四 揺蕩う心①
軍部から離宮へと戻ったその日、睡蓮は心中穏やかとはいかなかった。
軍部に出向く前の胸中の靄こそ薄らいでいるが、代わりに浮かぶのは一人の男の事ばかり。
意味が無い事だったかもしれないのに、何か意味があるかもしれないと繰り返し考える。
――こう言う時、世の中の女性は一体どうするものなのかしら
奇しくも、睡蓮は相談するような友人が元よりいない。いたとしても、今は雲州。
現状で相談できる手合いと言えば睡蓮には汕枝か、世話を焼いてくれる女官達ぐらいなのだが……意味が無いかもしれない事を相談するべきなのかが、もうわからないのだ。
頭がごちゃごちゃとしてすっきりとせず、他所ごとで気を逸らそうとして本の続きでも読もうと手に取っても、一切集中が出来ずに時間ばかりが刻々と過ぎていった。
どうやっても日中の事が頭に浮かんで離れないまま、時刻は夕刻。女官達が用意した夕餉を並べ終わると、頃合いを見計らったように秋雪が姿を表した。
天擂は夕餉の時には決して顔を出さない。汕枝も基本的に食事時になると姿を消す為、夕餉は秋雪と二人きり。
最初の頃こそ緊張していた食事の時間も今では慣れたもの。しかし今日ばかりは、睡蓮は
「睡蓮、私との食事はつまらないでしょうか」
その瞬間まで呆然としていた睡蓮が、はたと顔を上げた。離宮の食堂で円卓を囲んだ先。演習場で見た乱れた姿は無く、長い白髪を結い上げた眉目秀麗な顔が睡蓮を真っ直ぐに見つめる。心なしか、その顔は笑顔ではあるのだが何か孕んでいるような……そんな張り付けたような笑みだった。
「いえ、そんな! 申し訳ございません。少々考え込んでしまいまして……」
睡蓮は慌てて弁明をして、胸中の困惑を晒したように困り顔になる。
「演習場で
言い当てられて、睡蓮は思わず返す言葉に詰まった。特に隠していたわけでもないし、秋雪が見ていたとて何も不思議では無い。
見られていた事実もだが、考えていた事をあっさり見抜かれた事がなんとなく気恥ずかしかった。
誰かに相談したい――話をしたい事柄ではあった。けれどもきっとこの御仁にではない。そう思いながらも、睡蓮は振られた会話と思って昼間の出来事をそのまま伝えることにした。
「明日、都に降りてみようと言われまして」
睡蓮が戸惑いながらも口にした言葉に、端正な顔の眉がぴくりと動く。張り付けた笑みが殊更に固くなったような気がして、睡蓮は困惑から更に続けた。
「あ……今の状況で私が城外へと出るのはまずかったでしょうか」
不況を買ったと思ったと判断したのか、睡蓮は申し訳なさそうに申し出る。しかし、そんな睡蓮に対して秋雪は一つ呼吸を整えるように息を吐くと、再び柔らかい笑みへと戻っていた。
「いえ、睡蓮の身体的不調が無いのであれば外出は問題ありません。此処は貴女が穏やかに過ごせるようにと選ばれた地ですから。それに、もしも不足の事態があっても汕枝がおります。不服ですが、
最後の
「あの、天擂さんは何かしたのでしょうか?」
「いいえ、何も。あの男が雲州に来てから問題行動を起こした等はありませんよ。むしろ見かけによらずの人当たりの良さで、あっさりと周りに溶け込んでしまったぐらいです」
「汕枝も天擂さんが……気に食わないと言っていたので」
「汕枝は気難しいですからね。ほんの少しでも気に触る事があれば、気に食わないと言うでしょう。睡蓮の事はいたく気に入ったようですが」
汕枝からは当初忠告を受けた覚えがあった。初対面の時を振り返るも、『あなたの態度次第では』と言われた後にこれと言って汕枝に変化は無い。
「もし、あの男に至らぬところがあるとしたら、無頼漢のような出立ちでしょうか。一応は明月城で白家の客人の護衛を請け負った立場を自覚はして欲しいですね」
声音こそ睡蓮に語りかける優しさを含んでいるが、放った言葉は冗談混じりなのか本音なのかが判断しかねる。睡蓮はどう返したものかと更に困惑を深めて、縮こまるしかなかった。
「すみません……」
「睡蓮が謝る事ではないですよ」
秋雪は静かに笑う。
「明日は何も気にせず楽しんで来て下さい。それと、都での食事は注意した方が良いかと。舌が痺れて麻痺するなどよく聞く話です」
「香辛料で、ですか?」
「ええ、雲州は辛いもので暖をとると言われている程に辛味が強い食事が多いんです。私は食べ慣れていますが、皇都から見えた方があまりにも辛過ぎて宿に籠ったなんて話も」
秋雪の言葉で睡蓮は今食べている食事へと目線が落ちる。離宮での食事は香辛料は控えめで、何も気にせずに食べていた。今出ている料理も同様で、皇都と多少味付けが違っても違和感があるほどではない。
「あの、もしかして……この食事って」
「出来る限り皇都に合わせています。睡蓮の体調面もありますので、辛味は抑えて薄味にするようにも言ってありますね」
その事実は、睡蓮に衝撃としか言いようが無かった。何気なく食べていた食事。少し皇都と味が違うと思っていただけのものが、自分に対しての気遣いで出来ていたと知れば、申し訳ない心持ちで溢れかえる。
食事も終わり、秋雪が本殿へと戻る頃合い。秋雪が席を立ち睡蓮へと近づいて、睡蓮は気まずそうに視線を上げた。
「あの、私……」
「こんな時間ですが、少し庭を歩きませんか?」
昼間のようにそっと差し出された手。室内を照らす灯籠のお陰だろうか。ぼんやりと橙色に染まったその色が優し気だが男らしい手の温かさを助長しているようで、睡蓮は吸い込まれるようにそっと手を重ねていた。
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