三 死に物狂い

 絶望にも似た感覚が心を覆い尽くそうとした瞬間、睡蓮はもがいた。

 

 恐怖はある。

 身体は震えて、思うように身体は動かない。

 それでも、ただ死を待つだけにはなりたくはなかった。

 後ろ手に固く縛られ、ましてや男の力。容易には解けないだろう。それこそ、縄抜けの術でも必要になる。


 ――そう言えば、関節を外すと縄抜けが出来るって誰かが言っていた……


 ふと思い出した記憶が脳裏を過った。怪我を治療に来た軽業師が軽口に言っていたような……そんな曖昧な情報を頼るべきでは無いのかもしれない。しかし、他に手段は無いのが現状だ。

 睡蓮は一度込めていた力を抜いて、深呼吸をする。足が縛られたままでは均衡が悪いが、それでもゆっくりと立ち上がった。

 括り付けられた縄にそう長さは無い。縄をピンと張るまでぴょんぴょんと兎のように跳んで繋がれた木と距離を取る。


 ――多分、痛いのだろう。けれどもきっと死ぬよりは痛くない


 そんな決意を腹に据え、睡蓮は手に負荷が掛かるようにして上体を前のめりに一気に力を込めた。

 ビンッ――と縄が張って、ギリギリと縄が締まる。縄が手首に食い込んで、縄が擦れる。痛い、痛いと身体が訴えて、何度とやめてしまおうかと考えるが、ちらつく死が睡蓮を焚きつけ続けた。そして――

 

 ゴキッ――と嫌な音が、山に響いた。同時に勢い余って足を滑らせ、叩きつけられるようにその場に倒れ込んでしまった。


「う……くっ……」


 痛い。

 顔も頭も地面に打ちつけた影響の痛みなのか、地面に擦れて皮でも剥けたのか。そこへ右手首が異常なまでに痛む。けれども、鈍いが手首を動かそうと思えば動く。どうやら狙い通りに脱臼はしたようだ。が、僅かに手首を動かすだけで痛みは右手から睡蓮の脳にまで突き上げて、しかも倒れた痛みまでもが身体に覆い被さるように襲った。

 それだけでも、睡蓮は目眩で気を抜いた瞬間に意識が飛びそうだった。しかし、涙が出そうになるたびに唇を噛んで堪える。まだ、生きる事を諦めたくなかった。


 睡蓮は身体を起こして後ろ手を確認れば、僅かだが縄が緩んでいた。思い通りに外れない事に落胆をしながらも、手を捻じるようにして何度と引く。

 引き抜こうと力を入れる度に、何度と叫び声を上げそうになる。痛みと疲れで脂汗が浮かんだ。

 何度と可動域の少ない腕を捻り、漸く縄から腕が抜け睡蓮が僅かに喜んだ。

 

 それと、同時だった。

 ゔぅっ――と、低い唸り声が睡蓮の耳を掠めた。


 恐る恐る、顔を上げ声の方へと視線を向ける。

 鼻で茂みをかき分けるようにして、現れたのは黒い獣。

 土を、草を、落ちる葉を踏み鳴らし、大きな体躯を見せつける。息は荒く、異形である事を指し示すかのように、瞳は赫赫かくかくと妖しく光っていた。


 犬にも狼にも見える。しかも、大きさは睡蓮を軽く一飲みできてしまいそうなほど。

 牙を剥き出し、喉を鳴らし、人間を嫌悪するような敵意。その敵意の向かう先は、考えるまでもない。

 きっとこれが妖魔だ。まだ見ぬ未知なる存在が恐怖と共に明確な存在へと変わる。


 同時に、逃げる算段が無意味なのだと思い知らされた。足の縄は解けていない。兎のように跳んで逃げるのも無理だろう。

 その証拠に、妖魔らしきその獣はゆっくりと。しかし確実に睡蓮へと近づく。

 迫る脅威に最後まで足の縄を解こうとした。解けたとして逃げられるのかもわからないと理解しても、生きようと必死に手を動かす。

 だが、脱臼した右手はまともに動かせず、一向に縄が解ける気配は無い。


 そして――――


 睡蓮の顔に、獣特有の生暖かい息が浴びせられた。

 睡蓮の額から冷や汗が滴り落ちる。山に一人取り残されたと知った時よりもずっと強く、心の臓が警鐘を鳴らして視線は縄を見つめたまま指の先一つも動かす事は叶わなかった。


 恐怖で浮かんだ『死』という文字が、最後に残っていた気力を全てを飲み込んでいく。

 睡蓮は瞼を閉じる。一縷の望みもないそこで、睡蓮は願う事しか出来なかった。


 ――天上聖母様、どうか……


 そんな敬虔な姿すら飲み込もうと、妖魔が大口を開ける。禍々しい黒を宿した口が、閉じようとした時だった。


 ゴオオォォッ――


 まるで、落雷の如きの轟音と衝撃が睡蓮の耳を劈き、地を揺らした。

 一体、何事か。迫っていた筈の死は一向に訪れず、睡蓮の瞼がゆっくりと開かれる。

 そこには既に妖魔の姿はなく。

 正確には妖魔だったもの――へしゃげて肉塊となった黒い塊があるだけだった。その上には妖魔に剣を突き立てた背を向けた男が一人。

 長く一つにまとめられた白髪が優雅に揺れるが、その身は闘志を纏い、同時に殺気を漂わせていた。

 それが恐ろしい事なのかどうかの判断をする余力は睡蓮にはなく、自然と口は動いた。


「……誰?」


 怯えと疲れがどっと襲って声は掠れた。それでも聞こえたのか、男が振り返る。雪のように透き通る白い髪が映える端正な顔立ちの若々しい青年。目は鋭くも、優しさを潜ませた金色の瞳が睡蓮のそれと交わった瞬間、それまで張り詰めていた緊張の糸があっさりと切れて、睡蓮はそのまま気を失った。

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