episode25
控えめな雨音で目覚めたその日は起きた瞬間からいい日になると確信していた。彩の場合、いい夢を見た日は寝起きが良い。たまに来る確変みたいに一日笑顔でいられる日。羽が生えたように体が軽い。
『やばい、今日絶対いい日!』
ベッドの中で咲矢にメッセージを送った。彩は用事がないと連絡を取る方ではないが、咲矢には知らせたかった。
全ての試験が終わり、無事に夏休みを迎えたはいいものの、高校の頃のように部活もなければ、受験勉強もなく、暇な日々だった。それでも今日はバイトがあるだけまだましだ。朝食を軽く済ませて、鏡に向かう。
いつもの手順でベースを作り、あたたかいブラウンに筆を置きかけて、手を止める。引き出しから出した、大事な日に使うピンクのアイパレットで、目元を彩る。アイラインはいつもより少し跳ね上げ、まつ毛はマスカラで丁寧に長さを出す。すっと上に伸びる華やかな目元は今の気分を表していた。
家を出ると、夏らしい水色の空に、雨が少し降っていた。晴れ空に雨が降るのが、彩は一番好きだ。天気すら自分のために晴れてくれたんだと思うくらいには起きてからずっと浮かれていた。Lillyまでの道のりでも、駅で誰かが置きっぱなしにした新聞を捨て、電車では上品な老婦人に迷わず席を譲った。人を助けると、助けられた人より、助けた人の方がいい気分になるというのは本当だと思う。
バイト中も、いつもはゆり子さんに任せっぱなしの、話が説教くさいお客さんにも笑顔を引き攣らせずに対応できた。
「彩さんいいことありました?」
菫が途中のラテアートから目を離さずに聞いてきた。
「確変きてるからね。いいことだらけだよー」
彩はパンを仕込みながら答える。
「へえ、なんですかそれ」
「起きた瞬間から気分いい日ってない?世界全て自分のためにあるーっ、みたいな。それ今日なんだよ」
「なんかいいこと起こるんですか?」
抽象的な表現に、菫はまだ腑に落ちていない様子だ。
「いいことっていうより、逆に絶対悪いこと起きないなってわかる感じかな」
「やっぱりわかんないです。少なくとも今日ではないですね」
菫の持つトレーの上には微妙に歪んだラテアートが乗っていた。彩にしては上出来だが、菫が作るには珍しい出来栄えだった。
「私が運ぶよ」
彩は不服そうな顔の菫からトレーを奪い取り端に座るカップルの元へ届けた。それからは、お客さんもまばらになってきて、菫にカウンターを任せ、彩はその後ろで膝立ちで在庫の補充していた。外から見たら菫が一人で店番をしているように見えるだろう。
「彩さん、交代します」
「いいよ、もう終わるから」
「そんな、悪いです。やりますから代わってください」
補充をするときの体制は少しきつい。足のこともあってゆり子さんにはさせられないので、彩と菫でするようにしている。
「わかった。ありがと、菫ちゃん」
「じゃあ、足りないもの裏からとってきますね」
彩が立つやいなや、菫は足早にカウンターを後にした。その時だ。入れ替わるように木製のドアが空き、入ってきた人物から目が離せなかった。その人は、席に座る前にこちらを見て言った。
「ブレンド一つお願いします」
「はい、、」
白土蓮斗だ。もう会うことはないと思っていた彩の初恋の相手。あまりの衝撃に生返事になってしまったが、彼は気にせず窓際の席についた。マラソンを混じり切った後のように息が詰まる。彩は震える手でコーヒーを淹れながら考えた。先ほどの対話では彩のことは気づいていない。中学生以来の再会、どう話しかける?店を出るまで気づかないふりをするか?いや、そんなことはできない。もうこれが彼に会える最後のチャンスかもしれないのだ。答えが出る前にコーヒーは出来上がってしまった。
蓮斗は彩に気づいて驚くだろうか。再会を喜んでくれるだろうか。足まで震えそうになるのを必死で堪えて、蓮斗の元に向かった。
「お待たせしました」
彩は蓮斗の前にそっとカップを置き、彼を見つめる。
「ありがとうございます」
蓮斗はスマホを置き、顔を上げた。
彼と目が合う。
何か言わなければ、伝えないと。伝えたい、ずっと好きだったこと。今まで忘れられなかったと。想いは苦しいくらいに溢れているのに、言葉にできない。
「あの、大丈夫?」
先に話したのは蓮斗だった。魂が抜けたように、そこから動かない彩を見て、心配しているようだ。
「会いたかった、、」
やっとのことで伝えた言葉は消え入りそうにか細い。今にも泣き出してしまいそうなのを必死で堪えた。
「え、、?」
蓮斗は眉を寄せて聞き返す。
「ずっとずっと、会いたかったんだ」
精一杯の笑顔でまっすぐ目の前の蓮斗を見つめると、彼は焦ったように目を泳がせた。
「ごめん、僕たち、どこかで会ってる?」
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