三 焦り③
「それで、今日は何してたんだ?」
目線を逸らしてしまった睡蓮に対して、優し気な天擂の声が耳へと届く。何と尋ねられたところで、特に何も無い。考え込むほどの事もないそれに、睡蓮は目線を天擂に戻して何気なく口を開いた。
「今日も庭園のお散歩と本を読んでいたくらい」
ただの会話。けれども日常を語る口は、味気ない何かを語るように淡々としていた。
「はは、そろそろ変わり映えしない景色に飽きてきたか」
天擂は軽い口調で言ったが、まるで睡蓮の心のうちを暴いたかのようで睡蓮は気まずそうにして目線を上げられなかった。飽きてきたと言われて、当たっているわけではなかったが、否定ができない。
ゆっくりと何もせずに過ごしている日々。
不満はない。けれども、自分が享受して良い日々ではない。
『仙女様、どうか……』
耳の中にこだまする、残響のような誰かの声。それも一つでなく、折り重なった幾えもの声が睡蓮の心へとのしかかる。
睡蓮は膝の上に乗せていた手を重ね合わせて指を組む。
「飽きたわけじゃないの……私、何もできないのにこんな扱いを受けて……」
もごもごと口籠るような話し方で、終始指もいじるように動かして忙しない。
「何か出来ないと駄目なのか?」
「だって」
――私の価値は……
睡蓮は喉から出かかった言葉を飲み込んで黙り込む。物憂げな目は濁り、焦点を捉えない。それを見た天擂が、何気ない顔で言った。
「なあ、睡蓮」
天擂は立ち上がり、かと思えば睡蓮の耳元に顔を寄せる。
「ここで、誰かに仙女と呼ばれたか?」
睡蓮は、目を丸くした。その一言を告げただけの天擂の顔が離れていく。睡蓮はその顔を目で追う事しか出来なかった。
礼儀や敬いのある態度はあっても、確かに『睡蓮様』としか呼ばれていない。睡蓮はたった一つの事実に驚き言葉を失っていた。そこへ精悍で気さくなその顔立ちは、追い打ちをかけるように明朗な声で続けた。
「ここではお前はただの白家の客人だ」
黒い瞳が真っ直ぐに睡蓮を見下ろす。
爽やかな微風が吹き抜けて木陰が揺れて、葉の擦れる音が耳心地よく響いた。その風に促されるように睡蓮は黒色の瞳に視線を返したが、言葉は何も紡げない。睡蓮は言葉を噛み締めるように口を閉ざしながらも、見下ろす天擂の黒色の瞳から目を離せなかった。
風で乱れた髪を抑えようと睡蓮の手がようやく動いたが、それよりも早く天擂の指がそっと睡蓮の髪を撫でた。骨ばった力強いそれとは真逆の優しさ。けれども何処か遠慮があるように、目の前にいるのに遠くも感じる。
そうしてまた小さな風が吹いた。ザアザア――と揺れる梢の重なりが耳心地の良い音を生み出して、風が凪いだ時には天擂の手の感触は消えていた。
「明日は都にでも降りてみるか」
「え、でも」
突然の言葉に睡蓮はポカンと呆けた顔になった。変化、と言う意味では天擂の言葉は妥当なのかもしれないが、睡蓮は言い淀んだまま続きの言葉が出てはこない。
「別に何をするってわけじゃねぇよ。都に降りて歩くだけだ。飯を食うでも良いしな」
睡蓮の手が再び指を組んで、しどろもどろに言葉を詰まらせる。心の中に溜まった何かが、睡蓮を押し留めて歯止めをかけているよう。
そこへ最後のひと押しと言える声が降り注いだ。
「嫌か?」
気さくな声色が放った言葉で、睡蓮はもじもじとしながらも答えた。
「いや……ではないです」
嘘をついたわけではない。汕枝の言う街並みとやらを見てみたいとは思ったのだ。初めての土地で、多くの人が訪れると言う街並み。睡蓮の胸が期待に膨らみ、思わず頬が緩む。
その姿に満足したように天擂の口の端が上がって、かと思えば目線は睡蓮の隣――地べたで腹這いになって目を閉じている虎へと向かった。
「おい、虎。聞こえてるだろ」
無遠慮に投げられた言葉に汕枝は瞼も開けなかったが、
「はいはい、聞いてましたよ。用意しとけば良いんでしょ」
と、お互い様のような無遠慮で間延びしたような口調で返していた。
そんな汕枝の姿に気にする事もなく、天擂は「じゃあ、明日な」とだけ告げて、また兵士たちの中に混ざっていった。
――なんだか、押されてしまったような……
睡蓮は呆然と天擂の態度を振り返る。
耳打ちされただけとはいえ、詰められた距離の近さが今になって睡蓮の脳裏に蘇った。顔のすぐ横から聞こえた低い声。今にも耳にかかりそうになる吐息。
その時は呆然としていたから何も気にしていなかったが、冷静になった今になって途端に気恥ずかしさが込み上げてきたのだ。
――凄く……近かった……
熱くなる顔を抑えて、睡蓮は顔を隠すように再び俯く。
――あれ、天擂さんって……あんな人だったっけ?
睡蓮は天擂との付き合いは長い。それこそ、睡蓮が異能を失ったすぐ後――もう、十年にもなる。
能力を失った睡蓮に罵声を浴びせる輩に対して、ふらりと現れたのが天擂だった。それからと言うもの、治療院に度々顔を出すようになり問題が起こる度に天擂は睡蓮のそばにあり続けたのだ。
見返りを求める事もなく。
その間、天擂が今のように態度をとった事は一度として記憶には無い。
ただの気まぐれがもう十年は続いているだろうか。更には雲州にまで。
天擂の真意が何であれ、睡蓮は意識せざるを得なかった。
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