第4話 大ピンチではチャンスなんて考える余地はない
この世界の広大な大陸には幾つもの国があり、人々はそこで暮らしている。
東のオリテと西のゼガルドは隣国同士であるが、あまり仲が良くない。
ノエルたちが暮らしているのは、そのゼガルド王国だ。
今日参加するのは、ゼガルド王国の妃の生誕の催しである。
ただし、ややこしいのが、この妃というのがオリテ王国出身なのだ。友好の印の政略結婚なのだろうが、毎年ピリピリしなければならない国民の気持ちも少しは想像して欲しいものだ。
(西と東があったら仲違いするのは自然の摂理なんだなぁ。タイガースはジャイアンツがライバルだし、警察だって警視庁と神奈川県警は何につけても小競り合ってたし、そういうもんなんだろうなあ)
と、ノエルは思いを馳せた。
父母は儀式と殿下の挨拶が終わるなり、パーティー会場で社交に出かけていった。ここでも人脈を開拓しているのがよく分かる。夫婦そろって上昇志向の強い、抜け目のない人たちだ。
ノエルは大広間の端のソファに腰掛けていた。
くるくる回る大人たちのダンスを見ている。
正直つまらない。
その横で、話しかけてくる貴族たちの相手をしてくれている女性。
シャペロンを勤めるシーラ・コーニッシュだ。
1人の娘と2人の息子がいて、次男はノエルと同い年らしい。
(シーラ……いや、エリーみたいに別に若さを期待しちゃあいなかったが、タイプが違いすぎて緊張する)
仕事のできる強気マダムほど、居心地の悪い物はない。
怒鳴られるならまだ上司を人として心中で完全に蔑んでいればいい。
が、オバチャ……否、マダムは多くの場合、ド正論でこちらの非をえぐってくる。立ち直れなくなるのだ。
前世で事務のオバチャンに頭を下げまくった苦い記憶が頭をよぎる。
ノエルはいたたまれなくなって、思わず目をつむった。
そういえば、エリーは乳母といっていた。
(ん? と、いうことは……乳母ってことは……俺はこの人の……乳……)
ノエルは隣で喋る、昔はさぞかし美人であっただろうという風貌の、シーラの横顔を眺めた。
そして、それ以上考えることをやめた。
真実を知ったところで幸せになるとは限らない。
シーラはつらつらと話をしている。
「ええ。ノエルお嬢様はまだ5歳ですが、とても賢い子なのですよ。ですので女性の身ではありますが、いずれ学院に入学を予定しておりましてね。すぐに嫁げるわけではなく……」
(初めて知ったぞそんなの)
ノエルは目を見開いて隣を見た。
シーラはノエルに一瞥もくれずに、貴族の男共を話術で捌いている。
(全く、商品にでもなったみたいだぜ。キャバやクラブの姉ちゃんたちもこんな気分だったのかねぇ)
それならば、せめてツンとすまして高級な猫のようにでもしていよう。
ノンアルコール・エールの入ったグラスを傾けて、目の前で行き交う有象無象の人々をノエルはぼんやり眺めていた。
本当は酒に弱い大人向けの代物だが、こっそり貰ってきた。
ショウガの辛みがピリッと喉を焼く。
エールは糖とショウガを発酵させて作る飲み物だ。
魔法が発展するまで水が貴重だったゼガルドの人々は、ワインや酒を水の代わりに飲む風習を未だ大切にしている。
ノエルは、昨日読んだ、魔女プルミエが編纂したという歴史書を思いだした。
それによれば、昔は安全性が保証されていない水を飲むくらいならば、加工された酒を飲んだ方が安全だという認識でいたらしい。
子どもでさえ、水よりも牛乳やアルコールを飛ばした酒を飲んでいることが多かったというのだから驚きだ。
それが変わったのは、ひとえにゼガルドの魔法技術の発展のおかげだ。
おかげで魔法都市ゼガルドは、未だに隆盛を誇っている。
ノエルとしては、酒などそれこそ常飲したい気持ちなのだ。
が、あくまでも体はプリプリでキュアキュアな5歳女児である。
このふわふわした頼りない生き物の健康をおもんぱかって、ノエルは可能な限りアルコールを避けて生活していた。
(自分の体だが、我ながら頼りないな)
ノエルは筋肉のない自分の腕をそっと触ってみた。
前世では見慣れた筋肉はもはやない。
潜入捜査で日焼けした、厳ついボディが懐かしい。
(こんな細腕で何ができるっていうんだ)
もし男に生まれていれば騎士団に入って成り上がりたかった。
魔力を使って新しい必殺技でも生み出して、武功をあげたかった。
しかし、ここから待ち受けているのは、こうした社交の日々なのだろう。
いかれたおままごとの日々、継続。
(やる気がでねぇなー……気が抜けちまう)
ノエルは手の甲に隠して、小さくあくびを噛み殺した。
硝子の割れる音がして、爆音と悲鳴があがったのはその時だった。
「キャアアアアッ!」
女性の悲鳴とグラスが割れる音。
ノエルは無表情で素早く立ち上がった。
悲鳴や緊急事態には状況確認が最優先だ。
「何事ですッ?」
シーラが叫ぶ。
窓ガラスが割れ、獣の鳴き声がする。
パーティの参加者たちが叫び合っている。
「オークの群よ! 庭から中に入ってきたわ」
「どうして、こんな日にッ」
「騎士団は!?」
「玉座に近付けるな!」
「押すな! 私は貴族だそ! 玄関を開けろッ」
シーラが顔を強張らせた。
「ノエル様! オークのようです。お気を確かに」
「逃げるぞ、シーラ」
「お待ち下さい! 旦那様や奥様のご指示をッ」
「お……わ、私のような子連れで、シーラがすぐに遠くまで行けるとも思わない。父親と母親を待っていたら遅い。早く出るにこしたことはない。大人は何とか避難するだろう。それにパニックになった集団は危険だ。オークの群は庭からこっちに向かってるんだろ。一階のどこかの窓から外に出て、庭と反対方向に向かって走るぞ」
シーラは目を見開いた。
しかし、すぐに真剣な表情で頷いた。
「わかりました」
ノエルは靴を脱いで手に持った。
「さあ、早く。こっちだ」
「ノエル様、どうして分かるのです」
警官の職業病で、建物に入るとき、出口と避難経路と窓と階段を確認する癖があるのだ、とは言えない。
「……偶然、覚えていたの」
と言ってごまかす。
それよりも、今は逃げなければならない。
オークは人型をしているけれど、知能が低く、やっかいな魔物だ。
近頃では集団発生して、町にまで降りてくるときがあるというが、まさか宮廷にまで入ってくるとは。
ノエルはシーラと手に手をとって、ごったがえする廊下に出る。
紳士淑女たちが泣き叫び、足を踏み合ってののしり合う姿はさながら地獄絵図だ。
突き当たりにたどり着くと、シーラが窓を大きく開け放った。
すぐそこは裏庭の地面だ。
シーラに引き上げてもらって、ノエルは自分も外に出る。
「森の隣のあぜ道を抜けて、お屋敷の方へ向かって歩きましょう」
とシーラが少し落ち着きを取り戻して言った。
すると、シーラの顔に陰が落ちる。
ノエルはぎょっとして目を見開いた。
まさか、そんな。
一回り大きなオークが、牙を剥きだしにして、シーラの隣に立っていた。
「グォォォ……!」
顔から首にかけて、入れ墨のようなあざがある。
シーラが隣を見て悲鳴をあげ、駆け出す。
それでも、オークの方が速かった。
シーラの二の腕をひねりあげて掴む。
「イヤァァァ!」
「シーラ! やめろ、はなせっ!」
オークが噛みつこうと口を開く。
シーラは振り払おうとするが、オークの力は人間の5倍だ。
太刀打ちできる相手じゃない。
「お嬢様! お逃げ下さい!」
シーラは懸命に叫んでいた。
「くそ……!」
ノエルははいていた靴を手に持ち、思いっきりオークの眼を狙って投げつけた。
「グゥ!」
オークは顔を振り払った。
その瞬間、パッとシーラは身を引く。
だけど、シーラの二の腕をオークは馬鹿力で掴み、離そうとしない。
シーラが苦痛に顔を歪める。
(どうすればいい。どうすれば)
ノエルはオークとシーラの隣で考えた。
大声で助けを求めれば誰かは来てくれるかもしれないが、オークの群れを悪戯に刺激し、呼び寄せてしまったら万事休すだ。
オークの手に力がこもる。
シーラの二の腕を今度は両手で掴んだ。
「う、ああぁぁぁぁっ!」
「やめろっ!」
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