第4話 藍の軍師

 ピエレト山。

 それが先代の山の王が、流浪の民たちを引き連れて開拓した山の名であった。

 二代目の王が、山頂に土地神を祀った大社を建立し、山神信仰を流布したのをきっかけに、山にはより多くの人々が集まるようになり、大いに栄えることになる。

 山神信仰の開祖となった王の名は、ウジェヌ。またの名を“山の王“と言う。


 山頂にはいつも、強い風が吹いている。ピエレト山は、まるで山脈から逃げ出したかのような独立峰で、周囲を遮る山が無い所為で、年中どこからかの方角から風が吹き荒ぶのだ。

 山頂には、無数の柱が立ち並び、同じ長さで揃えた懸垂幕が、柱を飾る。麻布で作られた懸垂幕は、様々な色合いに染め上げられ、王に仕える豪族たちの忠誠を示す。


 風に靡く懸垂幕が並ぶ大社への参拝道を、藍色に染められた麻の羽織を、懸垂幕と同じように靡かせながら、一人の男が足早に進んでいた。

 鼻は細く高く、頬はこけ、ぎょろりとした目が険しく光り、その形相はまるで猛禽類を思わせる。白髪混じりの口髭と顎髭は手入れが行き届き、清潔感を持ってはいたが、歳の所為で乾燥し、ごわついていた。まるで皮と筋だけのような身体は、少し前のめりで、実際の年齢よりもさらに年老いた印象を与える。

 男は、大社の門番に一言告げると、傍へ進んで崖を見下ろす。

 山頂からは、まだ頭に雪を被った辺境の山脈が一望でき、それは壮観な景色だった。

 だが、男の黒い瞳は山脈ではなく、下方へと向けられていた。

 大社のある山頂からは、まるで段々畑のように崖が連なっている。その崖の合間に、山道があり、山肌に張り付くかのように家がひしめき、人々が溢れていた。山道には数十にも及ぶ関所が設けられ、兵が配置されている。赤子を抱き、家財を背負った人々は、関所を通って上に登らせて欲しいと、兵たちに懇願している。山道はその人々によって、完全に封鎖されていた。

 男は、黙ってその様子を眺めると、さらに下方へと視線を巡らせた。

 山の麓、風が遮られる渓谷に、焚き火の白い煙が充満していた。

 男は、眉間に皺を寄せ、目を細めた。


「軍師デジレ様、御目通りが叶いました。どうぞ、ご入山ください」

 門番から声をかけられ、男は衣を靡かせて身を翻した。

 大社の大門をくぐると、玉砂利が敷かれた大きな中庭に出る。デジレと呼ばれた男は、庭の右端に沿って歩を進める。やがて、中庭の正面へと進路を戻すと、一礼をしてから門番たちの間をすり抜け、本社へと足を踏み入れた。花崗岩を削った階段を登り、三度門番の間を抜けると、扉が開いたままの謁見の間へと進む。

「藍のデジレ、山の王に拝謁いたします」

 両膝を地につき、頭を垂れて両腕を組んだまま上に挙げた。誰からの返答も無いまま、デジレは立ち上がって進む。天井から垂れ下がった薄生地が、まるで雲海のように謁見の間を覆っている。それを一枚、また一枚とめくり、彼は王の元へとやっと辿り着いた。

 王の前で、彼は再び両膝をついて畏まった。

 王は、はじめ寝ているかに思われた。

 檜を削り獣皮で覆った玉座に座るその姿は、巨大だった。


 辺境諸族の中には、稀に2mに迫る巨躯を持つものが生まれる。蛮族の血が混ざっている…そう揶揄する者もいた。山の民たちは元来、選民思想が強く、周辺諸族との混血を嫌う。山神信仰が普及してからは、なおそれが強まった。貧しい生活を送りながらも、彼らの多くは頑強な骨格と豊富な筋肉を有し、戦闘民族としての地位を堅守している。その中でも、王の壮健な肉体は一際、立派なものであった。


「辺境の騎士団とやらは、渓谷の下流に陣取ったようだな」

 王冠の類は被らず、剃り上げた頭皮には無数の傷が残る。髭は薄く、頑強な顎骨を隠しきれずにいる。大きな唇をわずかに動かし、王は遠雷のような低い声を発した。

 デジレは腕を下げ顔を上げると、しっかりとした低い声で、王に答えた。

「宿営地を柵で囲み、兵に食を与えて英気を養っている模様でございます。この大社を目指し、山道に足を踏み入れるのも時間の問題かと」

 ウジェヌ王は玉座に頬杖をついて、気怠げに話す。

「少ない兵糧を大判振る舞いして、士気を高めるのならば、それが正解だ。山道を登り始めた時が、騎士たちの最期なのだから、残しておいても仕方がない」

 デジレは応えた。

「焦土の策が功を奏し、騎士どもは早期決戦しか頭にございますまい。されど、山道は馬では進めず、さらに人々で封鎖されたも同然。各関所に設けられた大矢の数々、落石の雨とくれば、登山は難航。その隙に、番屋に配置した兵たちが一斉に出撃し、宿営地を襲いまする。もはや、風前の灯火かと」

 王は、しばしデジレの瞳を見つめた。王の瞳は輝くような青色で、辺境の血の濃さを物語っていた。

「だが、別の手立ても進めておるのだろう?」

 デジレは恭しく頷いた。

「ご明察です。北の砦に配置した兵たちに、奥の手を準備させております」

「お前は、聡い。任せよう」

 デジレは、頭を垂れて恐縮を示すが、返答にはやや間があった。

「しかし、あくまで“奥の手“として、考えておりまするに」

「民を憂慮し、国を失うは、すなわち王たる者の気の迷い。王を失い国が潰えれば、民たちは飢え、虐げられ、売られることになる。王は、民なのだ」

 デジレは頭をさらに深く垂れると、両腕を上げて返答した。

「そのご決意、ご英断に敬服いたします。このデジレ、直ちに実行に移ります」

「デジレよ。表をあげよ」

 山頂の冷えた空気にさらされながら、彼の額には汗が滲んでいた。

「そろそろ、この国の民には、新しい土地が必要だとは思わぬか」

 デジレの黒く細い瞳が、大きく開かれた。

「騎士が征覇した土地に、植民させるご計画でしたか…そこまで見越しての焦土…いやはや、ご慧眼に感服の至りでございます」

「聡い奴だ。だが、決戦を急がねばならぬのは、我らとて同じこと」

 デジレは、顎髭を撫でて頭を巡らせた。

「山の食糧が、集まった民に流れ、我らも兵糧に困窮しております」

「それだけではない。騎士の土地を狙う者は他にもおるのだ」

「軍事同盟…古の同盟を、今更持ち出す者など…いや、騎士の兵が少ないことを知り、同盟に託けて周辺諸族が動いておる…つまりは、争奪戦となるのですな」

「急ぐ理由がある。それに、奥の手も使い用…だて」

 デジレは、床に拳を当てた。

「騎士団だけが、標的であらずっ…このデジレ、自らの浅知恵に不甲斐なく…」

「良い。機を間違えるな。それこそが、此度の大事だと知れ」

「御意」

 大社の玉砂利を戻るデジレの足音は、先程よりも幾分か力強い。

 その歩みが、藍色に染め上げらた懸垂幕の前で止まった。

 懸垂幕を見上げ、その先に見える澄んだ空に、雲が足早に進んでいくのを見つめる。

「軍師殿、お声がけをお許しください。ご気分でも優れないのでしょうか…」

 門番が、立ち尽くすデジレを気遣って声をかけてきた。

 藍色の衣の軍師は、短くかかと笑った。

「何を言う。廓然大悟とは、この事よ。主人の遠謀は、まるで手の平合わせの如く、儂と同じであったのだから」

 彼は大股に、大社を後にすると、門外に待機していた百人ばかりの兵に告げた。

「門を閉め、民たちの入山はこれより禁止せよ。それと、関所の大矢には、“絡め矢“を装填しておくのだ」


 兵たちは厚い木綿の作務衣を脱ぎ、それを腰布で留めたままの上半身が裸の姿。下は袴着に、サンダルのような靴を履いている。

 誰も彼も、筋骨隆々にして、肌は浅黒く焼け、背丈は総じて高い。

 手には槍や、棍棒、粗末な作りの弓に、フレイルなどを持っていた。フレイルは、二本の棒を鉄輪で繋いだ、脱穀用の農耕具が武器転用されたものだ。刀を所持する者は少なかったが、身分のある者は、緩やかに反り返った、幅広の曲刀を好んだ。


「絡め矢では、山道の民たちを巻き込んでしまいかねません」

 兵の意見具申に、デジレは穏やかな口調で返す。

「敵軍が、山道を攻め登って来る姿を想像するのだ。民たちを後ろから惨殺し、逃げ惑う背中を押しやり、崖下へ突き落としながらやってくる姿が見えまいか?狭い山道にひしめく敵を、ひとりずつ撃ち殺している間に、民はひとりもいなくなるぞ」

 兵は「直ちに」と言い残して、走り去る。そこへ別の兵が駆けつけた。

「一大事です!民たちが、穀物倉に穴を開け、奪わんとしています!」


 穀物倉とは、藁を結んで縛り上げた、塔のような作りの保管設備で、ひとつにつき、小屋ひと棟程度の大きさがある。斜めに切り込んだ鉄筒を差し込むことで、必要な量を取り出す仕組みになっていた。


「ならん!一粒とて渡してはならんぞ。棒で叩いてでも、阻止するのだ!少しでも分け与えれば、民たちが殺到し、やがて暴騰となるぞ」

 その者も、「直ちに」と言い残して、走り去った。

「伝令用の吊り紐は、機能しているか?」

 今度は、デジレが兵たちに問う。

「はっ、デジレ様がご考案なされました伝令装置は、大変重宝しております」

「ふむ、なら良い。まさか、このような状況になろうと予測した訳ではないが、あれが功を奏して何よりだ」


 山頂から麓まで続く関所を繋ぐ二本のロープには、いくつもの籠がぶら下がり、山を蛇行する道をショートカットして物を届けることができる。残念なことに、重いものは運べないため、主に伝書目的で利用されている。


「グフトゥ太尉、山の守りは貴様に任せるぞ。儂は“北の砦“に向かう」

 艶のある黒髪を後ろにひと纏めにした、一際立派な体躯の男性は、大きな薙刀の石突で地面を叩いて畏まる。

「では、護衛の兵を用意いたしましょう」

「向こうにも兵はおる。側近だけで充分だ。隠れ道をゆくのだからな」

「具申、失礼しました。ご武運を!」

 ふむ…とだけ答えて、デジレは猫背を向けて歩き出す。

 しかし、その彼をまた誰かが呼び止めた。

 振り返ると、山の周辺を警邏している隊の者だった。

「ご報告。怪しい死体を複数、発見いたしました」

「怪しいとは…そちの見解か?山の民でなければ、辺境の騎士団であろうに」

「いえ、それが…詳しくは、ご拝見いただきたく…」

 デジレは側近たちを従え、道を変更した。


 警邏たちが見せたのは、五人の死体だった。

 格好は、まるで山の民のようであったが、デジレには…いや、警邏の者たちですら、一目瞭然でそれに気づいていた。

 辺境の民では、無かったのだ。

「誰が殺したのだ?」

 猛禽類のようなデジレの視線を受けて、警邏の者はたじろいだ。

「未だ、不明です。誰も、心あたりが無いのです」

「無いと言っているだけ、かも知れんて…しかし、のう。これは…」

 呟きながら、所持品をあらためた。

「戦時中に軍務についている者…だとしても、所持品が無さすぎる。直刀の両刃剣など、誰も使わぬしな…辺境騎士団が変装して、潜入していた、とするのが正論だろうて…しかし、どれも凄まじい…」

 刀傷を確かめているデジレの手が、身体の刺青に触れた時、はっと動きを止めた。

 刺青は、山の霊から力を分け与えてもらうためにするもので、王が推奨し、それに倣う者たちも多かった。

 左胸に彫られた刺青を、デジレの指がなぞり、乳首の方へと滑る。

 乳首の隣で指は止まり、ゆっくりと円を描く。

「あの…軍師デジレ様、一体…?」

 沈黙の内の儀式に、気まずさを覚えた警邏が、どぎまぎしながら尋ねた。

 軍師は、口調を変えずに静かに答える。

「南方の島で採れる木の実の中には、汁を肌に塗ることで刺青のように発色するものがあると聞く。おそらくだが、その類を使ったのであろう。これは、偽物だ。ここにある、本物の刺青を隠すために…」

 警邏は、思わず顔を近づけて確かめようとするが、デジレに顔を押し戻された。

「この死体は、室に入れておけ」

 デジレには、その刺青の形に覚えがあった。

 それは、西方諸国の剣の神々の中、ひと柱のトリスケルだった。


 他言無用、とだけ言い残し、デジレは北の砦への道へ戻った。

 拡張した洞窟を通り抜け、ピエレト山から隣の嶺へ出た後は、崖の岩盤を削った道が続く。

 コの字に彫り込まれた道は、雨を凌ぐことはできたが、風は受ける。身体のバランスを失い、足を踏み外そうものなら、300mはある断崖の底へと消える羽目となる、危険な道だった。

 デジレは、ここを通るたびに、当時経験した工事の過酷さを思い出す。

 この岩盤から、どれほどの工夫が落ちただろう。

 深山幽谷のこの地は、何人の踏破も許さず、故に谷底の遺体を弔ってやることも叶わなかった。 

 四年の月日と、膨大な予算を消費し、北の砦まで繋ぐ道は完成した。

 長い年月の間、踏破不可能とされていた、切り立つ崖に道を通したのである。

 何人も近寄る事ができない、深山幽谷に開通した道は、ただの道では無かった。

 誰からも知られる事なく、軍勢や物資を、秘密裏に移動させる事ができるのだから、その有効性は計り知れない。しかし、この道の有効性が理解されるまで、他の将たちからの風あたりも、当初は厳しかったものだ。

 この道の開通も、軍師デジレの業績のひとつであった。


「ややもすると…この備えが…」

 デジレは歩きながら、つい考え事が口から漏れ出してしまった。

 彼は、実のところ、内心で危惧していたのだ。

 ウジェヌ王に、焦土戦略を用いた消極的な籠城戦を選択させてしまった原因が、自分にあるのではないか…と。

 さらに、この行く先にある“仕掛け“も、彼の考案によるものとなる。発案した全ての仕掛け、設備、対策案が、此度の戦では総動員されている。それは『活躍』と言っても良かった。だが、今後に起こり得る全ての責任が、自身に帰結すると言っても過言では無いのではないか。彼は、そう思わずにはいられない。

「何を憂う…全ては、王の御威光のもと。儂は機会をさえ、間違わぬよう努めれば良いのだ」

「何か…申されましたでしょうか?」

 暗い洞窟を松明で照らす、側近の兵にそう尋ねられて、デジレは我に帰った。

「一刻は歩きづくめぞ。独り言くらい、許されても良かろうに」

「し…失礼いたしました」

 恐縮する兵に、冗談だと笑って付け足しながら、これから取り掛かる手筈に、自身が大きなプレッシャーを感じていることに、気づいていた。

 大きく武者震いをしたのは、洞窟の寒気に当てられたものかどうか…。

 藍色の軍師デジレは、北の砦に向かって歩を早めた。


 その砦は、ピエレト山に連なる嶺の上に築かれていた。

 水の枯れた渓谷の底に本陣を置けば、両の嶺からの攻撃を受ける。拠点を設営するのならば、山をよく望め、防衛にも向いたこの嶺を抑えるべきとなる。故に、この嶺にはその道を塞ぐようにして建造された砦があるのだ。

 ピエレト山と通じる道を持つこの砦は、二角の構えとして、侵入者の背面を狙う役割を担っている。

 事あるごとに敵対していた辺境諸族の領域は、北側に分布していたのだ。北の砦は防衛の要として機能し、侵入者たちはまず先立って、この砦を陥さない限り、挟撃を恐れ、おいそれと山へは進軍できない。故にこの砦は、度重なる改修によって、強靭な防衛力を強化され続けてきた。

 南ルートから山を登ってきた辺境騎士団たちからは、後背地となる。

 この場合の、砦の役割は少し変化する。

 この砦から出立した兵は、山並みを迂回して、騎士団の宿営地の背後を襲うことも可能だし、またもしも、山に異変が生じても、その逃げ道として砦を利用することもできるのだ。

 もしかすれば、地の利に疎い騎士たちは、この砦の存在を知らない場合も有り得る。

 軍師デジレは、この砦を後詰めとして、十二分に活用する腹積りであった。

 険しく細い道のりの先、忽然と開けた空のもと、その勇姿を久方ぶりに拝んだ際、思わず笑みが浮かんでしまうのも、無理かならぬかな。


 しかし、それからわずか二刻と経たず、彼は九死に一生を得る境遇に出会すことになる。

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