第3話 敵情偵察
「ミュラー、方位を確認して。スタンリー、井戸の進展は?」
渓谷を渡る橋で、奇妙な二人組に通せんぼを食らった時から数えて二日後、辺境を制覇してまわる騎士団は、谷間に開けた岩場に、宿営地を建造している最中だった。
白銀の髪と白い肌、若草色の瞳を持つ女騎士団長、クラーレンシュロス伯ルイーサ・フォン・アマーリエは、配下の騎士たちを呼び付けて、作業の進展を確認する。
ミュラー・オルレアンドは、彼女と歳が近く、栗色の癖っ毛を耳の下まで伸ばした騎士だ。全身甲冑を纏ったその姿勢は良く、体躯も逞しいのだが、背は低めで幾分か細めで、筋骨隆々とした騎士たちの中では弱々しい印象となってしまうのは否めない。何よりも彼を特徴付けるのは、ふっくらと丸い、可愛らしいとさえ言える、童顔であった。
彼は岩場を徒歩で視察して回る、騎士団長の元に駆けつけると、斜め上方を指差した。
「山頂は、この方向だよ。あの岩山の影から見えている、あそこがそう。山頂からは、詳細は分からないまでも、しっかりと視認できるはずだ」
騎士団長は、額に手を当てて山を眺めると、頷いた。
「いいわ。では、この位置に櫓を立てて頂戴」
ミュラーは、言葉を選ぶように、歯切れの悪い返事を口にする。
「アマーリエ、これは“作戦“なんだろ?僕にも、意図を教えてくれないか?」
騎士団長は小首を傾げて、参謀ミュラーを見つめた。
アマーリエとは、彼女が治める地方の呼び名だ。しかし、彼女は幼少の頃より、親しい間柄の者にはルイーサではなく、アマーリエと呼ばせていた。理由は単純、響きが好きだからだ。さらに、ルイーサという名は、男のような勇ましさがある。当時、父はこの習慣を“郷土愛“として、理解したようだった。
「この岩場は、山頂付近まで続いている。櫓と防御柵を造らないと、いつ敵に襲われるか分からない」
ミュラーは、首を振った。
「ここは、川の跡だ。この痕跡から想像するに、雨が降ればきっと冠水する事になる」
「今すぐ、雨が降って欲しいくらいだわ。集落の畑は焼かれて、井戸には毒があった。皆、喉がカラカラ。私もそう、貴方だって、そうでしょ?」
「穴を掘れば、きっと伏流水がある。安全に井戸を掘るための防御柵なのかい?それならば、宿営地は別の場所にするべきだ」
ミュラーの腹部を覆うプラカートが、アマーリエのガントレットに叩かれ、乾いた音を立てた。
「少し、時間が欲しいのよ。こうすれば、“山の王“は策を講じる」
「策?そのお望みの策がどんなか知らないけれど、もし策を講じなかったら、どうするんだ?」
「もう、屁理屈ばかり。こちらの軍は少ない。集結して、水が補給できる場所に防御柵を巡らせて、防衛戦に備えるの」
ミュラーは、ため息をついた。
「ロロの提案なんだね…分かった。深くは詮索しないよ。どうせ、僕では当たらない」
アマーリエは、口を膨らませてミュラーを睨む。
危険を察知して、ミュラーは反転して走り出した。
「意図は、おおよそ承知したよ。天気も掌握するよう、紋章官に命じておいてくれよ」
「幼馴染をいじめるのは、あまり良い気晴らしとは言えませんぞ」
口髭を蓄え、黒髪を綺麗に切り揃えた背の高い騎士が、ミュラーと入れ違いに現れる。こちらは、先ほどの若者と異なり、貴族の身のこなしに加え、壮年期の貫禄とゆとりが積層されたジェントルだ。
「水はすでに湧き出しています。あと一晩で、透き通った水が飲めますよ。お急ぎであらば、布で泥を濾過しますが?」
「大丈夫。そのままの水で良いから、先に馬たちに与えて頂戴。それにしても、貴方が井戸の掘り方を知ってるなんて、意外だったわ」
「何、これくらい。知識は役立ててこそ。稀な機会をいただき、むしろ感謝ですな」
アマーリエが物心をつけた頃から父に支える、古参の騎士スタンリー=ハーレイ・オブ・ギャンベルは、紳士の身のこなしで礼を表する。
「もう一つ、聞きたい事があるんだけれど…その武器は、どうしたの?」
アマーリエは、彼の肩にぶら下がる鉄球の武器を見た。鎖の先に棘のついた鉄球をつけた、モーニングスターと言われる打撃武器だ。
「何、剣がひどく曲がってしまいましてな。鹵獲武器です。単純なようで、なかなか扱いが困難で、まぁ、丁度良い気晴らしですよ」
気晴らしの言葉に、アマーリエは表情を曇らせた。
彼は、アマーリエの亡父、ハインツも認めた剣術使いだ。正しくは、兵法家と呼ぶ。
ハインツは道場を開き、一門に兵法指南を行っていた。その父亡き後、アマーリエが一門を束ねる役割を担わなければならない。しかし、辺境征覇行のため、その役目も手付かずになっている。もしかすると、スタンリーは剣技にのび悩みを感じているのかも知れない。
アマーリエが口を開こうとした時、彼の方から話し始めた。
「それはそうと、紋章官とクルト卿の姿がありませぬ。どこぞへ使いに出したのですかな?」
話題がすり替わり、アマーリエは話しそびれてしまった。
「別働隊で動いているわ。他にも、隊を分散させて周辺の番屋を襲撃させる手筈」
「では、その役目は私めに」
「貴方には、釜戸をたくさん作って、火を焚いてもらいたい。ミュラーと二人で、宿営地を防衛して欲しいのよ」
「ミュラー卿一人で、充分かと」
アマーリエは、スタンリーの肩をポンと叩いた。
「貴方がいないと、士気が保てない…頼むわよ」
彼は空を仰ぐと、何かを言いかけたが、首を振って言葉を飲み込んだ。
「…承知しました。同門同士、仲良く任をこなしましょう」
助かる、と言ってアマーリエは微笑んだ。そこへ、また別の男がやって来る。ミュラーと同じ程度の背丈で、彼よりもさらに若く、灰色の髪を短く切り揃えた男だ。獣油で煮詰める事で、強度を増している革鎧を装備し、幅広の両刃剣を吊り下げた彼の名は、アッシュと言い、別の騎士の従者を務めていたが、今はアマーリエの従者に収まった。彼は歳の割に、低く落ち着いた声で報告する。
「斥候に同行する騎士たちが、集まっています」
「ありがとう。貴方の馬も引いて来て。一緒に行きましょう」
参集したのは、古参の神官騎士ボードワン。
辺境出身で新参のセヴリーヌ、ミシェル、イネスら、ヴァンサン家の三姉妹。彼女らは、戦神アドルフィーナと、剣神ゾルヴィックの神官騎士でもある。
そして、騎士団の中で唯一、魔術師の称号を持つ騎士ギレスブイグの五人。
ボードワンとギレスブイグは、騎乗したまま、新参の三人組は下馬して整列していた。アッシュが連れてきた馬に、全身甲冑を着たアマーリエは、助けを借りずに一人で騎乗する。
「では、敵情視察に行きます。直ちに騎乗、出発!」
三姉妹は慌てて鞍に登り、先輩の後を追う。
辺境の街で急拵えしたため、古参の騎士たちのような立派な全身甲冑ではなかったが、それでも武装したまま騎乗するには身体の鍛錬と、乗馬の経験がものを言う。剣の神たちの奇跡を行使できる、神官位を有しながら、最前線でも戦える戦士など、そうそう出会えるものではない。彼女らの協力を得られた事は、アマーリエにとっては随喜と言ってよかった。
西方諸国において、医学は発達していない。
知識の探究と魔術の伝導を謳う組織、“学会“の内部組織に、それを研究する団体もある。しかし、剣の神たちによる“奇跡“があるが以上、治癒の恩恵はそれに頼りきりになるのは自明の事柄だった。故に軍隊には、従軍神官がとても重宝された。長女のセヴリーヌ、そして次女のミシェルは、戦神アドルフィーナのトリスケルを指輪に刻んで嵌めている。末女のイネスは、アドルフィーナとは犬猿の仲と言われる剣神ゾルヴィックのトリスケルをネックレスにして下げていた。
岩が剥き出しになった斜面を、鉄の塊と化した主人を乗せ、軍馬たちは鼻から激しく息を吹き出しながら、しかし力強く登っていく。まばらな立木が時折、進路を塞ぎ、手斧で道を切り拓かねばならなかった。
「役立たずの老騎士め。手斧が無ければ取りに帰れ」
ギレスブイグが同年配の神官騎士に嫌味を言う。言われた老騎士は取り合わず、最後尾で開かれた道を悠然と進む。
「はんっ、ぐうの音もないか。それとも、憤って吠え返すほどの胆力も、抜け落ちた白髪と共に失せたと言うわけか?」
まさに、犬猿の仲。
その両者に前後を挟まれた、新参の三姉妹は萎縮するほかない。
二番手で馬を歩ませるアマーリエは振り返り、イネスが憮然とした顔でいるのを見て、微笑んだ。宗派が違うとはいえ、自分よりも上位の神官を侮辱されて憤っているのだろう、と彼女は思った。
時折、姉たちの前方にいるギレスブイグを睨みつけようと、鞍の上で身体を傾けている。アマーリエの表情を見た次女のミシェルが、末女のイネスを叱りつけた。
背が高く、美しい長女のセヴリーヌは生真面目で、口数が少ない。表情豊かな次女ミシェルは、気配りのできる調整役で、何かと動き回る。一番背が低い三女イネスは、いつも不機嫌そうな顔をしており、反骨精神が強く、気性が激しい。アマーリエは、三姉妹をそう分析していた。
「イネス、良い弓を持っているのね」
「ぇ、はっ。恐縮です…」
アマーリエに突然声をかけられ、金髪をふたつにまとめた神官騎士は、間が悪そうに視線を逸らす。
微妙な空気になったのを悟ったのか、アッシュが口を開いた。
「セヴリーヌ様は、槍がお得意なのですね。ミシェル様は長剣、イネス様は、長弓ですね。ボードワン卿は、セヴリーヌ様とミシェル様と同じく、戦の神アドルフィーナを守護神としておいでです。しかし、敬服と自戒の念を込め、刃物の所持を控えているのです。神と同じ武具を持つ事は、恐れ多いというわけです。業物というのは人それぞれで、奥が深いですね」
あまり、上手いやり方ではない…アマーリエはそう感じた。
普段、口数の少ないアッシュは、自身の心象よりも問題解決を優先させる男だ。従者という立場の彼が、長々と口を開いたとあれば、標的とされた者にもすぐに察しはつく。聡い者ならば、それは尚更だ。
「俺はそれぞれの生きる道に口を挟んでいるのではないぞ。この場において、必要な事を成して欲しい、それが出来る者であって欲しい、俺が言いたいのはそれだけだ。誰が俺を憎んでも構わない、軽蔑されようが、知った事か。俺が望むのはただ、皆の為に有益であれ、それだけよ」
こういう時のギレスは、むしろ小気味が良いくらい堂に入っている。何故かいっこうに陽に焼けない青白い顔、ギラギラした陰鬱な眼差しに、目の下のクマ、癖のきつい漆黒の長髪。まるであてがわれた役を演じる役者のようで、アマーリエは堪えきれずに吹き出してしまった。
「姫、後輩の前ですぞ、配下への侮辱は弁えられよ」
「ごめんなさい、何でもないわ男爵。侮辱なんて、とんでもない。これは、ただの思い出し笑いよ」
今度はギレスがむくれて、黙りモードに入ってしまった。
彼は変わり者で有名だった。
傭兵隊長にして男爵位を有す、武闘派の親の元に生まれたおかげで、幼少より剣術を学び、個人としてもパヴァーヌ王より騎士位を叙勲している。家徳を継いでからは領地管理を誰かに丸投げして魔術に没頭…しかし、どういう経緯か、父に続き、彼自身もパヴァーヌ王より男爵位を授けられた。更にその後は、何の因果かアマーリエの父の元に身を寄せ、そして今に至る。
男爵位は世襲ではなく、一代限りのものだ。格付け的には微妙なもので、地方によって騎士と同列であったり、上位であったりと揺らぎがある。
位を拝命するには、所有する軍事力が、為政者にとって無視できない規模である。または政治力に長じ、王朝などに根を張っている。または主君に重宝される切れ者…でなければ、その機会はない。
きっと家長になってからの人生で、彼本来の道を得たのだろうと、アマーリエは思う。遠回りしたおかげで、魔術を操る騎士という、彼の髪型同様、ややこしく絡まった性格の大人が出来上がったのだ。だが、それは結果として、彼をマイノリティな存在とし、その優位性を際立たせている。
「稜線に出るぞ」
ギレスブイグの掛け声で、騎士たちは下馬し、手綱を木立に繋ぐ。馬たちが、勝手に稜線から姿を出さないようにするためだ。馬たちはやれやれ、ようやっと一休みだ、と言わんばかりに草を喰み始めた。彼らの世話をアッシュに任せて、騎士たちは慎重に岩場の斜面を登る。
「鎧が反射するから気をつけろ」
ギレスが、一行に注意を促す。
アマーリエはアーメットを脱ぐと、三つ編みをパタパタと上下して、稜線を走る風でうなじの汗を乾かした。
「周囲索敵」
「すでに索敵魔法をかけてある。敵意のある生物は存在しない」
「それって、効果範囲は?」
「秘匿事項だが、ざっと200mだ」
秘匿云々はともかく、微妙な範囲だ。視界が通れば十分に観察できる距離だし、長弓や大型の弩なら、命中させることは難しいが、ぎりぎり射程に入る。
「さて、御神山とやらは、どんなものかしら?」
アマーリエは岩に這いつくばって、ゆっくり顔を出す。
干上がった山岳渓流のある大きな谷間を挟み、正面に一際高い峰があった。
その景観には、威風凛然という言葉が相応しいか。
まるで神が大きな御手を天から伸ばし、盛り土をしたかのような、芸術的なまでに綺麗な輪郭。剥き出した岩肌と所々に茂る木々、山頂付近には薄靄がかかっているように見える。山肌には、わずかな場所を奪い合うかのように、民家が身を寄せ合い、色とりどりの懸垂幕が風に揺らめいている。
図らずもその美しさにしばし、息を呑んだ。
「なるほど。剣の信者が言っていた通りね。まさに、山の神っていう風格だわ」
「同感です」
長女セヴリーヌが目を丸くしながら、頷いた。
「チーズを削って、盛った感じかしら」
とは、次女ミシェル。
「高く盛ったかき氷」
三女イネスの意見に、あぁ、と皆が同調する。
魔術で凍らせた水は、夏場では多岐に渡って重宝される。中でも、かき氷は人気の高い嗜好品だ。
「あの様子では、兵は身動きできんだろうて」
ボードワンが敵情を指摘する。
山頂には、神殿と思わしき大きな屋根。そこから細くて急な階段が幾重にも分岐しながら、民家の間を縫うようにして、麓まで続いている。
少し前に、剣の信奉者だという二人組の現地人が騎士団の元を訪れ、山の民の情報を与えてくれた。その住民の証言では、この山だけで常時一万人以上の住民が暮らすという。王が発布したしきたりにより、領民たちは毎年一度、生れ月の初日に山頂の社までお参りに行かねばならないらしいが、その参拝者は多い月には一万人にも達し、細い階段の道は大渋滞になるという。
今の山には、それを遥かに超える領民が殺到している。家財を満載した荷車や馬やロバ、牛、羊たちもそれに加わり、関所と思われる道の仕切りごとに、崖から落ちそうなほどの大渋滞ぶりだ。麓の関所の外まで、その列は続き、入山を拒まれたのだろうか、大量の山羊が群がっていた。
「この周辺には、番屋が点在していると言っていたわ。北には交通の拠点となる峰の上に、砦もあるとか。すでに兵士を分散待機させているのだと思う」
「二角の構えですね。ルイーサ様、すると山の王の狙いは、挟撃でしょうか」
セヴリーヌの問いに、アマーリエは彼女を指差した。
「私の名は、アマーリエでお願い。ルイーサは、猛々しくてあまり好きではないの」
そして、一同を振り返り、意見を述べる。
「セヴリーヌの言う通りだと、私も思う。山の王からすれば、兵力差があるのだから、一気に殲滅したいところでしょう。でも、地勢は複雑で、会戦には向かない。逆に地の利を活かして全方向から波状攻撃をかければ、難なく崩すことができる。より安全に戦いたいならば、ゲリラ戦法だっていい。山岳地帯に踏み込んだ騎士団なんて、いかようにも料理できる、と普通はそう考える。だから、あの山に籠っているのは、最小限の防衛戦力だけである可能性が高い」
「まずは番屋を攻撃して、対応を見てみよう。陽動にもなるしの」
ボードワンの提案に、アマーリエは答えた。
「実は、それはすでに手配済みでございます」
「…ふん。どうせ、紋章官の入知恵だろうに」
ギレスブイグが機嫌悪そうに指摘する。
「ま、その通りなんですけど…ね」
アマーリエは横目で空を見つめながら、渋々と呟く。
ややあって、イネスがため息をついてから、後頭部を掻いて言った。
「山の兵力が少ないならば、一気に攻め込んじゃえとも思ったけど…人が多すぎて、にっちもさっちも行かないかもだな。住民たちが障害物になってしまう」
「ふん。犬の糞でも掲げて進めば、皆道を譲るかも知れぬな」
「笑えないっ」
「ひゃ、イネス!?何て事を…失礼をお詫びします。男爵」
慌ててギレスブイグに詫びる次女を、面倒くさそうに見る末女。
「ねぇ、ギレス。空を飛べる魔法はないの?」
「陳腐な質問だな。魔法はおよそ人が望む全てを叶える力だ」
「おぉ!じゃぁ?」
「だが、俺は使えん」
がっくし…。
「俺が使えるのは、触媒魔術だ」
「んだよ、要は力不足で役に立たねーってことだろう」
小柄なイネスは、綺麗な顔立ちと金髪のポニーテールがよく似合う、まるで人形のような娘だ。その彼女が顔を歪めて毒を吐く様子は、家犬が狼に吠えつくようであり、アマーリエは思わず頬を緩めた。
「これ、イネス!…あれ、どうしたの?」
ついに伝家の宝刀、という流れで、長女セヴリーヌが叱りつけたその時、イネスは必死の形相で口を閉じたままジタバタともがき始めた。両手で口をこじ開けようと、慌てふためいている。
「ギィレェース…悪ふざけはやめなさい。その意地の悪い魔法を、今すぐ解いて」
アマーリエの戒めに、ギレスブイグは両手を挙げて答えた。
「お言葉に背くつもりは毛頭ございません。しかし、魔法は掛けるよりも解除する方が大きな反動を要するもの。紐が絡まるのは容易くても、それを解くのには苦労するが如くに」
「格言じみた事を言ってないで、早く解除してあげなさい。イネスがパニクってる。可哀想よ」
「その日の巡りにもよるが、大抵の魔法は二分ほどで効果を無くす。覚えておくと良い」
ギレスブイグは、上から発言をやめない。
「いや、待って。じゃぁ、空を飛んでいる間に魔法が切れたら、どうなるの?」
「落ち着いて、真言を唱え直せば良い。落下の恐怖で気絶するか、あるいは地面との再会の抱擁が早ければ、それまでだがな」
腕を組んで話す男爵を見つめる、アマーリエの瞳は楽しげだ。
「いずれにせよ、無条件で永続できる魔術は、未だ発見されてはいない。ただし、解除条件を付与することで、効果自体を永続化させる呪法ならば、太古の魔術師たちが実践しておる。いわばそれは、“呪い“に分類されるものだ」
イネスに背中を蹴飛ばされるのも意に介さず、ギレスブイグは蘊蓄を述べきった。
「さて、敵情もこの目で確認できたし、新参組と古参組の交流も深まったわけで…」
アマーリエは、稜線を降りながら一同に話す。
「欺瞞は成功するでしょう。山の王の目が、宿営地に向いている間に、番屋を制圧して、耳を奪う。そして、クルトたち別働隊が、山の王の“奥の手“を奪取したならば、この戦場は掌握したも同然よ」
「先手で気勢を制す。姫の剣技と同じですな。それは上好、上好」
ボードワンの賛同に、ギレスブイグは苦言を呈す。
「前提条件が多すぎる。まずは、番屋を陥せたら、の話だ。道も分からぬのに、そう容易く山を征覇できるはずもないが」
「道なら…」
アマーリエは、ニヤリと微笑んだ。
「優秀な精霊使いが、地図を作ってくれたわ」
「鳥の目か…」
ギレスブイグが唸った。
「お前は、“あの女“に頼りすぎている。自覚すべきだな」
小旅行企画で互いを知った一向は、その帰路についた。帰り道は、殻を破いて本心を言える間柄になった、イネスの罵詈雑言がひたすら続くことになる。主人に“お前“とは何事か…話の切り口はそこから始まり、終いには髪から漂う“加齢臭“にまで及んだ。
夜半、アマーリエは宿営地の天蓋で、ひとり剣の神に祈る。
香を焚き、彼女の守護神である戦神アドルフィーナに、戦勝を祈願したのだ。
そして次には、甲冑の胴部を寝台に乗せ、あぐらをかいて向き合った。
甲冑に手を当て、目を瞑る。
「お願い、私の問いかけに応じて…」
10分ほど、それを繰り返し続ける。
「お願い…」
ため息をついて、寝台に立て掛けてある大剣を眺めた。
「アインスクリンゲ…あなたも言葉を発せられたら、私を導いてくれるのかしら…」
はっと、何かを閃いたように手を叩く。
「そうね、名前よ。名前だわ。きっと、そう」
寝台から立ち上がると、地面の上に敷かれた毛皮の上を、歩き回る。
「シルバネルストウ…スプレシンド…ハート…」
『よもや、儂の名前を考えておるのではあるまいな』
アマーリエは、一度立ち止まり、そして慌てて寝台に飛び乗った。
「やった!やった!ようやく、話ができるようになったのね!?」
『儂を子どものように言うのをやめよ。いつでも話せる。ただ、自粛しておるだけだ』
側から見れば、彼女は甲冑に向けてひとり芝居をしているようにしか映らない。アマーリエは甲冑が送る念話に、肉声で返答している。
「ひどいわ!ずっと、ずっと話しかけて来たのに…どうして、そんなことするのよ」
『儂の望みは、ぬしの精進だ。身体は守ってやるが、余計な知恵を授けて助け舟とするのは、ぬしの為にもならん』
「本当に、お爺さんみたいな事を言うのね…ね、聞いて。あなたに名前を贈ろうと、考えていたの」
『要らんわ。放っておけ』
アマーリエは、甲冑を両手で掴んだ。
「ちょ、ええっ!ひどいわ。聞くだけ聞いてみてよ」
『よいか?儂は、ぬしの思考を読み取っておるのだ。ひねりの無い名ばかりしか思い付けん、語彙に乏しい哀れな娘に、名をもらっても少したりとも、嬉しくはないわ』
「でも、真名を得れば、力が解放されたりとか…」
『せんわ。放っておけ。それよりも、切羽詰まった状況なのであろう。ぬしは、このままでは破滅ぞ』
「そうなの。だから、お願い。力を貸して」
甲冑を寝台に優しく置き直すと、背筋を伸ばした。
『それは、儂が最も嫌う言葉ぞ』
「でも、このままでは、山の王に勝ち切れないわ」
『そも、そんな戦を始めるのが間違いでは無いのか?』
「あなたが、あなたの助力が、絶対不可欠なのよ」
『耳の長い、あの女の入れ知恵であろう?あの女の“本当の望み“を考えた事はあるのか?』
アマーリエは、顎に指を当ててしばし思案した。
「確か…お金、と言っていたわ。すぐには払えないだろうから、出世払いで良いと」
『ほぉ…』
「実績、知名度の向上かも。なんでも彼女は、様々な王や諸侯たちに助力をしては、大金を受け取っているらしいの…噂では、西方の諸侯たちは彼女の事を、出世請負人?とか言うらしいわ」
『キングメーカーだ。それくらい、覚えておけ』
「そう、それだわ。それよ。さすが、知見に満ちた鎧ね!尊敬するわ。本当…」
しばし、沈黙。
「あ、ねぇ?聞いてる?やだ、また、黙らないでよね?ね?」
『否だ』
「え…そんな事言わないで、私の話を聞いて頂戴。本題はこれからなのだから」
『その本題に対する儂の答えは、否だ、と言っておる』
「まだ、何も言っていないじゃないっ。話も聞かずに…」
『…』
「そっか…思考を読んでいるのだったわね…待って。いつも思考を読みっぱなしなの?」
『儂が、ぬしを所有者と認める限りは』
「私の私的な時間は?個人の…その知られたくない考えや、着替えや、湯浴みは!?」
『思念体を有するだけの、ただの無機物に、何の杞憂があると言うのだ』
「…わかった、わ…そうよね、諦める…ように、務める。で、あれ、何だっけ…そうそう。どうして…ダメなの?その理由は?」
『それも、先ほど説明した通りよ。過度な手助けは、儂という集積思念体の総意に反する』
「…」
アマーリエは、口を開けたまま、言葉を失ったかのように固まる。
『話は、ここまでかの。最後に、儂からの助言ぞ。全滅せんうちに、戦を切り上げて撤退するのだ。これまでの辺境諸族と同じと侮るなよ。儂の見立てでは、山の民たちは手強いでな』
「あなたにも、メリットがある方法があるわ」
いつの間にか少女の顔は、鉄の仮面のように固く、そして冷めていた。
『儂の望みは、ぬしの精進ぞ。それこそ、神格化へ至る唯一にして、無二の道』
「私にとっては、大いなる試練であり、あなたにとっては、取捨選択の機会を得る好機でもある」
『…儂は、ぬしが思う以上に、ぬしの事を買っておるのだがな…本当にその方法で後悔はないのだな』
「望むところよ」
『…請け負った。だが、条件を幾つか飲んでもらわねば、実行が叶わぬ』
「いいわ。何でも言って頂戴」
アマーリエは甲冑の前で、頭を垂れた。
「…それは、どうしてもなの?…そぅ…それはぁ…えらく、難儀だわ…」
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