四 名前

 現在、この国の皇太子は決まっていない。

 

 候補は二人。それが、顓頊せんぎょく第一皇子と燦潤さんじゅん第二皇子だ。

 どちらもが見識が有り、武と文どちらにも秀でていて臣下の信頼も厚い。

 

 そんな二人にも差はある。

 一つは、母親の身分。第二皇子は皇后の子とあって後ろ盾として強い。方や第一皇子は九嬪きゅうひん淑儀しゅくぎの子とあって、後ろ盾など無いに等しく分が悪いと目されていた。

 

 もう一つは、その身に宿るりゅうだ。

 顓頊第一皇子には類稀なる陽の気を持ち自在に操る才がある。神の祝福と云われる異能に匹敵する力とされ、その才能を無視する事は出来ないという声も大きかった。

 

 両者の立場は拮抗したまま、既に何年と経つ。

 その拮抗を揺るがす材料として第二皇子は睡蓮の仙女としての立場を利用し、婚姻する予定だったのだ。


 睡蓮は自分の命を狙うとすれば、第二皇子と皇太子争いをしている第一皇子だと考えていた。第一皇子が妨害をしているから睡蓮と第二皇子の結婚は数年に渡り先延ばしにされ続けたと言うのもある。


 しかし睡蓮の考えは覆され、呆然としながらも言葉を返した。


「何故、第二皇子殿下は……」

「くだらない理由です。聞かない方が良い」


 眉根を寄せて、白淑の目は怒りを滲ませたように暗くなった。それは当事者である睡蓮の代わりに怒りを露わにしているようでもあった。しかし、その表情もすうっと消えて、あっさりと柔らかい笑みを取り戻す。


「ですので、暫くはこの地でゆるりとお過ごし下さい。その後の事は、しっかりと養生された後にでも考えれば良いかと」

「……はい。あの、私の両親は?」

「現在、皇都で何事もなく過ごされていますよ。大丈夫です」

「そうですか」


 これには睡蓮は安心したように息を吐く。


「他に訊いておきたい事はありますか?」


 問われて、睡蓮は一つ浮かんだ疑問をふっと口にした。


天擂てんらいさんは何故此処にいるのでしょう? 今回の件で巻き込んでしまったのでしょうか?」


 天擂という人物は、一見無頼漢のような様相にも見えなくも無い。だが、治療院へ訪れる悪辣な相手からは壁になったり、邪な者へと睨みを効かせたりと何かと睡蓮の助けになってくれた男だ。

 睡蓮の行動に感銘を受けたと言う訳ではない。本人曰く「手が空いているから、何かしら手伝ってやる」だそうで、仰々しい関係とも遠い。それでも、睡蓮にとって信頼の出来る人物だった。


 睡蓮としては顔馴染みが傍にいる事は心強い。だからと言って、雲州まで足を運ばせてしまったのなら申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 それだけだったのだが、天擂の名前を出したあたりから白淑の表情は再び薄暗く翳りを帯びて、ボソリと呟く。


「名前で呼びあう仲なのか」

「……何か?」

「いえ」


 白淑はまたも睡蓮に向けて取り繕うように微笑む。


「天擂という男に関して、睡蓮様が気を使う必要はありません。睡蓮様がこちらで一人不安な日々を過ごさない為に付いてきただけ。皇都でも暇を持て余していたそうなので、気になさらずとも良いかと」


 微笑みのまま口調も穏やか。だが、言葉には棘が含まれて天擂を忌避するかのような物言いである。

 それは白淑という人物を良く知らない睡蓮にも一目で判然とする程だったが、睡蓮には思い当たる節があった。


 ――天擂さん、いつも通りなのかな……


 天擂と言う人物は自由気ままな気質がある。発言が適当であったり、態度も貴族と対面するには粗野な部分が目立つ。

 弱小とは言え、貴族と知りつつも睡蓮に気さくな態度で接し続ける程。睡蓮としては有り難かったが、それが全ての貴族には通じるとは限らない。

 

「流石にそれは……でも、白淑様の気遣いにも、天擂さんの好意にも感謝します」


 睡蓮にとって本心からの言葉だった。

 見ず知らずの土地、見ず知らずの人物たち、そんな状況では本当に気など休まらないだろう。下手に両親が一緒と言うよりも、ずっと気楽。

 それだけの意味だったのだが――白淑からは何の反応も返ってこない。


「はく……」


 睡蓮が呼びかけようとしたのだが、その言葉を白淑が何気ない顔で遮った。


「睡蓮様は暫くは雲州で過ごされます。その間、何度とお話しする機会もあるでしょう。ですので、白淑などと他人行儀な呼び方ではなく、私の名――どうか私の事は秋雪しゅうせつとお呼び下さい」

 

 睡蓮はぎょっと目を丸くした。


 ――流石にそれは無理が……


 仙女と呼ばれ、第二皇子と婚約関係にあったとはいえ、睡蓮は下級貴族だ。諸侯は州を纏める長。皇帝程では無いにしろ、その権威は絶大である。身分の差は雲泥にも等しい。

 親類、友人でも無ければ、ましてや婚約者でもない。睡蓮は断ろうとしたが、言葉を発しようにも眩しい笑顔がそれを許してはくれなかった。

 言葉を詰まらせた睡蓮は負けを認めるしかなく、遠慮がちにその名を呼んだ。

 

「......それでは......秋雪様」

「はい」

 

 名前を呼んだ、その瞬間のなんとも良い笑顔に良い返事である。


「私の事もただの霍睡蓮で結構です。もう、第二皇子殿下との関係が無くなったのであれば尚更」


 せめて、この地にいる間だけでも穏やかに過ごせたらと僅かな願いとして申し出たのだが――何故だか、目の前の男はやたらと嬉しそうである。


「では、親しみを込めて睡蓮と」


 これ以上ない笑で名前を呼ばれた瞬間、またもや睡運は顔が熱くなるのを感じて視線を逸らす。

 

 ――そう言えば、贔屓の役者絵を買っている人が顔を赤らめていたけれど、こう言う感じなのかしら


 雲泥の差の身分の手前、そのような不埒な考えを捨てなくては。睡蓮は冷静さを取り戻す為か、心の中で天上聖母への祈りを捧げていた。

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