第10話 魔物

 クルトが指揮する工兵部隊は、湖に巣食う魔物の対策を協議していた。

 しかし、話し合いは行き詰まり、長く重苦しい沈黙が訪れていた。

 その沈黙を、ル=シエルが破る。

「毒は…どうだろう」

 絞り出すようにして、ようやく口に出した彼の言葉に、クルトが唸るようにして答える。

「毒は難しいだろう…魚は意外に匂いに敏感だし、毒の成分が水に溶け出して、勘付かれるかも知れない」

「それなら、動物の胃袋に仕込んだらどうかな?奴らは、丸呑みするみたいだし」

 クルトは、幼馴染の顔を見て、片目をつぶった。

「やってみよう!」


 ル=シエルたちは、毒を集めに森を散策した。トリカブト、行者大蒜の球根、イヌサフラン、鈴蘭、ドクゼリなど、幸いその手の採取には苦労しないで済んだ。

 問題は、それを仕込む動物の方だ。カヤネズミやリス程度では、別の魚類に捕食されてしまう。図体のでかい相手が、腹の足しになると思えるほど、大きな獲物である必要があったからだ。


 ドシン、と土の上に頭胴長1.5mに及ぶ、大きな猪の体が落とされた。

 丸太に四肢を縛り付け、獲物を担いできた四人は肩を揉んで身体を休める。体重は150kg近くになる、まごう事なき大物だった。

 狩りを得意とする者たちが、取り囲んで弓を射ったが、弱まる気配は無かった。仕留めたのは、クルトの槍だ。鹿などとは異なり、猪は怒り狂うと我を忘れて突進を敢行する。相手が逃げないとなれば好都合、とばかりに、猪の前に踊り出した彼は、猛進する猪の正面から、ポールアックスの切先をその眉間に突き立てた。猪の頭蓋はとても頑丈で、穂先はそれを貫いた代わりに、中ほどで折れてしまった。


「得意満面だね」

 ル=シエルが、兵たちから喝采を浴びる彼を茶化した。

「本来なら、これだけでお手柄、というシーンだがな。そっちの方は、どうだ?」

「オーガーだって、10回は殺せるよ」

 ル=シエルは根拠のない数字を語るが、それだけ自信があるのだろう。

「上々だ」

 クルトが振り返ると、なんと兵士たちが、猪に群がって来ていた。

「おい、おい。先にお前たちが味見する、なんて言い出すなよ」

「…ダメですか?」

「少しくらい…」

「脂身だけでも」

 兵士たちは、口ぐちに懇願を始めた。思えば、この三週間は保存食と山野草の他には、小鳥にリスに小魚が、ほんのひと欠片程度、口にできただけだ。その食生活で、兵たちは力仕事を文句も言わずに続けて来たのだ。

「待てよ…ひょっとすると、傷があった方が、匂いで誘われるかも知れないな」

 クルトがそう発すると、兵たちは小刀を抜いて猪に群がった。

「うひゃ…」

 ル=シエルが手で目を覆う。

 クルトは、慌てて人混みの中に脚を突っ込み、割って入った。

「ダメだ、ダメだ!もう、終わりだ!そこまでにしろ!」

 何人か殴りつけて、ようやく大人しくなった。


 毒草を軽くすり潰し、麻布で包むと、棒で胃袋まで押し込む。喉から毒素が漏れ出さないよう念の為、丸めたオイルコットンを喉の奥に詰めて蓋をした。

「食べに来てくれるといいけど」

 心配するル=シエルに、クルトは自信ありげに言う。

「近くに放ってやるさ。絶対に気づくようにな」

「放るって…人間三人分はあるよ。一体、どうやって…」

「あれを、使うのさ」

 

 湖面に影を落としながら、140kgに目減りした大猪の体が宙を飛ぶ。

 多くの兵士たちが、堰の上に集まり、その様子を見物していた。

 着水した大猪は、豪快な水飛沫をあげ、一度バウンドしたかと思いきや、次の瞬間に巨大な口に呑まれた。

 魔物が猪の影を追って、水面まで浮上したのだ。

 見物人たちは、おぉと感嘆の声を上げる。

 飛沫をあげて、体を反転させた魔物は、水中へ潜り…それきりだった。

「ああやって、鷹を捕えるのかもな」

 クルトはそう呟くと、手を叩いて兵たちを追いやる。

「あれだけの獲物だ。さぞや体が重くなってるだろう。作業を再開するぞ」

「一日くらい、待った方がいいんじゃない?」

 ル=シエルの提案は最もだったが、クルトは却下した。

「だめだ。さぁ、柵を補修して、水をかき出すんだ。水があると、破城槌の威力が弱まる」


 補修は半日も経たずに完了したが、浸水した水はけ柵の中から、水を抜く作業に丸一日を要した。木の隙間にタールを塗れば楽であったが、今は粘土を詰めるしかない。それでも完全に水が止まるわけでは無い為、状態を保つには夜も休みなく水を抜く必要がある。

 クルトは、再び配置転換を命じた。

 湖に巣食う魔物の他にも、夜の森にはどんな魔物や蛮族が潜むかも知れない。交代で水抜きをする番に加え、警護もつけた。いよいよ本隊が戦闘中となれば、この堰を利用しに山の民が軍を連れてくるかも知れない。その為の防衛任務の人数を3倍に増やした。

 ようやく、臨戦体制が整ったのだ。


 しかし、その日はロロ=ノアからの合図は無かった。

 そう、都合の良いタイミングである訳もない。

 その夜、月は雲の上からぼんやりと光っていた。クルトは寝付けずに番屋を出て、崖に腰掛けると、ピエレト山がある方向を眺めた。

「寝ておいた方がいいんじゃない?見張り当番がいるんだし」

「来ると思ったぜ」

 振り向かずに、クルトはル=シエルの声に応えた。

「え…何だい、あれは?」

 夜の闇の中、ポツポツと灯る赤い光点がある。まるで大きな星のように、強くなったり、弱くなったりしながら、3つほどの灯りが山影の中に揺らいでいる。

「おそらく、夜襲だ」

「どっちが襲われてるの?」

 クルトは、弱い月明かりをほんのり照らし返す、ル=シエルの青白い顔を見下ろした。

「お前は、戦さの話になると弱いな。考えてもみろ」

 ル=シエルは、むくれて言い返す。

「なんだよ。辺境騎士団が山の民の番屋を襲ってると言いたいんだろ?でも、逆かも知れないじゃないか。番屋を築いた騎士団が逆襲に遭っているのかも知れない」

 クルトはため息をついた。

「火を好むのは、いつでも攻め手だ。山に住んでいる者たちが、火を使いたがるわけがないだろう」

「相手の足を止めるために、使う時だってあるじゃないか」

「お、言うじゃないか。いいぞ。だが、それも無いだろう。逃げる時に火を放つと、誰もそれを消さないかも知れない。追っ手は、火の延焼なんて放っておいて、追撃に躍起になるだろうからな。それに、同時に数箇所で、同じ手段を使っているのはおかしい」

「つまり、辺境騎士団が、番屋を一斉に攻めているって事だね」

「おそらくは、そうだ。こっから見えない場所でも、襲撃は同時に行われているだろう。今夜は、“俺たち“が攻めている」

「あっ」

 ル=シエルが声を上げた。

「これが、アレだって事はない?」

「なんだよ、アレって…あっ」

「無くはないよね?」

「いやぁ…どうかな、違うだろう…『それと分かる方法で』と言っていたぞ」

「ちょっ…大事な事なのに、いい加減だな。どんな合図か、ちゃんと聞いておかないからだよ」

「そんな雰囲気じゃ無かったからな…」

「クルトは、大事なところで抜けてるんだからなぁ…」

 首を蚊に刺されて、クルトはボリボリと爪で掻いた。


 番屋の夜襲を目撃してから二日後の午前、見張りの兵は、ピエレト山の手前の嶺から、天にのぼる狼煙を発見する。

 報告を受けたクルトはそれを目視し、直ちに決壊の段取りに移った。

 堰には破城槌の作業員だけを残し、皆退去。いよいよ、シーヴォルフの真価を発揮する時が来たのだ。

 兵たちの頭からは、魔物のことなど、もうすっかり消え失せていた。

 長きに渡る重労働の末、いよいよ、作戦実行の時が来たのだ。

 太いロープで構造上の目一杯の限界点まで持ち上げられた槌は、クルトが振り下ろした剣の合図によって、重力の法則を取り戻す。


 内臓まで揺るがすような、激しい衝突音が山間にこだました。

 石を積んだ堰の外まで退避した者たちは、固唾を飲んで見守るが…変化は起きなかった。

 クルトが危険を顧みずに、堰を登って水はけ柵の中にある要石を覗き込む。

 湖の外側では、岩に変化は見られなかった。

「もう一度だ、ひっぱりあげろ!」

 その場で指揮を取り出す彼の姿を、ル=シエルはおろおろしながら見守る。

「まだだ、もっとだ!」

 クルトの額からあご先に、一筋の汗が流れ落ちた。

「…よし、落とせ!」

 再び剣を振り下ろすと、耳が割れんばかりの高い音が響く。衝撃波を受けたクルトの頬が、ぶるッと震えた。

 しかし、それでもまだ、岩に亀裂は見られない。

「こちらは、粉砕されています!」

 堰の頂上から、湖側の様子を見てきた兵が、報告した。

「わかった。もう一度だ。お前は、退がれ!」

 堰の上の兵を退避させると、三度、槌を振り下ろした。

 音が変わった。

 低く、鈍い音を立てて、槌が先ほどよりも深くめり込んだのが、ロープの角度で知れた。

「どうだ…まだか?」


 パンッ…パンッ…と弾けるような音が、聞こえてくる。


 クルトが見つめる中、要石に一筋の亀裂が生まれた。

 岩の中央を縦に走った一本の線は、やがて二本、三本、六本と増える。

 岩が飛び、水が吹き出した!

 それは急激に量を増やし、堰全体が音を立てて揺らぎ始める。

「やばッ」

 クルトは堰を走り出す。

 見ると、ル=シエルが何か叫んで、大きく手を振っているが、背後からの水流の音と、岩がぶつかり合う音に消されて聞こえない。堰の岩がずれ、クルトは足を掬われて転んだ。無数の岩が積まれた巨大な堰が、まるで流体になったかのように、大きくたわむ。粉々になった要石は、水圧に負けて押し流され、足場を失った堰の岩たちも、次々と水に運ばれて消えていく。

 土台を失ったシーヴォルフが、傾いだかと思えば、瞬く間にロープが引き裂かれ、粉砕し始める。砕けた丸太の束は、まるで吹き飛ばされるかのような勢いで、下流へと流されて行く。


 人工の堰は崩壊した。

 中央部分が上から下まで、すっかり消失し、とめどなく水を放出している。

 吹き出した奔流は、堰の下にあった池を飲み込み、渓谷を濁流の渦となって降ってゆく。

 轟音と、水しぶきの中、全身をずぶ濡れにしたクルトが現れた。

 安全な場所まで辿り着くと、やれやれと、尻餅をついた。

 兵たちは彼の元へ駆け寄り、手を差し伸べて立ち上がらせた。

 そして、手を取り合って健闘を讃え合う。

 やがて堰の端も崩れ始め、水飛沫が地面を削り始めた。

 この場所も危ない。

 慌てて、防御柵の近くまで避難すると、兵たちは改めて隣にいた者どおしで、身体を抱き締め合う。

 土を含んだ黒い濁流は、渓谷を猛烈な速度で下る。


 だが、達成感があったのも、束の間のことだった。

 この下流では、どのような大惨事が起きるものか。

 その結果に、辺境騎士団も巻き込まれはしないだろうか。

 何をどう危惧しても、すでに水は止められない。

 どうやっても、もう水を戻すことは出来ない。

 あまりに凶悪な水の力を目の当たりにして、兵たちの心に不安が襲っていた。


「魔物だ!」


 瀑布と化した堰の轟音で、最初の犠牲者の断末魔は虚しく掻き消された。

 兵のひとりを丸呑みにした魔物は、濁流から逃れ、まるで蛇のように身をくねらせながら、陸に上がって来る。

 兵たちは知る。

 自らが構築した二重の防御柵と、二重の堀を背に、逃げ場を失っていることを。

「そんな…毒が効かなかったのか?」

 ル=シエルが悲痛な声をあげる。

 魔物の背後に、濁流に飲まれて暴れる、別の魔物の姿が見えた。そいつは、流れに逆らいきれずに、泥と水と共に、渓谷を落ちていく。 

 兵の手からポールアックスを奪うと、クルトは魔物に向き合った。

「一匹…だけじゃ、無かったんだ」

 目の前の魔物は、以前に襲撃して来たものよりも、一回り大きく見えた。ざっと体長20m超、体高は2mほどか。堰の上まで飛び上がり襲ってきたものは、差し詰め縄張りを追われた弱者だったのかも知れない。そうであれば、三週間の間、無事に作業が出来ていた理由にも頷ける。

「俺が、時間を稼ぐ。その間に、協力し合って柵を越えろ!」

 魔物は、次の獲物としてクルトを選んだようだ。長く太いヒレを地につき、ゆっくりと彼に這いずり寄る。瞳は、魚というよりも、トカゲに近い。その瞳が、半透明な白い膜に覆われた。それは下瞼から現れ、瞳全体を包み込んで上瞼で止まった。乾いた土に腹を擦り付けても、陽光に鱗を焼かれても、一向に怯む様子も見られない。

 陸上にも、適応しているのだ。


 クルトの周囲に、兵たちが槍を構えて並び立った。

「お前たち、何してる。早く逃げろ」

「クルト卿こそ、今のうちにお逃げください!ここは、我らが守ります。人数で押せば、なんとか!」

 お前たちが逃げてくれないと、俺だって逃げられないだろ…クルトは内心毒づきながら、口角を吊り上げた。逆に、瞳には覚悟の火が灯る。

 ル=シエルは目を瞑った。心を異界へと繋ぎ、精霊たちに願いを届ける。

『さすらいゆく者たちよ、大空に満ちたるシルフたちよ、大気の層を持ってこの者たちを守っておくれ』

 クルトたちは、自分たちの周りに旋風が渦を成し、同時に耳が圧迫されるのを感じた。

 魔物は、のっそりとした歩を緩めることなく間を詰める。10mほどの間となったところで、クルトが突撃を命じた。槍を構え、30名ばかりの戦士の一団が、雄叫びを上げて突進する。

 あと3mほどまで迫った時、クルトは慣性と膂力の全てを込めて、魔物の鼻先へ穂先を叩き込まんと、大きくポールアックスを掲げた。


 刹那、魔物が急激な速度で、体を回転させた。

 空と地面が回転した。


 圧縮された空気に耳がやられ、キーンと高い音を立てている。

 気がつけば、地面に仰向けになり、空を見上げていた。

 ちらりほらりと雲の浮かぶ空には、光の粒が舞っている。

「くそっ」

 状況を理解したクルトは、地面に拳をあてて身を起こした。

 数十人の兵士たちが、折り重なって地面に倒れていた。

 魔物を探す。

 一瞬前までは、眼前にいた魔物の姿が、20mほど離れていた。背後には、丸太を頑丈に結束した防御柵がある。革鎧を着た防衛担当たちが、弓を射かけているが、硬い鱗に覆われた魔物は、それに怯む様子も見せずに、ゆっくりと歩を進めて、にじり迫る。

 ル=シエルが駆け寄り、クルトの背を支えた。

「無事かい!?精霊が吹き飛ばされたんだ。あれは、ただの魔物じゃないよ!」

「水竜と…そう、呼んでいます」

 クルトの脇に倒れた者が、苦しそうな声で語りかけて来た。

 見覚えがある。番屋で湖の話をしてくれた、あの男だ。男は立ちあがろうとするとが、どこかを痛め、身動きが取れないらしい。額からも血を流している。

「じっとしてろ…誰か、こいつを運んでやれ!」

「皆が、これ以上…恐れてはいけないと思って、黙っていました。水竜は、川で千年を過ごし、その後…海に出て100mを超える巨体となるそうです」

「そうか、ありがとうよ」

 クルトは笑を浮かべながら、立ち上がった。

 そんな伝承を、今になって聞いたところで…クルトは思った。

「どの道、相手がやる気なら、倒さないとならんな」

「クルト…」

 ル=シエルは彼を助け起こしながら、ハッとなって幼馴染の顔を見上げた。

 その身体が、震えていることに気がついたのだ。

 クルトもそれを認識し、手のひらを見た。

「一瞬、気絶した所為で、気合いが抜けちまったらしい」

 膝、腿、腕を叩き、最後に両の頬をバチバチと威勢よく叩く。

「動ける者は、怪我人を背負って退避しろ!ここは、もう俺ひとりでいい!」

 落ちていたポールアックスを拾い上げると、その長さと重さを確かめるように、手の中で二、三度軽く放り上げた。そして、水竜の方へと歩き出す。

 その手を、ル=シエルが引き留めた。

「何してんだ、柵の外に出て向かい打てばいいじゃないか!」

 クルトは肩をすくめて見せた。

「柵が持つと思うか?それに、弓が効かないんじゃ、やりようがない。槍だって、致命傷は難しそうだ」

「だからって、ひとりでいく必要はない!これは、辺境騎士団の戦いだろ!?」

 ル=シエルの頭に、大きく逞しい手が乗せられた。

「俺はこの剣にかけて、ここにいる部下たちを守りたいんだ」

 手に力が込められ、ル=シエルは引き剥がされた。

「それと、さっきの術は、もういい。耳が変になって感覚が鈍る」

 背中でそう伝えると、彼は巨大な魔物に向かって歩き始めた。

 その姿を、弓をつがえていた兵たちも、柵を乗り越える途中であった兵たちも、その瞳に焼き付けんとばかりに動きを止めて、ただ見つめた。


 クルトは、水竜の前にひとり、立ちはだかる。

 ベルナデットのトリスケルを意味する、ホーリープレイを1回。

 距離は5m。

 蛇のように体をバネにして飛びかかれるとすれば、すでにその射程にあるかも知れない。

 ポールアックスを腰だめの位置に、地面と水平に構える。

 ポールウェポンにも奥義がある。これはその一つ、毒蛇の構え。

 腰を少しだけ落としたクルトの身体は、まるで地面と一体化したかのように、ずっしりと安定している。

 気迫。

 水竜が、それを感じたのかも知れない。本能が、彼を警戒させるのだろうか…水竜は絶え間なく、ゆっくりと体をくねらせながら…しかし、頭の位置は、これ以上、1mm足りとも近づこうとしない。

 クルトは気づいたか…水竜は、じわりじわりと、体を縮ませていることに。

 クルトのわずかに開いた口元から、小声が漏れ出した。恐怖と緊張からか、それとも極限の集中からか、自分でもそれと気付かず、彼は水竜に語りかけていた。


 どうした…ん?相手はひとりだ。さぁ…来い、来いって!俺をひと呑みにしてみろ…やれっ。


 水竜の全身に一瞬の震えが走り、腕のような長いヒレが、土にめり込んだ。

 予備動作。

 瞬時に、差し渡し2mを超える口腔が、クルトの足元の土を攫いながら、身体を丸ごと呑み込んだ。

 ル=シエルも、兵たちも、声にならない悲鳴をあげた。

 人間が、対応できる速さでは無かったのだ。

 成す術もなく、シュヴァルツシルトの騎士は水竜に呑み下されてしまった…かに、見えた。

「あれを、よく見ろっ」

 兵士の誰かが、指を差した。

 水竜は首を振って、暴れだす。

 口の中には、ポールアックスをつっかえ棒にして堪える、クルトの姿が見えた。

 先端の穂先と、反対側の石突が、水竜の口に刺さり、口を閉じることができずに、水竜は苦しむ。クルトは手を離すと、口の外に飛び出した。だが、鏃のような歯が、彼の肌着を引っ掛ける。

 水竜が首を振り上げた拍子に、肌着が破け、彼の身体は宙に舞い上がった。

 クルトの視界には、濁流が突き進む、深い渓谷が広がっていた。


 落ちる…。

 誰もが、叫んだ。

 彼の身体は谷底へ向けて緩やかな弾道を描き…突然、空中で止まった。

 突風に煽られた身体は空中で回転し、そこから彼の身体を真下の地面へ向けて落下させた。

「痛でぃッ、くそ、またかッ」

 ル=シエルは、精霊の力添えに感謝した。

 後頭部を摩りながら、クルトは水竜の姿を確かめ、ほくそ笑んだ。

「いつもそうやって、丸呑みしてるから、顎が弱くなるんだ。少しは反省…」

 ポールアックスの柄が砕かれた。

 しかし、それでも完全には口が閉まらない。

 生き物にとって、口は生命線だ。手足が無い者ならば、尚の事。すっかり戦意を失い混乱した水竜は、この場から遠ざかる事を優先し、逃げ出してきたはずの、濁流の中へと身を投じた。

 巨大な魔物は姿を消し、土を削りながら渓谷へと落ちる瀑布の音だけが残された。


 堰があった淵まで進み、水竜の姿が無いことを確認したクルトは、拳を上げて合図した。

 それを見た兵たちは、鬨の声を上げた。

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