第3話 やだやだ言ってても月曜は来る
宮廷の儀式なんてあからさまにつまらない場所に出るのは、そりゃあ嫌だった。
けれど、伯爵令嬢ノエルは、その義務の価値を同年代の誰よりも理解していた。
五歳になったばかりの伯爵家の待望の長子。薔薇の如く、愛らしい美少女。
しかしその中身は、30年近く異世界の東島国の裏路でしのぎを削ってきた
(そりゃあ、伯爵家と繋がろうとする奴は、俺との結婚を餌に寄ってくるもんな)
食事室の椅子に座ったノエルは、準備されていた朝食を前にして手をそっと合わせる。
(ブリザーグの家の格はまあまあだが、財産は多い。先代が鉱山の出資で一山当てたのがデカいんだろう)
ノエルは他人事のように、自分の置かれている現状を脳裏に整理していく。そして、食事室に準備されていたサンドウィッチをぱくついた。
薔薇の蕾のような唇に、幾つもの小麦の白板が吸い込まれていく。
だが、自身の思考が自然と
この世界では貴族の子は皆、乳母やメイドに育てられる。
ノエルに乳をくれていたのは他の女だったらしいが、顔も名前も知らない。
同じ年代の子どもがいたとかで、乳の出がこの辺りでは一番良いと評判だったらしい。そのおかげか、大きな病気もせずにノエルはすくすくと育った。
一年半も経ってノエルが乳離れをした頃、乳母の役割は終わり、子守りとしてエリーが来たのだった。
(あー、にしても、エリーは今日も最高だったなぁ。あの髪をすいてくれる手の優しさったらたまんねぇ)
ノエルの子守係のエリーは慈愛に満ちている。
ひどく厳しいわけではないが、甘やかさずにマナーやしつけをするという方針のようだ。
怒るのではなく、叱って諭す。そこもプロ意識があって良い。
エリーは独身でまだ若いのだが、何というか母性みたいなものがある。
ノエルは最後のサンドイッチにかぶりついた。エリーには淑女たるもの小鳥のように食べるよう言い渡されているが、食事室にはたいていノエルしかいないので、好きなようにできる。
コランド伯爵もアイリーン夫人も、父と母ではありながら、ノエルと弟のマルクにはほとんど手をかけない。この世界では、子育ては乳母や子守係に任せて、社交にせいを出すのが貴族のあるべき姿なのだ。
だからといって子への愛情がないというわけではないらしい。
文化の違いというやつだろう。
乳母やメイドに関しての、伯爵家の女主人アイリーンの手腕は見事だった。実の父親や母親に育てられずとも、ノエルは十分に養育者(エリー)からの『愛情』を感じていた。
(まあ儀式にかこつけて俺を連れて行くけど、本当のところはブリザーグ伯爵家と縁故をもちたがっている有力貴族を、近くで観察できるからだろうな。『コランドお父様』も相当だ。あんな狸みてぇな人畜無害そうな顔した男なのに、ありゃあこれまでにもさんざん絵図を描いてきたに違いねぇな)
と、思いながら、ノエルは薄いはちみつ水を飲み干した。
ものすごく薄い酒のような匂いがするので、わりと好みだった。
(まあ遠くても親は親。会社と同じだ)
ここでの会社は株式会社ではなく、もちろんその筋の組織という意味だ。
組織にはやはりトップがいて、本家がある。本家から暖簾分けして独立すると、その組織の幹になる。そこから派生すると枝となり、末端の下請けのような会社は葉っぱだ。
元刑事なので、色々とその手の裏知識が増えてしまった。
結局のところ、組織の全ては大きな権力の頂点に集結するのだ。
(キャバやクラブでネエチャンはべらせてるより、エリーの手ェ握って蜂蜜飲んでる方が安心するんだよなあ~。これが母性かっ?)
「いただきました」
と小声でノエルが挨拶をしていると、ちょうどエリーが食事室に入ってきた。
皿を重ねて運び出し、ノエルの口元をクロスで拭いてくれる。黙ったままのノエルを見て、エリーは微笑みかけた。
「あらあら、どうしたんですか? ノエル様。大丈夫ですよ。緊張なさらなくても」
「いや。緊張はしていない。わ、私一人じゃないでしょう?」
昨日のパーティーはエリーがシャペロンとして一緒に来てくれた。
シャペロンとは貴族の女性がパーティーや舞踏会に参加するときに一緒に同行する女性のことだ。
父母は社交でどこかにいってしまっても、幼子一人拐かされる心配もない。
「エリーも一緒なら心強い、わね!」
「うふふ。可愛いノエル様に悪い虫がつかないように、よく見て居なきゃいけませんものね」
と、微笑むエリーに、ノエルもでれでれと頬を緩ませる。
エリーはわりと良いところのお嬢さんらしい。品が良い人間は話しているだけでこちらを気持ち良くさせてくれる。
「でも、今日の付き添いは私じゃありませんの」
「え」
「シーラという、アイリーン様のご実家、ロシュフォール公爵家のメイドです。既婚者で、ベテランの付添人ですよ。シャペロンとしても実績があって有名です。ここだけの話、アイリーン様のお世話もされていたとか。それにシーラは、昔ノエル様の乳母を……あら、時間ですね」
「えっ待って、すごく大事なこと聞いたような気が」
まごまごしているノエルを、食事室からあっという間に連れ出したエリーは、風のような速さで身支度を整えた。
ロビーのソファーに座らせられたノエルは沈痛な表情で、ピカピカに磨き上げられた爪の先端を見つめていた。
悔しいが、とても綺麗だ。
カツン、と靴音が近付いてきた。
「さあ、我が家の小さなお姫様。行こうか」
勲章を左胸につけた父親のコランドが、夫婦で連れ立って待ち合わせをしていたロビーの待合スペースに入ってきた。
「最近また肥ってしまってな。ジャケットが入るか心配だったよ」
父親を見るのは久しぶりだが、確かに以前よりも太ったように見える。裕福な貴族然としている。
(ま、貴族の面子ってもんがあるしな。俺も『子』としての、義理を果たすか)
と、ノエルは心中気合いを入れた。
これまで30年近く、義理と人情、面子と建前で生きてきた昔気質の体育会系なのだ。たいていのことは気合いで何とかなる。警察学校の際、剣道の大会で入賞した頃が懐かしい。
「お父様とお母様から離れてはいけませんよ、ノエル。ほら、お手々を離さないで。会場からはシーラが付き添ってくれますからね。今日は宮廷の王女様の生誕祭です。人がたくさんいるのよ」
良い香りのする母親が、心配そうに覗き込む。牛革の高級な長い手袋ごしの肌の感触は、エリーの瑞々しい手の感触とはもちろん違った。ノエルは母親の指先の辺りをそっと握った。
母親は満足そうにノエルの頬をつつく。
(ほーんと、お嬢様の仕草やら返答やら、こればっかりはいつまでも慣れねぇなあ)
「おや?」
「ノエル? 緊張してしまったかしら」
不審そうに眺めてくる両親を見上げて、ノエルは心を決める。
渡世に生きた、前世の自分を思い出す。
この居心地の良さと悪さの同居する、気恥ずかしさ。
ああ、これは、初めて潜入捜査で手柄をあげて、逮捕したときのようだ。
(割り切るんだ俺。乗り切れ俺。俺は伯爵令嬢。令嬢……令状……違った……令嬢だぞ……)
伯爵令嬢ノエルは、鈴の鳴るような愛らしい声で言った。
「ええ、オトウサマ。オカアサマ。緊張はしておりますが、ご心配には及びません。伯爵令嬢としてのつとめを果たします」
どことなくぎこちない響きではあったが。
(まったくこう
ここでいう義理とは、義理人情ではなく、冠婚葬祭のことである。
まあ、盃事だとか結婚式のようなめでたい席だけでなくて、法事だとか葬式だとか、祝いは祝いでも放免祝いだとか、その筋の者がずらりと黒く重々しいスーツに身を包んで一堂に会するイメージの方が強かった。
だが、この世界では圧倒的に社交の場だ。
舞踏会、誰それのパーティー、式典……これからも伯爵家の長女として、マスコット的に連れ回されるのだろう。
ノエルははらをくくった。
伯爵夫妻は顔を見合わせた。
「ご心配には……だなんて、ノエルはよく言葉を知っているんだなあ」
「そうでしょう。この子、最近、私も知らないような難しい言い方をする時があるのよ」
「ふうん……」
じっと見つめてくる両親に、ノエルは冷や汗をかきながら、大きな目をさらに大きくして、首を傾げて微笑んでみせた。
「……エリーに頼んで、たくさん本を読ませていただきましたの。わたくしも伯爵令嬢として、我が家の役に立たなければと思いまして」
自分でも分かるほど、わざとらしい。
しかし、親ばかたちには効果てきめんだった。
両親はワッと盛り上がる。
「ノエルは天才だなあ。可愛らしく賢いだなんて、私たちの姫は神様に慈しまれている!」
「この小さな女神ちゃんの頭の中には、どんな世界が入っているのかしらね~。ウフフ」
伯爵夫人に頬が腫れるほどキスをされ、伯爵にはちやほやと手をひかれ、宝物のように馬車にのせられる。
普通の令嬢であればそれを当然のことのように受け取り、自尊心とプライドを標準装備にして生きていく。
だが、ノエルは違った。
愛されれば愛されるほど、感謝と申し訳なさが募っていく。
(でかいウサギの巣に蛇が交じっちまったみてぇだ)
ノエルはこのかわいそうな無知の両親へのせめてもの償いに、フリルのついたドレスに袖を通し、キスをされ、天使ちゃんと呼ばれ、貴族の社交に連れ回される覚悟を決めていた。
そのために、一ミリもやりたくはないダンスの個人レッスンだとか食事の作法までまじめにやってきた。
(俺の人生どうなっちまうんだろうなぁ……)
豪奢な馬車も、荷馬車に見える。
市場に売られる仔牛の歌が聞こえる。
諦念を感じたノエルは馬車に乗るやいなや、紅いクッションに体を預けて目を閉じた。
馬車に揺られる美少女が、
(いかれたおままごとだ)
などという感想を抱いているとは、誰も想像だにしない。
かくして、王宮に集う並々いる美しい令嬢たちの中に、毛色の違う少女が一匹投入されることとなったわけである。
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