五 揺蕩う心②

 篝火と、等間隔に配置された灯籠が夜の庭を照らす。草花が薄明かりの中で揺れて、月明かりと静かな夜が昼間とは一味違った庭の姿を映し出した。

 それでも一人での散歩だったなら、物寂しいと感じただろう。睡蓮は秋雪に手を引かれるままに歩いていた。


 と言っても、睡蓮の歩幅に合わせた秋雪の足並みはゆっくりと、しかも庭を眺めながらとあって殊更に遅い。


「あの、私歩くのが遅くて。お仕事、忙しいですよね」

「庭園へと連れ出したのは私ですから。それに、その分があなたと一緒にいる時間が多くなる」


 薄明かりで表情は汲み取りづらいのにも関わらず、美丈夫の微笑みが睡蓮にもしっかりと見えた気がして、途端に睡蓮の身体が熱くなる。


 ――まるで一緒に居たいと言われて……


 言葉をそのまま鵜呑みにして恋愛経験皆無の思考が単純な形で結論づけようとした。が、ふっと湧いた冷静な思考が別の結論を導き出す。


 ――きっと勘違いよ。深い意味じゃ無い


 恋愛経験は無いが、人が話す言葉を深読みする術ぐらいは睡蓮にとてある。今まで言葉の表面だけを読み取った会話で何度も痛い目を見たではないか。そうやって自身を言い聞かせるように、心を落ち着かせるように胸に手を当てる。


 きっと、秋雪は気を遣われているのだと。まあ、何の為に気を遣う必要があるかなどさておき。自分自身を落ち着かせる為だけに考えた理屈で心が凪いで、睡蓮はなんでも無いふりをして首をもたげて秋雪へと向けて目線を上げた。

 

 矢先、秋雪も睡蓮を見下ろして目線が勝ち合う。秋雪の顔は月光に仄かに照らされて、目鼻が整った端正な顔がより際立つ。それがあまりにも近くて、ついまじまじと見てしまった。


 ――あ、睫毛も白いんだ

 

 数日前に見た白龍よりも美しいのでは無いのだろうかと思うほどの端麗な顔が、目を細めて意味あり気な眼差しを睡蓮へと向ける。

 先程落ち着かせたはずの混乱した思考が、どうやってもその眼差しに意味見出そうとするものだから、睡蓮はさっと顔を背けて夜の庭園へと視線を戻した。


「あの……誘っていただいたのですが今日はもう……」


 あまりに突然で不躾だっただろうか。気を悪くしただろうか。そんな事を考えながらも、睡蓮は秋雪の顔が見れなかった。


「構いませんよ。離宮までお送りしましょう」


 秋雪の声は終始穏やかなままだった。気を悪くしたどころか、寧ろ心なしか弾んでいるようにも聞こえる。

 しかしそれ以降、秋雪が口を開く事はなかった。互いの足音だけが夜のしじまに響くだけの時間がすぎて行く。

 手は今も、秋雪のそれに重ねたまま。

 熱い。夜風は涼やかで、体温ばかりが気にかかる。それは、離宮まで――睡蓮の部屋の前へと辿り着くまで続いて、睡蓮の心の臓を打ち鳴らし続けた。

 手が離れても熱が冷めることはなく、睡蓮は目線を下げたまま秋雪へと謝辞を溢した。


「秋雪様、今日はありがとうございました」

「礼は不要です。此処では心穏やかに過ごして頂きたいと言った通り、私が勝手に尽くしているだけです」


 秋雪は最後に薄く微笑んで、そのまま身を翻して帰っていった。



 ◆◇◆◇◆



 睡蓮は寝衣ねまきに着替えるや否や、寝台へと倒れ込んだ。今日という日が、濃厚すぎただけなのだ。いや、死にかけた日に比べたら多分どうって事はない筈だ。まあ、使う感情が違いすぎて比べる事はほぼ無意味なのだが。

 そこへ、嬉々とした調子で話しかける虎の声が耳を掠めた。


「随分とお疲れの様子ね」


 睡蓮は顔だけを横に向けて、面白がっているであろう虎を見やる。汕枝はいつもの敷物の上にゆったりと寛いだ腹ばい姿で――期待が込められたように、目を細めてニンマリと笑っていた。

 

「そうね。こんな日々が続いたら私の心臓は止まってしまうかもしれないわ」

「こんな日って?」


 判って言っているのか、愉悦混じりな虎の顔はこれ見よがしに含み笑いをしている。人の不幸は蜜の味……そんなところだろうか。

 それでも、その手の話を出来る相手も今は面白がっている虎だけ。

 そう虎。

 でも、いないよりはきっと良い筈。

 睡蓮の混乱したままの頭は明快な答えを欲しがって、あっさりと口を開いた。


「汕枝は男性とお付き合いした事はあるの?」

「あるわよ。恋をしたわけじゃないけど、まあまあ楽しかったわね」


 回答が思ったよりも斜め上で睡蓮は戸惑う。


「それほど面白い話ではないわ。ただ気が合って、暫く一緒に過ごしただけだし」

「え、気が合うのに別れたの?」

「少しの間、目的が一緒だっただけだもの。道が分かれたらそこでお終い」

「ずっと一緒にいたいとか」

「束縛されるのもするのも嫌いよ。それに一回寝たら責任取るだのなんだの。他人に一生を左右されるなんてごめんだわ」


 睡蓮は目を点にして、自分の悩みが矮小わいしょうに思えた。いや、相談する相手を間違えたとも言えただろうか。


「あの、もう少し軽い話で」

「残念だけど、睡蓮のの参考になる話は無いわ」


 睡蓮はピクリと肩が跳ねて、先程まで一緒だったからか月光に照らされた秋雪の顔が思い浮かぶ。途端に顔が熱くなって、睡蓮は布団へと顔を突っ伏した。


 そうすると、ゆっくりとだが汕枝の足音が近づいた気がした。流し目で確認するも、虎の顔はすぐ側。しかもニヤリと笑ったままだ。


「二人の男があなたに迫ってるなんて、おもし……単純に楽しめば良いじゃない」


 ――今、面白いって言いかけてませんか?


 汕枝の態度はモヤモヤするところだが、睡蓮はそもそも今の状況は――


「勘違いじゃないかしら。私、今まで誰かに言い寄られた事なんてないもの」


 すると、汕枝はキョトンとした顔をして言った。


「あら、皇都は見る目の無い男ばかりなのね」


 ――私は第二皇子に婚約者だったし、わざわざ近付いてくる人なんて……


 睡蓮の治療院はある意味で有名だった。仙女の名が通っていたのもあるが、婚約した事による第二皇子の援助もあったのだ。だから治療院の中で睡蓮の顔は知れたも同然。納得のいかない顔で、睡蓮は汕枝にまごまごと言葉を返す。


「二人が女性に優しいだけとか」

「秋雪様は何の感情も抱いていない相手に思わせ振りな事をされる方じゃないわ。安易に近づく女が何度か冷たくあしらわれているのを見たことがあるし……それに、と今までもこうだったの?」

「いえ……」


 汕枝の率直な言葉に睡蓮はすかさず返事をした。天擂が今までに今日のような行動をとった覚えが無かったのだ。

 汕枝は勢いづいたまま続けた。


「何が不満なの。今はただちょっかい出されているだけよ。まあ、その内本気を出してくるかも知れないけれど。恋愛をしたって良いじゃない。どうせそのうち結婚はするんでしょ?」

「そうね、どうせわ。恋なんて無意味よ。後が辛いだけ」

「決めつけてるのね」

「今回の件がどれだけ尾を引いているの知らないけれど、事が治ったとして今度は両親が何を言うか……皇族が何を言うか。誰かを好きになって別れがあるなら必要が無いわ。虚しくなるだけだもの」


 落ちていく睡蓮の声。その声に合わせたのか、汕枝の口調が慰めるように柔らかくなる。

 

「あら、好きに出来るなら恋したいとも聞こえるわね」


 汕枝が告げた言葉はまたも睡蓮の的を射たようで、横目だけだった目線は頭をごろんと横へ転がしてしっかりと虎の顔を正面で見据える。


「そうかも知れない。でも、人の言葉を素直に受け取れない私には向いてないわ」


 冷めた目が汕枝を見ているようで、遥か彼方を見つめていた。


「私を仙女と讃えて、消えていくどころか憎悪まで向けた人をいっぱい知ってる。人の心は移ろいやすい。そっと小突いただけで簡単に変わるの。子供の頃からずっとそう」


 睡蓮はそのまま瞼を閉じる。


「私はきっと、心の底から人を信用する事ができない」


 吐き出してしまった言葉に対して後悔しているように、再び布団に顔を伏せてしまった。


「……ごめんなさい。今言った事は忘れて」

「ええ、何も聞いてないわ。灯は消しておくから、そのまま寝なさい」


 睡蓮が瞼を閉じて、そう幾つも数えないうちに寝息が聞こえる。

 汕枝はそっと寝台から離れると、その姿――虎の全身が脈を打ち、揺らいだ。

 虎の身体は人の姿へと変わり、長い黒髪を一つに束ねた三十も中頃の女へと変貌する。女は細身ながらも狭客のような装い。しかし虎の時の如く、その足取りは軽やかで足音も気配も夜に同化したように静かだ。

 そうして、部屋を照らす行燈をひとつづつ息を吹きかけて消していく。

 最後の一つ、寝台のすぐ傍の行燈へと近づきながらも、睡蓮へと向きを変える。薄布を手に取ると、眠る睡蓮へとそっとかけた。


「おやすみなさい」


 そう小さく呟いて、汕枝の身体が再び脈を打つ。姿は虚になり、次第に形を変えていく。何歩か歩いていつもの敷物の上へと辿り着く頃には、黒と辛子色の縞模様が姿へ。

 そうして睡蓮の姿をじっと見た後、再び腹ばいになるとそのまま頭を沈めて自身も眠りへとついた。

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