第三章 疑心暗鬼

一 焦り①

『何の為に皇都まで来たと思ってるんだ! 話が違う‼︎』


『仙女様、どうして息子を助けて下さらなかったんですか⁉︎』


『こんな怪我も治せないとは、払った寄付金を返していただきたいものだ』


『仙女様、どうか……どうか我が子をお救い下さい』


  


 罵倒、悲嘆、嘲笑、哀願。

 様々な声の形を、睡蓮はその身に受け続けてきた。誰かが仙女と呼んだその日から、睡蓮は仙女らしく。能力を失った後も、笑顔を貼り付けて生きてきた。


 ずぶずぶと、心が黒く濁りそうになってしまっても、尚。



 ◆◇◆◇◆



 明月城に滞在するようになって数日。睡蓮の日常は、ゆるりと穏やかなものだった。

 朝、目が覚めると女官が訪れるよりも前に身支度を整えて、汕枝と共に一度目の散歩へと繰り出す。そうして朝食の頃合いには離宮へと戻って、天擂てんらいと共に朝餉あさげを頂く。


 本殿へと入る許可が出たので書庫で数冊本を選んで、離宮に戻り中庭で読書。

 そのまま昼となり、昼餉を頂くと二度目の散歩だ。

 午後の間食を挟んで読書の続きか、三度目の散歩。とにかく、動く事を念頭に置いて、睡蓮は身体を動かす事を優先した。

 

 そうして夕刻にもなると、今度は秋雪しゅうせつが姿を現す。

 秋雪は現在、諸侯代理として城の主を務め激務だと女官達が口にするが、秋雪の涼やかな笑顔からはそれを感じられない。

 そんな御仁と、夕餉を共にする。


 これが睡蓮にとっての大凡の日常になりつつあった。

 まるで病み上がりの日常というよりは、深層の姫のような生活だ。最初こそ、事件の反動で緩やかな日常を満喫してこそいたが――――


「こんな何もしない生活で本当に良いのかしら……」


 離宮の中庭で午後のお茶の時間を前にして、睡蓮は俯いていた。目の前には一口大に切り分けられた豌豆黄ワンドウホアン(※黄豌豆の羊羹のようなもの)が五つ皿の上に盛られ、茶杯には淹れたてのお茶が湯気をたたせて実に香りが良い。


「暫く優雅な生活が出来ると思えば良いじゃない。それにあなたは痩せすぎよ。しっかり食べた方が良いわ」

「だからって、私にはこの生活は分不相応よ」

「あら、あなた第二皇子と結婚する予定だったじゃない」


 的を射た汕枝の返しに、睡蓮の目から表情が消える。

 

「皇子の妃も私には重すぎる。無くなって良かった」


 一切の心残りも無い睡蓮の声は淡白なものだった。そこには未練どころか安堵もなく、むしろ嫌悪すら映る。汕枝は、「そう」とだけ口にして、睡蓮と同じ量が盛られた目の前の豌豆黄をパクリと口にする。汕枝は実に美味しそうに咀嚼して虎の顔は一気に緩み、顎を撫でられた猫のように満足気に目を細めていた。


「私の分もいる?」

「そこまで卑しくないわ。あと、これを食べないなんて人生損をするようなものよ」


 幸せそうな虎の顔が真実を物語っていると思うと、本当にそんな気がしてくるもので。睡蓮は羊羹を一つ摘むとゆっくりと口へ運んだ。甘さは控えめだが、しっとりとした口当たり。そこへ用意されたお茶を流し込めば、口の中は甘いものを口にした後でもすっきりとしていた。


「美味しい……」

「お茶の味はわからないけど、香りが良いのは知ってるわ。きっと良いものなのね。皇都に住んでいても、早々に手に入る生活でもないのでしょう? あなたは何が不満なの?」


 睡蓮は今、自分がどういう生活かをよく理解していたからこそ、分不相応だとしか思えなかった。貴族だとて、皆が皆ゆったりと暮らしているわけでは無い。下級貴族では、更に上位の貴族に仕えるものであるし、上位貴族だとて社交の場は苛烈を極めると聞く。何もせず優雅なひと時を過ごすなど、それこそ皇帝の娘にでも生まれなければ難しいのでは無いだろうか。睡蓮はそんな――本来なら羨まれるような身に余る生活が、ただ苦しかった。

 

「こんなに良くして頂いても、私には返すものが何一つとしてないもの」

「あら、私にも返せないわ。私はただの食客しょっきゃく。仕事が無ければ、ただ飯食らい。しかも仕事が気に入らないと放り出す様な奴よ。それでも慶雪けいせつ様は何を考えてるのか私を食客のまま城に置き続けている。私もそれを知りながら図太く生きてるわ」


 慶雪は秋雪の父――雲州諸侯であると、汕枝は言った。諸侯に気に入られたとなれば、汕枝はただの虎では無いのだろうと思わせる。今の所、ゴロゴロしている姿しか晒していないが。

 そう思うと、確かに汕枝は図太いのかもしれないと睡蓮は納得してしまう。

 

「図太く……」

「今は美味しいものを食べて嫌な事は忘れてしまいなさいな」

「そう……ですね……」


 まだ、落とし所が掴めずに無理矢理腹に納めたような返事をして、睡蓮はまた一つ羊羹を摘む。


 ――美味しい……美味しいけど……


 ――こんな事をしていて、良いのだろうか


 睡蓮の瞳が何かに蝕まれていくようにどんよりと影を落とす。菓子を食んでも、美味とは感じる。だが、それだけ。

 最後の一つを口にして睡蓮がお茶を飲み切ると、茶杯を空にするのを待っていたのか汕枝がスッと立ち上がって言った。


「今日は違う場所へ散歩に行きましょ」

「お城の中は殆ど歩いたんじゃない?」

「軍部にはまだ行ってないわ。もいるはずだし、様子を見に行くのも良いんじゃないかしら」


 汕枝があの男と言えば、天擂の事だ。睡蓮は、なぜ汕枝が天擂を名前で呼ばない。態度に関して言えば、汕枝はお世辞にも礼儀重んじているとは言えず、寧ろ汕枝は礼儀や作法を疎んでいる程。そう言った意味では天擂は似たような手合いの筈だ。


「汕枝は天擂さんが嫌いなの?」


 睡蓮が軽く放った一言の意味を容易に掬った汕枝は、あっさりとした顔で答えた。

 

「嫌いではないけど、気に食わないわね」

「どうして?」

「秘密」


 にまりと目を細めた汕枝の意図が睡蓮には読みきれない。秘密にする意図までは見出せず、睡蓮は考え込みそうになるも「それで、行ってみる?」と、話題を軍部の件へと戻された。


「……そうですね。行ってみましょうか」


 大した決意では無い。今はただ、少しでも胸の靄を晴らす術が欲しかった。

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