三 白
突如、
「今、宜しいですか?」
穏やかでいて爽やかな男の声だった。「どうぞ」とだけ返事して、ゆっくりと開いた扉の先には透き通るような白髪の青年がそこに立っていた。
眉目秀麗という言葉がすっと頭に浮かぶような整った顔立ちは、確かに嵩天山で見たままのそれだったのだが、瞳の色だけは金色ではなく色素が薄い
――違う人?
あの時に感じた瞳孔の鋭さもなく、別人のようにも感じて睡蓮は小首を傾げた。そんな睡蓮の動揺を察したように、男は柔らかい眼差しで涼やかに微笑みかける。その威力と言ったら、国一番の美女や百戦錬磨の妓女ですら蕩けてしまうのではないだろうか。
男という生き物には慣れていても、美丈夫の微笑みを直接向けられる事には慣れていない睡蓮もそれに当てられてしまったようで、頬がほんのりと赤く染まる。それまで此処は何処なのだろうとか、今の理解できない状況にぐるぐる巡らせていた思考は、慣れない美丈夫の微笑みで完全に止まってしまった。
そんな睡蓮などお構いなしに、男は睡蓮の側に椅子を寄せて座る。そして、流れるような動作で見せたのは揖礼をして平身低頭の姿勢だった。
あまりにも突然で、睡蓮の肝は一瞬にして冷えていく。
「睡蓮様、此度は御無事で何よりで御座いました。本当は正式な場を設け、雲州諸侯である父が直々に挨拶に伺うべきでしたが、少々立て込んでおりまして。私――白
つらつらと。仙女を面前にして身に余る光栄とでも宣う勢いで並べられた文言に、睡蓮は慌てふためく。目の前にいる人物が諸侯子息という事、その人物が今も頭を上げてくれないと言う事実が、どれだけ睡蓮の肝を冷やした事か。
「あのっ、私そんな諸侯様やその御子息に頭を下げられる程の事はっ……」
「あまりこういった仰々しい行為を好まない事は耳にしております。ですがこれは、我が一族が
白髪の男の顔がゆっくりと持ち上がる。その顔から涼やかな笑顔はたち消えて、真摯に睡蓮と向かい合う。しかし、男に対して睡蓮は後ろ暗いのかその表情は沈んでしまった。
「私……感謝されるような事をした覚えは無いんです……」
「覚えてはいないかもしれません。何せ、十年も前の話。当時私はまだ十になったばかりでした」
十年前。それはまだ、睡蓮に
「
「恐らく、睡蓮様が力を失う寸前の事です。私を治療した後、睡蓮様はそのまま倒れてしまいましたから」
睡蓮は目線を上げる。
雪のように透き通る白髪が微風にふわりと揺れて、光を帯びる度に美しく輝く。そうやってじっと眺めていると、薄らと白髪の少年が記憶の中で浮かび上がった。ただ、それでも睡蓮にとって当時救済を施した一人に過ぎず、顔までは思い出せなかった。
「確か、馬車に轢かれた……」
「そうです。当時、睡蓮様に助けを求める者は多く、私もその一人です。そう新しい記憶でも無いのに、完全に覚えているなど無理がある。ですが、私も、父も決してあの瞬間は忘れていません」
ほとんど覚えていないと言ったも同然であるのに、白淑は目を細めて涼やかに微笑んだ。そうしてもう一度、「本当に感謝しています」と拱手をして頭を下げる。
真摯な白淑の姿。純粋な謝辞は心に沁みて、睡蓮は安堵したように胸を撫で下ろした。
「白淑様どうか顔を上げて下さい」
睡蓮の声で、白淑はゆっくりと顔を上げる。
「
「はい。ですが、そこまで辿り着くまでは私一人の力ではございません」
「それでも、私も白淑様によって命を救われたと言えるでしょう。あの時は生きた心地は無く、もう諦めていました。心より感謝申し上げます――ですから、そう畏まらないで下さい」
睡蓮は顔を傾けて、ふわりと微笑む。
「お
その微笑みは睡蓮が仙女と呼ばれる所以を思わせる。今は万全では無いからか儚さも相まって、睡蓮の素朴な可憐さが滲み出た。
「あ……それで、白淑に今の状況と今後についてお伺いしたい事が幾つかありまして」
睡蓮は言葉を続けて白淑に向けて問いかけたが、白淑は固まったまま動かない。
「白淑様?」
睡蓮の呼びかけで、目を覚ましたように白淑の口が回り始めた。
「……いえ、失礼しました。睡蓮様の状況としましては、お好きなようにお過ごし下さって構いません。ただし、外出する際は護衛を付ける事を鉄則として頂きます」
「そう言う事ではなくて……私は嵩天山で妖魔に殺される手筈だと言われました。今も命を狙われているから、助けて頂いた白淑様の元に身を寄せる事になったと言う事なのですよね? それにより婚姻も延期になった……と言う事なのでしょうか」
戸惑いながら言葉を紡いだ睡蓮に対して、白淑はきっぱりと答えた。
「それは違います」
睡蓮は小首を傾げる。
「首謀者は既に捕縛され、白日の下に晒されました。ですが、それにより皇都は混乱し、睡蓮様に
白淑の言葉で、睡蓮の全身に緊張が走った。身体は強張り思わず固唾を飲み込む。
「誰が私を……」
強張った声を察したのか、白淑は言うか言うまいかを悩んで口に指を当てる。だが、決心したように一つ息を吐いた。
「第二皇子殿下です。婚姻は延期ではなく、破婚となりました」
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