第5話 山の民

「何これ、無茶苦茶美味しい!」

 罠にかかった兎を捌き、鍋で煮込んだ汁を一口飲んだアンリエットは、ガントレットで頬を撫でながら舌鼓を打った。

 二人は、騎士団と別れた後も、まだ山の中にいた。

 引き分けで終わった一騎打ちの二回戦目を申し出るのは、騎士団が山の民の攻略を完遂した後だと決められている。あまり近づき過ぎては、戦に巻き込まれかねない。ピエレト山が望める峰で、しばらく身を潜めることにしたのだ。

「でも、ウサちゃんの方が、もっと肉付きいいよね…」

「俺の血には、毒がある」

「えっ、本当に!?」

「くそっアホ!噛みつくな!俺の味見をするな!」

「味見じゃなくて、毒味だよ」

 剛力の少女の頭を拳で殴り、シャルルはようやく身体の自由を取り戻した。

「身体ばっかりデカくなりやがって…たくっ忌々しい!」

「でも、本当に、ウサちゃんの料理は美味しいよねぇ」

 アンリエットは再びガントレットで頬をさすりながら、左手で汁の杯を持ち上げる。


 その髪には、金属で出来た小さな円形の髪飾りが付いている。

 それが唯一、彼女が身につける装飾品だ。


「当然だ。俺は料理人の息子だからな。港町では、一番の人気店だったんだ。物心着いたときから、包丁を握っていた。俺は、お前なんかよりもよっぽど、多くの生き物を殺め、多くの人々の命を繋いできたんだ」

 うさぎは、小骨をしゃぶりながら、そう答えた。

「パン屋じゃなかったっけ?」

「たまに、物覚えがいいんだな。最初はパン屋で、その後は色々やって来た」

「ウサちゃんは、パン屋さん〜♪」

「あのな…前から言ってるが、人前ではもうその呼び名はやめてくれ」

「んー?ウサちゃん?なんでまた?どしてー?可愛いのにっ」

「品格が落ちるんだ!俺が今年でいくつになったと思う」

「…いくつなの?」

「…いや、数えてはいないが…」

「えー?いーじゃん別に、気にしなければさ、ウサちゃんは見栄っ張り屋さんなのです〜」

「軽く見られたくない!あのな、交渉事は俺の役割だろ。交渉に大事なのは、情報通であり、決済力がある相手だと思われる事なんだ」

「その見た目で言う?呼び名だけで変わるー?」

 シャルルは毛玉のような拳を握りしめ、わなわなと震えた。

「ウサちゃんは、ウサちゃんのままがいいのです。その方が、素敵なのです。そして、私はそろそろ寝るのです」

「おい、たまには片付けくらい手伝え」

「ぐぴー…」

 桃色の髪に膨らんだスカートに鎧を重ねた、不思議な出立の娘は、寝息を先行させながら、地面の上に敷いた毛布に寝転んだ。

 シャルルは、食器に土をかけて油汚れをあらかた落としてから、渓流で綺麗に洗い流した。一通りの片付けが終わる頃、アンリエットは静かな寝息を立てていた。

 夜のしじまに、渓流の音とカエルの声が響く。

 シャルルはため息をひとつ付くと、アンリエットの身体に毛布をかけてやり、その隣に座り込んだ。

 しばらく焚き火がはじける音を聞きながら、ゆらめく炎を眺めていると、眠気と共に、どこかで聞いた声の記憶が、耳元に蘇る…。

『ウサたん、すごーいっ』

 それは、遠い昔に聞いた、幼い女の子の声だった。


 シャルル・フーファニーは、パン屋を営む夫婦に育てられた。

 港が一望できる絶景の立地。貿易商人や働き手たちが行き来する、メインストリート沿いにその店はあった。シャルルを育てた夫婦は、不可思議な姿をしている彼を、まるで実の子のように彼を育て、大きくなると店を手伝わせた。

 その夫婦に、子どもは産まれなかった。

 あるいは、産まなかったのかも知れない。

 父は人間であったが、母はエルフであった。

 父は日が昇る前から仕込みを始め、母は家の用事を済ませた後に、店に入る。整形と薬味、ハーブなどを使ったアレンジは母の担当で、生地づくりと焼きは、父が担当した。シャルルの役目は、パンの陳列と店番。客が来ると工房に声をかける。すると手の空いたどちらかが、店頭へ出てきて対応をする。また、厨房の清掃も彼の役割の一つだった。

 港町だけに、初見の客も多かったが、皆、家族が焼きあげるパンの虜になった。

 シャルルは、店の手伝いを始めようになると、早く自分でもパンを作りたくなった。しかし、父の許しはなかなか出ない。その日の天候、気温、湿度、麦の出来具合などで、水分量や発酵時間などが異なってくる。その経験は、すぐには身につかない、と言うのが理由だった。まずは、そばで見て覚えろ…それが、父の指導方針だった。

 いつしか、シャルルは自分の道具を揃え始める。壊れた道具を捨てずにとっておき、店の二階にある狭い自室でこっそり修理したりした。パンに切れ目を入れるための円形の金属片やら、綿の布切れ、発酵かごまで大事に取っておいた。いつか、自分でパンをこねる時が来るのを夢見て。

 エルフの奥さんと、見慣れぬうさぎ種族が、排他的な思考を持つ輩に、疎まれることもあった。だが、港を利用する者たちは、あらかた地場の者から、あるルールを吹き込まれていた。それにより、一家の生活は比較的にも平穏でいられたのだ。そのルールを作った者たちは、週に二度ほど、店に顔を出し続けていた。

「ウサたんにプレゼント!」

 輝くような金色の髪を、後ろで二つにまとめた少女が、シャルルに包みを手渡した。どう対応したら良いものかと、狼狽気味なうさぎに、その少女の母親が口添えをした。

「今日は、白鯨の神のお祝い日なの。お祝いなのだから、プレゼントを贈るって言い出してね。あなたには別の守護神がいるのかも知れないけれど、どうか良かったら、受け取ってくれないかしら?」

 シャルルは、受け渡された包みを見下ろした。薄手の麻の袋は、桃色の塗料で着色されていた。おそらく、生花から摂れる塗料だ。それほど高価ではないが、色付きの袋など、今まで見たことがない。いったい、中には何が入っているのだろう…。

 もじもじしていると、奥から両親が慌てた様子で出て来た。

 両親が慌てるのも当然、常連客であるこのご婦人は、領主の奥方様なのだ。

 親たちが世辞を述べているのを他所に、シャルルは少女を見た。

 にこにこ笑顔で見つめ返される。

「開けてご覧よ」

 少女に促されて、シャルルは袋の締め紐を緩める。

 厚手の布が折り畳まれていた。広げてみると、それは空色に染め上げられた“前掛け“だった。

「早く一人前になって、私にパンを焼いてね」

 シャルルは声も出せずに、両親を見上げる。

 両親は、彼の頭をポンと叩いて、頷いた。

「ありがとう!新品なんて、初めてだ!」

 シャルルは、笑顔で少女に感謝を伝えた。

「気に入った?」

「あぁ、当然だよ!」

「そ、よかった!」

 少女も、奥方を見上げて微笑んだ。

「私は、ピンクが良かったんだけれど…母様が青いのにしなさい、というから、それを選んだの。でも、母様が正解だったみたい。ありがとう、母様」

 シャルルは、何かお礼を、とポッケから小さな金属片を取り出した。

 それは、パンの表面に切り目模様を入れるための道具であったが、古くなり切れ味が悪いため、シャルルの秘蔵品の仲間入りをした物だ。ところどころ黒ずみがあり、シャルル以外の人が見れば、単なる粗末なゴミでしかない。

「あらやだ、捨てないで取っておいたの?」

 母が恥ずかしそうに言う。

「あ、ごめん。なんでもない」

 ポッケに戻そうとする手を掴まれ、シャルルは思わず身を固くした。

 少女は、その金属片を大きな目で見つめていた。

「私ね、実は父様が領主でなかったら、パン職人になりたいと思っていたのよ。だから、それが、もしパン作りの道具で、もし今、私にくれようとしていたのならば…ぜひ、欲しい!」

「こんなのダメだよ。古いし…刃も付いているんだ。今度、もっと別なのを…」

「私、それがいいわ!それが、欲しい」 

 少女はシャルルの腕をギュッと掴み、彼をどぎまぎさせる。

「よしなさい、シャルル君が困っているわよ」

 少女は譲らなかった。

「父様は、領主の者ならば、手に入れるべき物は、どんな手段を使っても手に入れるのだ、と教わっているわ」

「あらやだ、そんな話を町中で持ち出さないで頂戴。変な噂になったら、大変よ」

 少女が怒られるかも知れない、そう感じたシャルルは、金属片を差し出した。

「あげるよ!本当に、大した物じゃなくて…その、いつかパンを焼いたら…それも持っていく」

 少女は、なんの変哲も無い金属片を受け取ると、それを金貨か宝石かのように両手に包み込み、目を輝かせた。

「ありがとう!パン、楽しみにしてる!」

 両親が丁寧に挨拶をする中、シャルルは去っていく少女に手を振り続けた。


 数日後、再び来店した少女の前髪には、彫刻が施された円形の髪飾りがあった。はじめ、それが先日手渡した金属片だとは気付かないほど、綺麗に磨き上げられていた。

「それ…もしかして、この前の…すごく良くなったね!」

「ふふふ、執事がね、彫刻師に頼んでくれたの。私はそのままでいい、って言ったんだけれども、母様のお眼鏡に適わないと捨てられてしまうからって…ウチってひどいでしょ?だから、飾りを彫ってもらってね、髪飾りとして加工してもらったの。だから、刃はもうないの。父様には、私が町で買ってきたと、執事には口裏を合わせてもらったわ。私の個人的なお気に入りならば、そう易々と捨てられたりはしないから」

 似合う?と言いながら少女は笑いながら身を翻してみせた。

「うん!すごく似合うよ」

 貴族の娘というのも、案外大変な環境なのかも知れない、とシャルルは思った。

「町にでる時は、この髪飾りを付けるね」

 随分と立派なアクセサリーに生まれ変わった髪飾りよりも、シャルルの瞳は少女の明るい笑顔に、吸い付いて離れようとしなかった。


 それから1週間後、深夜に起きた落雷による火災で、領主の館は全焼した。

 逃げ延びる事が出来たのは、数人の使用人のみだったと言う。


 火災の跡は元の姿を想像できないくらいに、めちゃくちゃなものだった。全てが黒い煤で覆われ、咳き込むほどに強烈な焼け跡の臭い。石造りの厚い外壁だけが、元あった豪邸の面影を忍ばせるもので、薄い内壁も、木製の梁と天井も、床板さえも、今では炭の塊でしかない。この建物が、何階建てであったかさえも、判然としないくらいに、ひどい有様だった。

 領民たちから慕われていた証に、焼け跡には沢山の献花が山を成した。これから先の世を嘆く老人。どうか無事に逃げ延びていますように、と神々に祈るおばさんたち。しかし、この頃のシャルルにはまだ、人の死についてはっきりと認識ができていなかった。

 ただ、もう…あの少女は戻っては来ない。

 再びあのキラキラとした笑顔を見ることは叶わない。

 それだけを理解した。


 それから、一ヶ月ほど経った頃、港町に災厄が訪れることになる。 


「全く、嫌な想い出ばかりだ」

 シャルルは、途中から夢を脱し、まどろみの中で記憶を呼び覚ましていた。だが、これ以上は思い出したくもない記憶しかないから、ゆっくりと両目を開く。

 空は、群青色に染まっていた。朝になると忙しなく囀り、森を飛び回る鳥たちは、今はまだ寝床で丸くなっているようだ。

 シャルルは背負い袋の中から、硬く焼き締めたパンを取り出すと、それを苦労して千切る。欠片を口に放り込み、皮袋の水を煽り、口の中で合流させ、時間をかけて咀嚼する。それから、生理現象の大きい方を済ますと、ズボンをたくし上げながら、アンリエットを蹴り起こした。


 今日は、寝床の周辺を散策した。

 目的は、山の食糧を確保する事と、集落が近くにないかを確認するためだ。戦時になると、人々は排他的になる。できるだけ、人里からは距離を置きたい、とシャルルは考えた。 

 意外と近くに、それを発見した。

 何故、集落に気付かなかったのか…草むらに身を潜めて集落を観察したシャルルたちは、その理由を知った。

 畑は、全て根を抜き取られ、麦も穂先がまだ青いまま刈り取られ、そのまま放置されていた。

 穂の中はまだ水っぽく、食べられる時期ではない。

「もったいないね…」

 置き捨てられた穂を調べていると、アンリエットは、切なそうに呟いた。

「一人も、いない…」

 そうだ、誰もいない。

 集落は、生活の痕跡を色濃く残したまま、誰もいなくなっていた。

 民家のひとつに入ると、家財と言えるような目ぼしい物は、無くなっていた。色の変わった床だけが、その痕跡を示す。食糧などの類は、一切見つからなかった。

 シャルルは、不思議な絵を発見した。

 次の家にも、どの家にも、それはあった。

 三角形の頂点に光輪と、心臓を模した図案。三角形は、山であろうか。代わりに、西方諸国ならば、辺境にだってあるはずの、剣の神々の像や、トリスケルがひとつも見当たらない。

 山の民たちは、西方とは別の神を崇めているらしい。

 それを確認すると、今度は民家の土間や床下、家の裏手などを捜索し始める。

「…何してるの?」

 アンリエットが、不思議そうにそれを眺めている。

「これは、焦土戦略だ。家には、食糧はないだろう…あ、井戸の水は飲むなよ!だが、住民ってのは為政者の言いなりとは限らない。必ず、ズルを考えるものだ」

「ウサちゃんと一緒にしちゃ〜失礼だよ?」

「そんな事を言う奴には、食わせてやらん」

 シャルルは、家の裏手の土を掘り返し、地中から油で煮詰められた布の塊を引き上げた。

「干した野菜に、ヒエと粟、おっ。干し肉が少しあるぞ」

「それは〜このお家の人の物なのですぅ〜」

「本当にやらんぞ。もう、ここの住民は戻って来ない」

 アンリエットはしゃがみ込んで、ほぇっと答えた。

「そうなの?分かるの?」

「当然だ。絶対に戻らない。そういうもんなんだ。だから、腐らせる前に、俺たちが頂く。無駄になるのは、勿体ないだろう?」

 シャルルは、別に確信があって言っているわけでは無かった。

「腐ると、お腹壊すのです」

「あぁ、だから…」

 シャルルの長い耳が、ぴくりと方向を変える。

 アンリエットの身体が、矢のように飛び出した。

 薮を飛び越え、隣の民家を迂回し、シャルルの視界から消える。

 尋常でない脚力を誇る彼であっても、異常とも言えるアンリエットの速力には敵わない。

 悲鳴がふたつ…。

 森に入ったところで、アンリエットは伏した男女ふたり組の背中に乗り、まとめて取り押さえてた。

 左手の長剣は、男の喉笛と地面の間に差し込まれ、右手の十字型の刃は、女のうなじに当てがわれた。

「なんとなく捕まえてみたょぉ〜これって正解?」

 鬼神のような襲撃を見せた少女は、間の抜けた声でシャルルに尋ねる。

「…あぁ、満点だ。殺すなよ。聞きたいことがある」

「一人殺すとぉ、口が軽くなるって聞いたことがあるよぉ?」

 シャルルは、顔をぶるぶると振るった。

「…いや、待て、待て。散々っぱら、俺に道理を説いておいて…どういう倫理観なんだ」

「助ける、頼む…」

 男は、片言の共通語で話しかけて来た。

 シャルルはふたりの頭の方へ回り込むと、ひょこっと腰掛ける。

「それは、おふたりさんの対応次第だ。だが、安心しろ。俺は命を尊ぶ数少ない賢者の一人だ。質問に正直に答えてくれたら、見逃してやる」

「殺すな。正直、それの通り話す。剣の神、誓う」

 白目ない、赤い瞳を細めてシャルルは言う。

「魔剣信仰は、お前たちの宗教ではないだろう。信じていない神になら、なんだって誓えるよな…」

 ふたりは手を繋ぎ合い、恐怖に耐えながら異議を唱えた。

「違う、俺たち山神信じない。だから、山行けない。行くところない」


「あー、なるほど。それで、彷徨いていたのか。ふむ…じゃぁ、質問を始めるぞ。よく聞くんだ。お前たちと同じ神を信じるのは、全体でどれくらいだ?」

「全体で?正確、知らない。剣信じるは10人に6人くらい。山に行きたくないは、10人に1人くらい」

「意外だな…改宗を強要されてるのか?山の神はいつからある?新しい神なのか?」

「古くからある。でも山神、力貸さない。剣の神、傷や病気治してくれた」

「じゃぁなぜ、みんな山の神を家に祀るんだ?」

「山の王、決めた」

「ふん、なるほど…じゃ、別の話だ。食べ物はあるか?」

 シャルルは、すぐに興味を失ったように話題を変える。

 ふたりは顔を見合わせると、意を決したように頷くと、自らの腰を叩く。シャルルは、ふたりの腰に巻き付いた布をほどき、それを開いた。中からは、鹿肉と山菜、レモンのような乾燥保存食が入っていた。

「困っているんで、悪いがこれは貰う。それ以上は、望まん。だが、食料を無くしては、あんたらも困るだろう。だから、北に向かといいぞ」

「北、山。みんないる。戻れない」

 男は懇願し、女は涙を浮かべて慈悲を願った。

「別の連中がいるはずだ。キラキラ輝く鎧を着ているから、すぐに分かるだろう。そいつらは、魔剣信仰者たちだ。リーダーは、魔剣も持っている。無事に出会えたら、山の民の話をしてやれ。そうしたら、きっと良くしてくれるはずだ。わかったか?」

 ふたりは、何度も首を縦に振る。

 アンリエットは、シャルルの合図で、身体を退ける。すると、ふたりは手を取り合って、振り返ることもなく、一目散に森の奥へと走り去っていった。

「これは、強奪と言わない?」

「…ぇ、なんだって?本気で言ってるのか?馬鹿らしい!本人たちが進んで差し出したところを見ただろう?この食糧で生きていけるのは、せいぜい七日がいいところだ。あのふたりは、仲間の元にも行けず、すぐに飢え死にするしかない運命だった。そこへ、俺はこの先、ふたりの安全のために、これ以上無いってくらい、都合の良い身の振り方まで教えてやったんだ。俺が言わなきゃ、ふたりが騎士団の元へ行く可能性があったと思うか?いや、絶対に無い。おっかない侵略者としか、思ってなかったからだ。これは相互利益というやつだ」

「ウサちゃん、話ながっ!そうやって、いつもうやむやにするの良くないよぉ?」

「うやむやに感じるのは、適当に聞き流してるからだろ!ちゃんと、俺の話を理解しろ!」

「ウサちゃん、ごめーん!今度から、ちゃんと話を聞くから、怒ると、私、悲しいよぉ」

「抱きつく前に、少しは否定してみせろっ」

 アンリエットに謝罪の意図は感じられない…なぜなら、白い体毛にうずめた顔は、ほくほく顔だったから。

 シャルルは、その顔面を足蹴にして、抱っこから逃れた。


 このふたりの、こんな馬鹿げたやりとりは、日常茶飯事だった。

 立ち上がったシャルルの視線に、山を下っていく先ほどのふたり組の姿が、木立の隙間からちらりと写った。

 片方の女性の背中に、昔に逃してやった女の面影を呼び起こされた。

 あいつは、無事に逃げ延びたのだろうか…ふと、そんな事を考えた。


「ウサちゃん…」

「あぁ、分かってる。逃げる必要はないだろう」

 ふたりの元に、軽装備の三人の兵士たちが姿を現した。

「ふたりとも、見間違うことのない姿で助かるよ。姫がお呼びだ。付き合ってもらうぞ」

 彼らの西方共通語には辺境訛りが強いが、その装備、話の内容から、騎士団の使いであることは、疑いようが無い。にしても、容易く…かどうかは知らないが、こうやって捕捉されたことからして、辺境で雇われた野伏たちだろうか、とシャルルは推測した。


 野伏とは、狩猟を主な生業としながら山暮らしを続ける者たちで、人里をベースとして狩場を往復する狩人たちとは一線を画す、フィールドワークのプロフェッショナルだ。平時においては、“変わり者“という扱いを受けがちな彼らだが、戦さの際には道案内や長距離偵察、そして追跡者として、軍に雇われる事がある。


「さっそく、再戦の受け入れか?」

「馬鹿を言うな、まだ山の民たちはピンピンしてるぞ。正直なところ、詳しくは知らん。大人しく着いて来い。きっと、悪いようにはされんだろうよ」

 こっちの方が人数が少ないが、アンリエットの腕前については、彼らも既知であるはずだ。警戒せずに、命令口調でいる様子からして、それは裏返せば、翻意がない証拠とも言える…。

「まぁ、いいだろう。こっちの予定とは異なるが…おい、行くぞ」

 アンリエットを首で指図し、シャルルは騎士団の招きに応じることにした。


 しかし、野伏の口約束は、無責任な結果となる。

 うやむやのうちに、シャルルは敵中強行偵察に同行させられる羽目になった。

 命懸けだ。

 なぜ、強引にでも断らなかったのだろう…と、彼は激しく後悔を繰り返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る