第二章 雲泥万里

一 黒

『良いわよね。生まれ持った力がすごいってだけで褒め称えられちゃって』

『ほんと、人生気楽そうで良いわよね。いつもにこにこしているだけで良いんだから』




、どうにも異能ちからを失ったみたいよ。なんでも十日も寝込んだとかで』

『案外あっけなかったわねぇ。今まで散々チヤホヤされてさぞや良い気分だったでしょうに。無様よね』




『一体いつまででいるつもりなんだ? もう大した力も無いらしいじゃないか』

『まともな怪我一つ治せないらしいぞ。それでも民衆を集めて何をやってるんだか。仙女の身分にしがみついてみっともない』

『天上聖母の生まれ変わりという噂も、誰が言ったんだか』



 

『睡蓮、第二皇子殿下との縁談が決まったぞ。お前の過去の功績を汲んでの事らしい。これでお前も落ちぶれた仙女などと揶揄される事も無くなるだろう』

『まったくですよ。もう、嫁の貰い手もないかとヒヤヒヤしましたよ。第二皇子なら、皇后陛下がお前の後ろ盾になって下さるわ。良かったわね』




 記憶にこびりついた様々な悪口あっこうや、両親の心無い言葉が、闇の底を這いずるように睡蓮の耳へと入り込む。

 耳を塞いでも意味はなく、悪意の海にでも溺れていくように睡蓮の身体はずぶずぶと沈んでいく。

 真っ暗な沼の底に沈みそうになったその時、


『睡蓮、大丈夫だ……』


 一抹の光のような、穏やかな声が聞こえた気がした。



 ◆◇◆◇◆



 眩しい光が、瞼の隙間から目に入り込んだ。暖かで、きらきらと輝く日差しで嫌な夢が全て吹き飛ぶような。そんな、若草色の木々の囁きと共に揺れる木漏れ日が、ぼんやりと開けた視界に映り込んだ。


 青々とした若葉と、そよそよと吹き込む風が妙に穏やかで、心をいでいく。睡蓮は過ぎ去る時間も気もする事もなく眺め続けた。

 しかし時間の経過と共に、少しずつ頭が動き始める。


 欠片を集めて繋ぎ合わせたように、つぎはぎだらけの記憶が頭の中で形になっていく。

 より鮮明に。見たものも、感じたものも、臭いも、音も、痛みも。恐怖心までも呼び起こしそうになり、睡蓮の身体は飛び起きた。


「私っ……‼︎」


 飛び起きた拍子で身体を支えた手首がチクリと痛んだ。そういえば右手首を脱臼したのだったか……他人事のような感覚で自身の手をまじまじと眺めてみるが、そこには包帯が巻かれて何も見えず、僅かな痛みが残るだけ。

 その僅かな痛みが睡蓮に起こった事が夢では無いのだと知らしめ、同時に恐怖から助かったのだと実感させた。

 

 そうしてもう一つ呼び起こされるものがあった。最後の――助かった瞬間の白髪の男。


 ――あの人は……


 あれは、誰だったのだろうか。そんな事をぼんやりと考え始めた矢先だった。


「睡蓮、大丈夫か?」


 低くもはっきりとした男の声。だが、睡蓮にとって聞き覚えのある声だった。睡蓮の顔は自然と声の方へと向いた。


天擂てんらいさん……」


 ボサボサの伸ばしっぱなしの黒髪の男。近くで見れば、その精悍な顔立ちと気さくな姿は睡蓮の良く知るものだ。見てくれだけでは破落戸ならずものにすら思われる風貌と大きな体格。しかし今は睡蓮が眠る寝台の横で椅子に座って、見た目とは反した物憂げな眼差しは思い詰めたかのよう。


「無事で良かった。身体は……痛む場所はあるか?」


 男――天擂は睡蓮にとって、友人と呼べる人物だった。その姿だけで夢の中の悪口など吹き飛んでいくような気もして、睡蓮は安心からほっと小さな息を吐く。


「大丈夫だけれど……」


 身体は至る所に治療を施したであろう湿布や包帯が巻かれている状態だったが、腕が軽く痛む程度で特に痛みは無い。

 馴染みの顔を見た事で随分と頭も冷静になり、そうすると次に考えるのは現在の状況だった。

 誘拐され、死にかけ、誰かに助けられの目紛しい状況は過ぎ去り、今は何処に居るかも判らない。

 

 窓から見る景色に覚えはなく、自分の家ではない事だけは確か。

 おそらく身分が高い者の邸宅だろう。その一因として、睡蓮が今いる部屋は病人を寝かせておくだけにしては間広く、使っている寝台も、調度品も見るからに全てが一級品。更には高級そうな敷物の上には眠る姿の大きな虎の置物まで。


「私、どうなったの? 何があったの?」

「落ち着け。取り敢えず、お前が目を覚ました事を報告に行かねえと」


 天擂は立ちあがってその場を離れようとしたが、睡蓮の手が遠のきそうになった袖を摘んでいた。


「……待って」


 誰かが傍にいる事を知って、それが消えると考えた途端に睡蓮は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。一人になるとまた、何か起こるのではないかと。

 しかし、慌てる睡蓮に天擂は冷静に振り返る。キュッと袖を掴んだ睡蓮の手を優しく握った。


「大丈夫。ここは安全だ」


 睡蓮を諭すようにゆっくりと。それでいて穏やかな顔つきが発する声は睡蓮の心に優しく響いた。無骨だが、その体温は確かで徐々に睡蓮を落ち着かせた。そうしてまた、穏やかだった顔が崩れて人当たりの良い明るい男のそれへと変貌する。

 睡蓮がよく知る、いつもの天擂の人相だった。

 

「それにだ、男の俺が睡蓮と二人きりじゃまずいだろ? 気づかなかったかもしれんが、あそこでぐーたら寝てる獣はお前の護衛だ」


 そう言って、天擂は自身の背後を指差す。そこにあるのは虎の置物の筈だ。

 睡蓮はちらりと視線を虎へと流し、暫し見つめているとぴくりと耳が動いた。

 

「え? 本物? 生きてるの?」


 虎が護衛とは如何なるものなのか。寧ろ危険なのではと、睡蓮はあたふたと視線で訴える。

 

「まあ、皇都じゃまず会う事はないもんな」


 天擂はもう一度、「大丈夫だ」と囁いて睡蓮の手をそっと袖から外した。そのまま、虎へと近づいていくと徐に胴体をペシペシと叩く。見ているだけで肝が冷えていく行為に睡蓮は恐々と顔を引き攣らせた。


「おい、睡蓮が起きたから俺は報告に行ってくる。お前が傍についてろよ。良いな」


 天擂の声か、無遠慮に胴を叩く行為か。目を覚ました虎の頭が忌々しげにむくりと持ち上がり、くわっと大きな口を開けて欠伸した。

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