第6話 敵地

 シャルルの細長い髭に汗が伝う。

 それは先端までくると、落ちまいとして必死に髭にしがみつくが、主人が身体を動かすものだから、髭がしなり、努力虚しく落下する。岩へと落ちたそれは、苔に吸われて見分けがつかなくなる。

 彼の身体は、滅多にそんな事はないが、極限状態に限っては発汗する。雑食性である事に加えて、彼がうさぎに似て非なるものである事の証明のひとつと言えた。

 だからと言って、自分の汗にそれほどの意義を見出せるものではない。

 労働の汗、運動の汗。それらを趣向とする者もいるが、シャルルはそのどちらも好まない。汗もかかずにいられるに越したことはない、と思うのだ。それを怠惰だと断じるには、いささか早計すぎる。全身に純白の体毛を纏った者にとって、汗がいかに不快なものであるか…彼の苦悩を想像してもらいたい。


 ナタで切り開かねば歩くこともできない、藪と岩だらけの山の中を、ひたすらに登ったり降りたりを繰り返していた。

 同行しているのは、15名ばかりの騎士たちと、その団長である白き“姫“、そしてシャルルの連れである、女剣士アンリエット。

 薮は、行く手を遮るだけでは済まず、岩だらけの足元を隠し、棘のある枝を忍ばせる。

 何度も足を挫きそうになり、下半身の体幹を支える筋肉はすっかり力を使い果たしてしまっていた。体幹に疲労が溜まると、踏ん張りが効かなくなり、つまづいたり転んだりと、岩場で身体のバランスを保つことが難しくなってしまい、打ち身が増える。

 疲労ならば、まだマシだと、シャルルは心の中で毒づいた。いつもならば、ずっと悪態を吐き続けているところだ。最初は、いつも通りにそうしていた。だが今、口に出さないのは、喉が渇いているのと、疲労が限界を超えている事の他にも、さらなる理由があった。


 一行は常に、左手に崖を見上げながら歩いている。時折、木影が薄れると、その上の様子が垣間見れる。狭い山道から落ちそうになりながら、大きな荷物を抱え、立ち往生する人々の群れ。

 ここは、敵の総本山であるピエレト山の麓なのだ。

 つまり、敵の足元。

 山の民は、シャルルにとっての敵では無いが、相手からすれば、きっと区別はないだろう。見つかりでもすれば、辺境の騎士団共々、仲良く吊るし首になること請け合いだった。そんな道を黙々と歩いて、かれこれ二刻にもなる。日は高くなり、もうすぐ正午になる頃合いだ。

 聳える崖とは反対側の右手を眺めれば、夏の山岳地帯の絶景が広がる。高みにある山肌は、木々がまばらで、山野草に飾られた大きな岩が無数に顔を出し、所々に見られる住居の屋根と、整えられた段々畑の模様が美しい調和を見せている。自然の雄大さと、人工物のコラボレーションだ。

 時折吹く谷間の冷たい風が、今は何よりも、ありがたい。


 木漏れ日を白く反射させながら、ゆらゆらと騎士たちの影が、静かに進んでいく。シャルルの目から見れば、全身甲冑を着込んだままの登山など、彼らの正気を疑わざるを得ない。

「なぁ、なぜ水平に歩く?敵情視察だと思ったが、そうでも無さそうだし…何が目的だ?夜まで待てないものなのか?それとも、何かを探しているのか?」

「ウサちゃん、しーッだよ。そう言われたでしょ」

「なんでお前が、そう従順なんだよ」

 昼間の方が、生活音で市街地の住民にバレ難いのかも知れない。だが、もし木々がまばらなところで、下を覗かれでもすれば、簡単に見つかってしまうように思えてならない。甲冑を着た騎士たちは矢を防げるかも知れないが、彼の体毛は滑らかな手触りが売りであり、生憎、矢を弾くよう出来てはいない。

 一体全体、何の意味があるってんだ?

 まさか、肝試しでもあるまい?

 シャルルは、ここに至った経緯を思い出し、選択を誤った自分を呪った。


 時間を少し巻き戻す。

 剣の神の信奉者だと語った地元民の二人の背中を見送った後、シャルルたちは騎士団の使いに出会い、その案内に従って彼らの宿営地まで足を運んだ。

 彼らの宿営地は、独立峰の麓近くに、これみよがしに焚き火を起こし、背の高い物見櫓を拵えていた。さぞや大軍が屯しているのかと思えば、騎士数名と、わずかな軽装歩兵たちしか、そこにはいなかった。少数精鋭なのかも知れないが、騎士団の無謀ぶりに呆れた。

 こんな状態で攻め込んで来られたら、あっという間に全滅だ、と戦に疎いシャルルでも危惧したくらいだ。できれば、そんなシーンに巻き込まれる前に、ここを立ち去りたいとも思った。


「お前らは、あの時の女剣士たちだな」

 綺麗な形の口髭を蓄えた、いかにも貴族です、と言わんばかりの騎士が彼を出迎えた。少し気掛かりではあったのだが、一騎打ちを演じた相手に対しての彼らの対応は、予想に反し穏やかだった。

 古来より、正当な一騎討ちというものは神聖なものとされる。ましてや、女騎士団長と渡り合ったアンリエットに対しては、特に友好的だった。シャルルにしてみれば、主人の命を狙った相手にフレンドリーに接することができる精神の方が、どうかしていると言わざるを得ないが、まぁそこは文化というやつなのだろうと納得しておく。何事にも紳士的を心情とし、争い事よりも平和を愛して止まない彼は、相手の顔を立てるためにも、ここは大人しく歓待されるままに許した。


 柵で守られた宿営地の中心部には、さらに柵で仕切られた区画があった。本陣というものだろうか。そこでは、神官の治療を受ける怪我人たちがいた。すでに小競り合いが始まっているのだろうか。

「あら、貴方たち。まだ諦めていなかったの?」

 出迎えたのは、くだんの団長だった。大将自ら、気さくなご対応に感謝だ。

「早く戦争を終わらせてよ。それとも何か、手伝う?」

 うぉい!何を軽くのたまう!?

 シャルルはアンリエットの尻に両足で飛び蹴りを食らわせてやったが、びくともしない。この安産型め…シャルルは心の中で毒づいた。

「これから山の裾野を一周するところよ。暇なら、一緒に来る?」

 女騎士団長は、シャルルの突拍子もない行動を見てみぬふりをし、アンリエットにそう提案した。

「行く」

「ちょっと待て、アホか?いや、アホは今に始まった事じゃないな。でも一瞬でいいから考えろ。山の民と戦っているんだぞ?戦闘になるだろ!」

「流石に、戦闘は避けるわよ。足を引っ張らないよう、静かに着いて来られるのなら、だけどね」

「君が行くなら、私も行くよ。だって死なれたら困るもの」

 戦闘は避けるわよ、の一言で避けられるものなら、世の中に“奇襲“や“不意遭遇戦“なんて言葉は生まれなかったはずだ。剣技が達者な事は先刻承知だが、なんとも能天気な司令官…いや、違う。シャルルは、野伏たちから“姫“と呼ばれていた騎士団長を見上げた。

 初見では、剣で殴り合った。二人が顔を合わせるのはこれで二度目で、まだまともな会話すらしていない。しかし、アンリエットは、すでにこの女にコントロールされているのでは、ないだろうか。

「止めないのか?」

 シャルルの思考を、側にいた栗色の髪の若い騎士に妨げられる。

「止めたいさ、当たり前だろ」

 両手を広げ、首を縮めながら、若い騎士は言った。

「やれやれ、常識人はいつも苦労役に回される…お察しするよ」

「ウサちゃんも行こうよ?」

「おぃ!俺が行くわけないだろ!目的もまだ聞いていない。いや、聞くだけ時間の無駄だ。ただの危険の塊でしか無いピクニックに、何の義理があって付き合わないといけないんだ?山の住民とは、戦争中なんだぞ?」

 すると、アンリエットはシャルルの耳をちょいとつまみ上げて、高く美しい声でハミングを始めた。

「あなたの耳が〜役に立つ〜♪」

 女騎士団長は、手をパンと叩いた。

「決まりね、その娘のお目付役として、あなたも同行して頂戴。耳がいいなら、打ってつけよ」

「俺は部下じゃねぇ、領民でもねぇ、ついでにご覧の通り人間でもねぇんだ。人の法に従う義理も無いご身分なんだ。御免だ、御免。お宅らの斥候に捕まる程度の能無しだよ、俺は。ひょっとして見て判らんのかも知れんが、剣を持たせても戦力にはならないぜ。脚しか切れないからな。誠に僭越ではございますが、お役には立てませんので、ご辞退させて頂きます」

「お礼に食料を分けるわ」

「お生憎様、まだ在庫はございますので…」

 回れ右をして立ち去ろうとした彼の首もとに、使い古された長剣の切先が当てられた。見上げると顔にべっとりと血糊を付けた、血色の悪い黒髪の騎士が彼を見下ろしていた。乱れた癖の強い長髪が、汗と血と油に塗れた顔に貼り付き、まるで蛮族の将軍かと疑うばかりの不気味な威厳を発していた。

「残れば、お前が俺たちの朝飯だ。姫も留守、魔剣の剣士も不在とくれば、誰もお前をかばっちゃくれまいだろう?ん?」

 アンリエットに目線を送ると、何故だか彼女は悪さをした子どもを見下ろすような視線を向けている。

「しかし…旨そうな身体付きしやがって、そそるじゃねぇか」

 兵士たちが一斉に笑い出した。

 女騎士団長は、シャルルを見下ろしながら冷たく告げる。

「こんな言い方はしたくないけれど、私たちにとって、あなたの価値は今のところ、馬以下なのよ?知能の高い種族を食料扱いするほど、飢えてはいないけれど、その娘が道中にいきなり襲って来ないように手綱を引いてくれるなら、あなたの価値を認め直して、いくらか優遇するわ。食料だっていつまでも持たないでしょうし、狩りをするにはここらは危険だわ。できれば、遠くに逃げておいて欲しいのだけれど、どうせ、それもしないのでしょう?」

「好き勝手な言い方をして、気に入らないな…いいか?相棒の戦力と、俺の索敵能力を利用したいのならば、もっとマシな説得方法があるだろう!まず、そこを問い…ただしたい…ところだが…」

 首元の剣がくぃと上がり、体毛の下の皮にちくりと刺さる。シャルルは、口調を改める。

「…まぁ本来、即刻、首を刎ねられても可笑しくない“間柄“だ」

 咳払いをして、悪魔のような出立の騎士を牽制する。

「そんな俺たち相手に、寛大な心で接してくれている事には感謝しよう。いいさ、まぁ…早く戦争を終わらしてくれなきゃ、俺らもやる事がないのも事実だ。わずかながらの食料とひきか…おぃ、やめ」

 アンリエットが、シャルルの身体を片手でひょいと掬うと、自分の肩に乗せた。

「やめろ、子どもじゃあるまいし」

「抱っこにする?」

 シャルルは頭を抱えて、反論を諦めた。

「私は辺境騎士団の長、アマーリエ。あなたたちの名前を教えて頂戴」

「アンリエット!」

「シャルル・フーファニーだ」

 アマーリエは、アンリエットの頭上に手を伸ばして、シャルルと握手をした。

「よろしくな、“姫騎士“殿」

 観念した様子のシャルルの言葉に、アマーリエはふっと微笑んだ。


 シャルルは、最後尾から騎士たちの様子を伺う。

 先頭を行くのは、アーメットの中から銀色の三つ編みを垂らした、騎士団長、姫騎士だ。

 その側を歩くのは、黒づくめの騎士。シャルルのことを「美味そうなやつだ」と評したのは、この血色の悪い不気味なやつだ。周囲を警戒する時も、瞳だけを動かしている。物語に出てくるとするならば、それは姫を攫う性悪な騎士役がぴったりだ。

 従者たちは、とりあえず省いて、静かな雰囲気の老騎士。彼は、神官位を示すトリスケルを首から下げている。

 まるで子どものような綺麗な顔の、栗毛の騎士。こいつは、背が低めで、なよっとした印象がある。ひっきりなしに、あたりを見渡している様子からして、こいつが一番、警戒心が強そうだ。

 高価そうな赤い外套を羽織った、貴族然とした細身の騎士。こいつは、落ち着いた性格なのか、周囲をあまり警戒する様子がない。金は持っていそうだが、言葉を発するところはまだ見ていない。陰気なやつなのだろうか。

 口髭を綺麗に整えた、背の高い騎士。彼は、モーニングスターを背負っている。紳士的な風格を持っているが、この中で一番、豪胆さを秘めているのでは、とシャルルは評価した。

 一行の中では、とりわけ存在が目立つのは、ここいらだ。貫禄もあり、きっと騎士団の重鎮に違いない。


 それにしても…とシャルルは考える。これは、どう考えても、異常な行為だ。

 山を登る、裏の道でも探しているのだろうか?

 土地勘が無いのは察しがつく。こいつらは、辺境の外からやってきた来訪者たちなのだから、少しでも地形を知っておきたいという気持ちならば、理解ができる。それならばやはり、探索には不向きだとしても、月の無い夜に忍んで行うべきことだ。

 まるで、遭遇戦を恐れながら、道をひたすらに急いでいるように見える。

 騎士たちは30kg近い甲冑を着たまま、困難な道を黙々と歩んでいる。開いたバイザーからは、激しい息づかいが聞こえたが、それでも誰ひとりとして苦言を述べない。剣で肉を斬り合う連中は、苦痛に対して鈍感なのだろか?


 一行の足が、不意に止まった。

 ボードワンと呼ばれている神官が、神の紋章を模ったトリスケルを手に、祈りの仕草をしている。

 そこには、三人の親子が荷車と一緒に地面に横たわっていた。

 上を見れば、崖の隙間から多くの人がひしめいている姿が見える。喧騒も聞こえて来る。山道は周辺から逃げてきた住民と荷車で、大渋滞しているのだ。人々の波に押し出されたか、あるいは疲労が災いし、足を踏み外したか…一瞬の人生の分かれ目がコレだった。

 岩と重力によって、細かく分解された荷車は、落下のダメージを物語っている。

 シャルルは、姫騎士の顔を盗み見た。

 彼女の表情は、沈痛なものだった。

「戦争屋も、そんな顔をするんだな…」

 誰にも聞こえない声で、シャルルは思わず口にしていた。


 滑落して、一家もろとも命を落としたこの惨状も…家や畑を離れ、難民として根拠地に集まるしかなかった、この山の民たちの暮らしも…そして、これから夫を失う事になる、多くの家族たちの行く末も…全ては、この騎士団の侵略行為に端を発しているのだ。騎士たちが、あわよくばこの戦争に勝利したとして、その後に何が起こる?それは、“勝者の権利“に他ならない。騎士たちは、西方諸国の民だ。辺境の異民族の国など、略奪の対象でしかないだろう。戦場でもてはやされ、光を浴びて活躍する一部の“戦う者たち“の栄光の影には、数多の民たちの不運と不遇が隠されている。

 それがお前たちが生業としている戦争だと、シャルルは彼らに言ってやりたい気分だった。


 騎士たちは、しばしの祈りの後、再び無言の行軍を続けた。

 だが、周辺警戒を怠れぬ緊張した状況の中、甲冑を着たまま悪路を踏破する騎士たちの疲労は、ついに限界を迎え始めた。最後尾を歩くシャルルには、その様子が手に取るように知れた。ふらふらとバランスを崩して、木立にもたれかかったり、木の根で足を滑らせ、岩につまずき足首を捻る場面が増えた。騎士の荷物を背負ってはいるが、武装は軽装備の従者たちでさえ、顎から汗を垂らしながら喘いでいる。先頭を歩く、姫騎士にはこの状況が掴めているのか…。

 ちなみに、アンリエットの様子は相変わらず、だった。目が合うと、楽しそうに微笑み返して来た。こいつは、完全にピクニック気分だ…。それにしても、今となっては、体毛の保温性に悩まされる以外、軽装備の自分がえらく幸運に思えるほどになっていた。

 騎士たちの速度が落ち、徐々に先頭を歩く姫騎士と間が開くようになる。代わりに、最後尾を行く二人組との距離が詰まり始めた。その中に、シャルルの喉に剣を突き付けて脅してきた、黒づくめの騎士がいた。

 シャルルは歩を早め、その隣に並ぶと、声をかけた。

「傷が痛むんじゃないのか?…顔色が悪いぞ?」

 騎士は、顔にかかった黒髪の先を息で揺らしながら、ギョロリ、という感じでうさぎを見下ろした。

 相槌も、返答も無い。

「あんたらの姫は、女にしては珍しいタイプだな」

 青白い肌に汗を滴らせながら、騎士はやはり無言だった。

「危険を恐れない。利発だったり、好奇心旺盛といった女は珍しくは無いが、それでも危険だけは避けるものだ」

「普通の女は、戦場には立たん」

 ようやく、騎士は低く、枯れた声を発した。

「昔から、ああなのか?」

 シャルルは、何気ない世間の話のように話を続ける。

「八歳の頃、人をふたり殺した。ひとり目は、事故のようなものだ。ふたり目は決闘の結果…そのどちらも、一撃で殺したのだ。あれは、そういう風に育てられた。ふふ、素敵な話だとは思わないか?」

 騎士はニヤリと笑って、髪の隙間から片方の目だけで、シャルルを見下ろした。

「鬼の子か…」

「何を言う…真っ当な、領主の息女、レディだ。伯爵家の当主。騎士を従える血筋の子だ。騎士や領民たちを従えるべく、教育を受けて育った。普通じゃ、務まらんのだ。俺の幼少期なぞ、あれに比べれば平凡な人生だったとさえ思える。成人してからの話は別だがな…俺ほど特殊な人生は、他にあるまい」

 危険な誘いに感じた。シャルルは、心の底から湧き出した好奇心を、どうにか退ける。この男には、踏み込んではならない領域がある…そう、彼の理性が訴えかける。

「汗が乾いているぞ、気をつけろ。少し休憩すべきだと、あんたらの領主様に進言してやる。俺が疲れた、と言えば格好も付くだろう」

「ふん。俺に恩を売るつもりか…好きにしろ、俺はどちらでも構わん」

 シャルルは、赤い外套を羽織った騎士と、ふと目が合った。男は、目を逸らす。

 陰気なやつだ…それ以来、目を合わせようとしない。

 シャルルは気を取り直して、歩を早める。騎士たちを追い越すと、姫騎士の横に並んだ。

「だいぶ、無理をしてないか?」

 アマーリエは、問いかけるシャルルを二度見した。

「何?心配してくれてるの?意外…でも、大丈夫よ。腿がもう、上がらないけど…」

 やはり無理をしている。汗を出しすぎて、頬だけが赤くなっていた。

「甲冑ってのは、意外に動けるもんなんだな。俺はもっと、カクカク動くもんかと思ってたぜ」

「可動域はしっかり確保されているからね。それにオーダーメイドで、全身に密着しているから、重さも…見た目ほどじゃないのよ。でも、暑さが…甲冑の中に籠るのだけは、どうにも堪え難いわね」

「もう、ここらで、休んでおけ。後ろの騎士たちも限界のようだ。とにかく、水を飲め」

 アマーリエは足を止め、後ろを振り返った。

「あなたの耳に、敵の気配は感じられない?」

「あぁ、大丈夫だ」

 彼女がアーメットを脱ぐと、従者が布を広げて風を送った。

 自分も疲れているだろうに、従者とはこうも献身的なのかと感心した。

 籠手で顔に張り付いた銀色の髪を押し退けると、姫騎士は頬を膨らませながら、ふーッと息を吐いた。

「水を飲め。倒れるぞ」

「もう、無いのよ…飲んじゃった」

「水が無いのか?あと、どれくらい歩くつもりなんだ?」

 腰に手を当てて、目をつぶってから「半分は超えたかしら」と答えた。

「まだ、半分あるのか…じゃぁ、俺が水を探してくる。少し、休んでおけ」

「水場が分かるの?」

「あぁ、すぐ近くにある。匂いで分かる」

 何かを言おうとしたようだが、彼女は観念したように、木陰に腰を下した。

「そうね、お願いするわ。足を止めたら、急に疲れて来た」

 彼女は手を振り、騎士たちにも休憩を促す。

 アンリエットが、ぴょんぴょんとシャルルの側まで近寄って来た。

「お前は、周辺を警戒しておいてくれ。俺は、水を探してくる」

 シャルルは、自分の背負い袋の中から食糧や荒縄などの道具を出して空にすると、騎士たちから回収した水袋をいくつか詰めた。従者のうち、ふたりがそれに倣い、残りの水袋を分担する。

「じゃぁ、この三人で行って来る。すぐ戻れると思うが、念のため身を隠しておけよ」

 従者ふたりを引き連れて、山を下り始める。

 急斜面を、木立に掴まり、根の上を慎重に歩いて下ると、ほどなくして小さなせせらぎを発見した。

「すごい、こんな近くに…」

 従者たちは、瞳を輝かせてシャルルの赤い瞳を見つめた。

「ちゃんと、俺のことを褒めておいてくれよ」

 やれやれ、これで俺の復権は成った訳だ、と彼は内心で胸を撫で下ろした。今後は、剣で小突かれる事なく、まともな扱いを受けられることを期待するばかりだ。


 鮮やかな色の苔と、小さな砂利石。

 イタチ一匹が入れるかどうかの小さな湧き水の池に、ゆっくりと水袋を沈める。

 喉を乾かした水袋は、気泡をぷくぷくと出しながら、腹の中に冷えた水をたらふく吸い込む。

 ひとつ、またひとつと、半分ほどの量を入れていく、単純作業の時間が過ぎる。

 全部を入れてしまうと、重すぎて斜面を登るのが危ういからだ。

「しかし、お前たちのご主人様も大概な人生を送ってきたようだな」

 小さい水場のため、互いの顔が近い。何と無しに気まずさを感じて、シャルルは話しかけた。

「さぁ、どうでしょう。私たちは、辺境の生まれなので、騎士団長様の過去を知りません」

「なんだ、辺境で合流した口か」

「騎士様たちは、はじめ20名程度しかおられなかったと聞きます。今の軍勢の大半は、騎士団によって解放された辺境の民たちなのです。私の村も、大変な重税を課せられ、毎年多くの餓死にを出していたのです」

「解放者…ね…。それで、軍に参加をしたってわけか」

「恩義もあります。でも、本心は別の目的ですよ。言って分かっていただけるかどうか…」

「試しき聞きたいね」

 従者は、真剣な眼差しをシャルルの赤い瞳に向けた。

「暴力と病が蔓延る辺境の地に、法による秩序と、蛮族と病からの解放…安寧を、もたらして頂きたいのです」

 そう言えば、どこかで聞いた噂があった。辺境の騎士団が、辺境の病を根絶させた…そんな話は、単なる噂話の類だと思っていたが…その時、ふと視界の隅に白い物が映り込んだ。

「まずい、切り上げるぞ」

「まだ、全部では…」

「これだけあれば、急場は凌げる。急げ」

 水袋を背負い袋に詰め、周囲を警戒する。

「くそ、道があるじゃないか。気づかなかった」 

 降りてきた場所のすぐ脇に、土を削って踏み慣らした小さな歩道を見つけた。

「急いだ方がいい。危険だが、道を登るぞ」

 水場の下流に苔が剥げた岩があった。その上に見つけた白い物体…それは、誰かが落とした白い布…つまりは、洗濯物であった。ここは、山の民たちが頻繁に使っている水場だったのだ。

「道は危険では?」

 従者の反論に、シャルルは即答した。

「藪を進んでいたって音で、すぐに見つかるだろう。今は、早く戻れる道を選ぶべきだ」

 ずっしりと重くなった背負い袋を担いで、上り坂を進む。水袋が動いて重心がずれ、身体が揺さぶられる。

 あの洗濯物は、乾いていたか?

 乾いていたのなら、すっかり忘れているのだろう。しかし、まだ濡れているのなら、家に戻った持ち主が、慌てて戻ってくるかも知れない。

 どうだったか…遠目に見ただけでは、分かりようも無かった。

 少し休んだおかげで、肺は空気をしっかり吸ってくれる。だが、足腰の痛みはいっそうひどくなった気がする。段のひとつに置いた脚に力を込め、身体を引き上げることの繰り返しに、膝の裏側の筋と、太ももの付け根と、太ももの筋肉が悲鳴を上げる。振り返ると、従者ふたりは、口を大きく開け、ほとんど目をつぶったまま登っている。

 シャルルの耳が、ぴくりと動いた。

 手を後ろにかざし、身を低める。従者たちも、それに気づいて四つん這いになって階段に伏せた。右手の藪の中で、黒い影を見た気がしたのだ。しかし、今はもう気配は失せている。

「どうしたものか…」

 袋を捨てて走るかどうか、迷った挙げ句、持っていく事にする。もし住民がこの小道を辿った場合、真新しい靴の足跡が残っていた場合と、複数の水袋が落ちていた場合とでは、対応がまるで異なるに違いないからだ。


 休憩地に戻ると、騎士たちに変わった様子は無かった。

 黒い騎士は、座り込んで干し肉をかじっている。

「おい、誰かの気配は無かったか?」

 アンリエットに問いかけると、「?」で返される。

「あー、ならいい」

 従者たちに水の配布を頼むと、姫騎士のもとに行き、何気ないそぶりを装って囁きかけた。

「ここは、危険だ。近くに住民がいる」

「誰かを見たの?」

 シャルルは、洗濯物の話をする。

「ここらへんは、平坦な土地が多いから、もしかすると集落があるのかも知れないわね」

 姫騎士の行動は早かった。水を一口飲んだだけで、一同に手信号を送る。どういう意味かは不明だったが、皆一斉に立ち上がると武装を整え始めた。

「ジャン=ロベール!戻れ!」

 鉄球を手にした騎士が、低く抑えた声で叫んだ。

 一同の瞳が、彼の視線の先へと集中する。

 木立の中を縫うように、一人の騎士が、走り去っていくところだった。高価そうな外套に、やけに落ち着いた態度だった、あの騎士だ。

「マクシムを追って!」

 声に出した姫騎士が、誰よりも先に走り出していた。

 騎士と従者たち、そしてシャルルも、アンリエットも一緒に走り出した。

 このピクニックに嫌気が差したのか?

 理由はどうあれ、住民に見つかると全員に危険が及ぶ。呼び止めたいが、近くに住民がいるかも知れないから、大きな声を出せない。追いついて取り押さえる、それしか選択肢がなかった。異常な脚力を持つ、シャルルとアンリエットたちは、たちまち騎士たちを追い越す。

 木立の合間にちらりと見える騎士の姿は、ほんのりと翠色の残影を引きずる。

 シャルルの赤い瞳は、魔術の痕跡を視覚で捉えることができる。木々が乱立し、足場も悪いこの森の中にあって、あの騎士の足の速さは、異常さを感じた。

 だめだ、このままでは見失う…。

 シャルルは、四つん這いになった。

 茂みの隙間をまるで縫うように、縦横無尽に突っ走り、アンリエットすら引き離す。

 行く手から、人の声を捉えた。

 ゆっくりと速度を緩め、茂みの中に身を隠しながら忍足に移る。

 家だ。

 狭い範囲に小さな家が数軒、木の根に身を寄せ合うキノコのように密集している。

 内、一軒から、息を切らせながら、まくしたてる声が聞こえる。

 どうする…?少なくとも、相手はふたり。片方は完全武装の騎士なのだから、シャルルの手に負える相手ではない。まずは一旦戻って、騎士たちに報告した方が良いだろう。

 そう判断した刹那、扉が次々と開き、褐色の肌の男たちが斧や槍を手に飛び出して来た。

「護衛がいるのか!?」

 男たちは、武器を手に周囲を警戒している。ここにいたら、危ない。シャルルは茂みから抜け出し、元来た道をこっそりと引き返し始める。すると数本の木を隔てて、姫騎士とすれ違った。

「おぃ、待て!行くな!」

 甲冑を鳴らして走る姫騎士は、呼びかけに気付かない。

「くっそ、アンリはどこに行った?迷ったのか?」

 ええいっと地団駄をひとつ踏むと、シャルルは足元の石をひとつ拾う。

「なんで、俺が、騎士団のために…」

 そう愚痴りながらも、姫騎士の後を追うことにした。走りながら、手首に巻いたスリングを解く。

 視界が開けた時、姫騎士はすでに、5人の戦士に囲まれていた。

 男たちは上半身が裸だが、植物を模した刺青から、黄色い光が滲み出ている。なんらかの呪法が宿っているのだ。その力が、男たちの身体を守っている。

 対して、姫騎士の方は、大きな剣にも、甲冑からも白く強い光を発していた。

「なんか、すげぇな…初めて見る眩しさだ」

 手を貸さずに済むものならば、そっとしておけ、と自己防衛本能は告げている。

 姫騎士は5人の内のひとりに向けて、前進した。男が突き出した槍の穂先を剣で撃ち込むと、穂先は下へ外れ、剣先は相手の首元に吸い込まれた。

 シャルルは、赤い瞳を見開いてその様子に見入った。

 防御が、そのまま攻撃に変わった。

 その動きは、緩慢とさえ思えるほど、無駄がなく、着実で焦りがない。

 まるで、そうなることが当たり前であったかのように、男は喉を刺し抜かれた。 

 姫騎士のたったの一挙動で、相手は4人に数を減らす。

 これならば、相手も怯むだろう…とのシャルルの予想に反し、男たちは怒声をあげて士気を高めた。

「まずい…」

 シャルルは、急いでスリングに石を挟んで、回転させる。姫騎士の背後の敵が、手斧を振り投げようとしていたのだ。しかし、斧を投げる手の方が、わずかに早かった。

 斧は男の手から、するりと離れ…シャルルが放った石が、こめかみにヒットする。

 斧はっ…。

 板金を叩く音。

 アンリエットの右手のパタが、手斧を叩き落としていた。

 突然の増援に、男たちの動きが一瞬、止まる。

 アンリエットの動きには、一瞬の躊躇も無かった。

 槍を折り、長剣を掻い潜り、裸の男たちを薙いだ。

 まるで竜巻のようだった。

 姫騎士も、手を緩めずに、白く輝く大剣を振る。

 3回、剣を振ったことは理解できた。大剣が男たちの身体に当たる瞬間に、姫騎士の喉から気合いが漏れていた。それが、確かに3回聞こえたのだ。しかし、シャルルの瞳には、どのように倒しているのか、なぜ、男たちの攻撃が当たらないのかまでは、知り得る事はできなかった。

 白銀と桃色の剣士たちは、ほんの束の間のダンスを、木立のステージで踊った。

 二人は、それぞれ最後の敵を倒した時、互いに向き直る。

 アンリエットは、姫騎士に両の剣を向けている。

「まずい、今じゃないだろッ」

 だが、足は動かない。

 姫騎士ならば、長年求め続けていた、アンリエットの願いが叶うやも知れない…。

「襲撃されたのか!?」

 剣戟を聞きつけた仲間の騎士たちが、やってきた。

 アンリエットは、剣を納めていた。

「怪我はッ?」

「イーサン、家を索敵しろ!従者たちは、周辺を警戒!」

「アマーリエ、無事かい?良かった…」

 騎士たちが家の扉を蹴り開け、しらみ潰しの捜索にかかる。

「大丈夫。待ち伏せだけど、私は平気」

 栗色の毛の若い騎士に、姫騎士はそう告げると、シャルルの方を見る。

「客人の二人に、助けられたわ」

「ふん。では、褒美をやらんとな。人参をたんまりとご馳走してやろう」

 顔色の悪い騎士が、そう冗談を言うが、誰も笑わなかった。さっき見た黒い影は、この男ではない。この男も背は高いが、どちらかと言うと、重量があり、のっそりとして粘ついた印象だ。対して影は、もっとすらっと逞しく、柔らかい体躯をしていた。

「アマーリエ様、ジャン=ロベールの姿がありません。裏口が空いていたので、逃げたのでしょう」

「山の民と内通していたのかも、知れないわね」

「ふん。それしか考えられぬだろうに」

「それにしては、お粗末な襲撃だわ」


 騎士たちが意見を述べ合っている中、シャルルは茂みを調べた。茂みの奥は、深い谷間だ。鎧を来た人間が、ここを降りられるとは思いえない。

 谷間を渡るとしたら、どのルートを辿ったのか…そんなことを想像しながら、目線を遠くへと送る。

 シャルルは、彼本人にしか分からないことだが、その表情を明るくした。

 姫騎士を振り返ると、栗毛の若い騎士と小声で話しているところだった。

「…僕が探りを入れていた事に、勘付かれたのかも知れない…文を書いた形跡はあったのだけれど、その内容までは…」

 山の民と戦争をしながら、裏切り者の心配までしないといけないとは…シャルルは、幻滅した。

 姫騎士が、不意にシャルルの方へと視線を向けた。

 しばし、視線が合う。

 姫騎士は、部下の報告を聞きながら、シャルルの瞳を見つめていた。

 シャルルはひとつ頷くと、目線を谷の先へと戻す。

 そこは、草木が茂った枯山水。

 騎士団たちが宿営地を設けた、水の枯れた山岳渓流だった。

 崖を降りると、赤い外套の騎士が、大の字になって倒れていた。

 息はある。

 目を覚ました彼は「敵を見かけたので、通報されぬよう夢中で追いかけた」と告げた。

 

 何はともあれ、意味不明の敵中散歩は、終わりを告げた。

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