二 虎

欠伸をした後では大きな口からは牙が見え隠れして、獣の恐ろしさが溢れ出る。


「はいはい。仕事すれば良いんでしょー」


 しかし、その口から発せられた声はなんとも間伸びした女の声だった。


「別に起こさなくたって、誰かが侵入してきたらすぐわかるのに……」


 ぶつくさと文句を垂れ、更には気怠そうに耳と尻尾を垂らして。かと思えば前足で天擂をその場から力づくで押しのける。


「おいっ」

「はい、どいてどいて」


 のそのそと寝台へと近づいて、天擂が座っていた椅子も前足を器用に使い横へとずらす。漸く場所が空いたと言わんばかりに睡蓮の横に頭を並べるようにして寝台横で寝そべった。


「さっさと行ったら?」


 そう言った口が、再びくわっと大口を開けて欠伸する。あまりにもだらけた姿を晒すものだから、ゆらりと立ち上がって揺れる尻尾まで天擂を追いやるような仕草のようだった。


 やる気が無い姿だが、これ以上構ってはいられないと踏んだ天擂は諦めたのだろう。睡蓮に大人しくしているようにだけ言って部屋を出て行った。

 すると、今にも再び寝入ってしまいそうな姿から一転、虎の首が睡蓮を向く。


「初めまして。一応、慶雪けいせつ様にお願いされて此処に居るけど、あなたの態度次第では私は自分の家に帰るから、そこのところよろしくね」


 まったりとした口調ではあるが、言葉には棘がある。気に入らない人間の側にいられないという意思表示として受け取った睡蓮は、少しばかりピシリと姿勢を正して「わかりました」と返事した。


「あの……お名前は?」

汕枝さんしよ。あと身分とかよく判らないし、話し方は気にしないでちょうだい」


 それは、虎だからだろうか。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、これにも睡蓮は短く「はい」とだけ返した。それ以上は特に言う事も無いのか、再び汕枝の虎頭は床へと戻ろうとした。が、睡蓮が「あのう、」と遠慮がちに話しかける。邪魔をされた事に苛立ちを覚えたのか、眉の無い虎の顔がむすっとした表情を見せた。些細な変化に睡蓮は気圧されそうにもなるが、意を決して言葉を吐き出した。


「あの、此処は何処なのでしょうか?」

雲州うんしゅうしゅうよ」

「え?」

「ちなみに言うと、あなた十五日も眠ってたのよ」

「え?」

「それとあなた今、はく家預かりという立場。此処は州都阿洸あこう明月めいげつ城の敷地内にある離宮なのよ」

「ええ?」


 何がいったいどうなっているのか。働き始めた筈の思考が再び止まってしまったように動かない。

 皇都がある麟州りんしゅうを国の中心とした時に、雲州うんしゅうは西方柑州かんしゅうを超えた先、最西端にあたる。

 睡蓮は皇帝が治める麟州――皇都で暮らし、そこから出た事はなかった。誘拐された時も連れて行かれたのは嵩天山であり、麟州からは出ていない。それが何故。

 睡蓮はもっと教えて欲しいと訴えるも、これ以上の情報は持っていないとでも言うように、そっぽを向かれてしまった。



 それから間も無くの事、部屋に一人の医官と数人の女官が訪れた。睡蓮の状態を診察するや怪我に問題はなく、十日以上もの間眠り続けていた事で少し痩せた事の方が心配だと言って、医官は女官に食事を用意するように告げる。


「今日は安静にして、明日から少しづつ動くのがよろしいかと。暫くは養生して、運動は散歩ぐらいにした方が宜しいでしょう」


 残った傷の処置を終え包帯を取り替えると、医官は足早に去っていく。そうすると今度は医官の手伝いをしていた女官達によって囲まれて、身体を拭かれたり、新しい寝巻きに取り替えられたり、敷布しきぬのを変える為に寝台から移動させられたりと散々に世話を焼かれた。

 

 睡蓮も一応貴族ではあるが、弱小貴族ゆえに使用人はいても基本的に自分の事は自分でする生活しかしていない。囲まれ、構われの状態から逃げ出したい精神を必死に堪えて、されるがままだった。

 それが終わると今度は食事。くたくたに野菜が煮込まれた菜羹さいこう(野菜スープ)と食べられるならと饅頭まんとう(パン)が用意される。

 病人に気を遣った、けれども少しばかり食べ応えのあるそれは十五日も空っぽだった睡蓮の胃によく沁みた。


「睡蓮様、お騒がせ致しました。どうかごゆるりとお休みください」


 一仕事終えたばかりの女官達は仰々しく深々と揖礼ゆうれいして、颯爽と部屋を去って行った。


 ――私、誰かと勘違いされているのかしら


 清潔になった寝台へと戻されたが、十五日も眠り続けてきたと言う事実と、受けた事の無い上客のような扱いからの混乱で、もう眠れそうにはない。

 睡蓮は仙女と呼ばれているが、その殆どが冷やかしである事をよく知っている。もちろん全てではないが、悪意の声とはよく通るのだ。

 『仙女様』と呼ぶ声の調子だけで、相手推し量るのは簡単。しかし、それで相手に態度を変えた事は一度としてない。


 けれども今日、『睡蓮様』と呼ばれる声や態度は、客人と怪我人に対する気遣いだけでなく、目上の者に接するような礼儀も併せ持っていた。


 ――何が起こっているの?


 今いる場所が知れたところで、睡蓮は自分の状況が全くと言って良いほどに飲み込めなかった。

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