episode9

 顔が、かっこいい。勇気を振り絞って、今までの自分を振り切ってやっと開いたのはパンドラの箱だった。そりゃそうか。人を好きな理由にドラマティックなきっかけも理論的な説明もないよな。好きな人にあんな顔させる男が一体どんなやつなのか。いや、あんな顔させてしまったのは俺か。

 彩の何かを我慢している時の泣き笑いの顔を見るのは二度目だった。


♢ ♢ ♢


「結城、ノート見せて」

これだけが、自分に許されている結城との接点だった。英語の授業は、毎回新しい文章を和訳しておかなければならない。クラブチームで毎日サッカーに打ち込んでいた中学生時代、帰って机に向かう時間を取ることは難しかった。まあ、あまりやる気がないのも関係しているが。

「今日忘れちゃって」

「え、そうなの?じゃあ一緒にやろ」

またとないチャンスに胸を高鳴らせ、ノートを開く。しかし、彼女は動こうとしない。

「どうした?」

「あの、これからは他の子に頼んでくれない?正直、迷惑だから」

「え?俺なんかした?」

「ーーは悪くない。ただもう話しかけないで」

 いつも以上に抑揚のない冷めた態度だった。あまりの衝撃に何も言えず立ち尽くしていると、結城はちらりと俺の顔を見ると教室から出てしまった。その時の顔がずっと忘れられない。

 のろのろと席に着くと一部始終を見ていた隣に座る河井美杏が、自分のノートを見せようかと提案してくれた。軽く断ったが無理やりページを開いて机の上に乗せてきたので、仕方なく借りることにした。

「彩ちゃんと仲良いよね、珍しくて気になっちゃった。あの子が男子と話すとこ他には見ないからさ」

 美杏はこのことが聞きたくてノートを押し付けてきたようだ。

「よく同じクラスになるからね」

「そうなの?美杏、四小だから初耳だ。」

 俺が通う中学は、同じ市内の三小と四小の子供たちが合併して通うことになっている。真面目で、勉強熱心な生徒の多い三小と仲良く明るい生徒の多い四小は、地域では‘頭三小、友四小’などと言われている。

「でも俺、怒らせたみたい」

 ため息混じりで言った。

「彩ちゃんってだいぶ冷たい対応するよねって女子の間ではよく言ってるよ。あんまり気にしなくていいんじゃないかな」

 美杏は慎重に言葉を選んでる様にいった。もしかしたら、あまり人と連まない彩は女子グループの中でよく言われていないのかもしれない。

 早くも和訳を完成させた英語のノートを閉じる。もともと英語は得意科目なのだ。見るふりだけしていたノートを美杏に返す。

「ありがとう。助かった」

「いいえーー、美杏ので良かったら明日も見せたげるよ」

「大丈夫。白状すると、これは結城に近付くための口実だったんだ」

「そのセリフ、なんか彩ちゃんのこと気になってるみたいだね」

 少し挑戦的な美杏のセリフに、まあね、とシンプルな返しをした。そのまま立ち去ろうとすると、「待って」と声がかかった。

「言うか迷ったんだけど、、」

 こう切り出され、次の言葉は良くないことが容易に察せた。

「彩ちゃん、ずっと前から好きな人がいるって噂あるんだ。態度が変わったのは、その人と付き合い始めたからかもね」

「、、そう」

 なんの意地か、取り乱したと思われたくなくて、平静を装って答えた。本人に聞かないとわからないことだが、その日一日、結城の顔をまともに見ることはできなかった。

 そして一週間ほど経った頃、もしかしたらもっと短かったかもしれないが、結城と目も合わない日々、クラスの男連中の中で、ある噂が回り始めた。

「クラスのマドンナ、結城彩に彼氏ができたらしい」

 これ以上傷つきたくなくて、俺からも結城と距離を取ることにした。

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