2. ポプラの木
「斎条寺くんっていうんだね」
彼女はベッドの上でこういった。
「へへ、知らなかったなぁ」
「知らなかったというよりも、僕近所に住んでますし」
「そうだよね」
黒髪ロングは、窓の外を見ている。
「私、ここのホテル泊まるの初めて~」
俺の目に黒い影が落ちる。
「いいんですか、旦那さんがいるのにもかかわらず」
「うん、いいよいいよ、どうせ嫌われてるし」
こういうのをネコナデ声というのだろうか。
「結婚して何年目だっけ私」
「なんかいじめられてるみたいですよ」
「誰が? 私?」
俺は俯いて、換気扇の音を聞いていた。
「ポテト食べようよ~、斎条寺くん~」
「僕が買ってきます」
黙って、扉が閉まり、廊下の無音が恐ろしく体に響いた。
俺は水分補給のために、自販機で天然水を買う。
そして、そのキャップをゆっくりと開け、飲んだ。
ポテトってうまいのかな。
廊下に敷設されている椅子に座りながら、まあ、買わなくてもいいか、とぼんやり思考する。
斎条寺さんの家にピンポンをしたものの、告白をしつつあきれられた俺は、彼女の車に乗せられ、そして、彼女の優しさによって開花させられる。
車に乗せられ、どっかしらのホテルに泊めさせられ、いたらぬことをし、俺は天然水を買い、今に至ると。部屋に戻れば、俺は彼女に別れを告げ、さようならをしなければならない。
でも、そのためには、自分の心に整理をつけ、ポテトを買いたいと言った彼女の心をスルーをし、今までのことを全部なかったことにしなければ、ならない。
子供がいるのにもかかわらず。
「じゃあ、僕はなんなのよ」
彼女の子供になりたい。
俺は立って、ポテトを買いに行く。
そうして、彼女にポテトを買った俺は彼女の所有物となる。
「おかえり~」
ポテトを持った俺を見て、満面の笑みで微笑む八九寺さん。
「エッチのあとだけど、こんなに食べられるかな~」
「よくしゃべりますね」
「うん……そうだね」
八九寺さんは黙ってポテトを食べる。
「だって、すごい勢いだったんだもん」
「黙ってて下さいよ」
「え~、どうして?」
まるで、学校の同級生だったかのような無邪気さで、八九寺さんは笑った。
「子供いるよ、私」
見てれば分かるよ。
「帰ろっか」
八九寺さんは笑った。
「嫌です」
「へ?」
「帰しません」
絶対やだ絶対やだ絶対やだ。
俺は急に川の奈落の底に突き落とされたかのような気分になった。
八九寺さんはぼんやりと俺を見つめる。
「そんなに、旦那が嫌なら、僕と付き合って下さい」
「そんなの、作り話だよ」
「もし、そうだとしても、それが作り話だったとしても、僕は、あなたと付き合いたいです」
八九寺さんはますますぼんやりとした。
「いい、え、あ、どうして……?」
「どうしてって好きだからです」
「好きって何が?」
「あなたのことがっ」
「子供はどうしたらいいの~?」
ええ、どうしたらいいの、と泣きそうな顔になる。
「捨ててください」
「捨てないよ、子供は」
「そうなんだ……」
「子供と君は違うよ~」
「じゃあ、兄弟とかいますか、その子」
「いないよ、一人っ子だし」
「そうですよね」
「かわいそうでしょ」
かわいそうかさだかは別として。
「実はね~、本当は旦那さん嫌いなんだ~私」
八九寺さんのひきつった笑い顔がなんとも心に沁みた。
「お給料は、あるんだけどね、なんでなんだろ、上手くいかないんだぁ」
「それを僕らの世界では暴力と呼ぶのですけど」
「うん……わかってるんだけど、そうなんだけどさ、」
八九寺さんは表情を変え、俺の方に居直った。
「やっぱり、私のこと好き?」
俺は彼女の手を振りほどこうとしたが、できなかった。
「好きでしょ」
俺は自分の腕を見た。
「ごめんね、やっぱり」
八九寺さんは俺を車に乗せ、八九寺家に帰ってきた。
「あ、どうも」
地味目な旦那さんだった。
「何してんの」
「遊びー」
「……」
「どうも」
旦那さんは眉を顰める。
「どっか行ってきたんだろ」
「ホテルにお邪魔しまして」
旦那さんは口をへの字に曲げた。
「何も……してないよね」
「何もというのは」
「うちの奥さんのこと好きなの?」
旦那さんの眉が八の字に曲がる。
「優しいから、すぐ狙われちゃうのかな~」
旦那さんはははと笑い声を漏らした。
旦那さんは八九寺さんの後をつけた。
俺はポケットの中のレシートを片手で握りしめた。
そして、駅に向かって続く道を俯瞰しながら、その道のりを歩いた。
屍人の恋 栞田青衣 @mayuneko0214
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