええ、ゆっくりと考えて下さい」


 秋雪の目はどこか物憂げに、けれども薄れてはいても睡蓮への確かな情を秘めたまま、睡蓮の手を離したのだった。

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