第2話 幼女は夢から覚める

 ねえ、可愛い私のノエル。


 優しい人になるのよ。


 あなたの中身は残酷なくらいにxxくて、xxxしいわ。


 それでも私には、何よりも可愛いのよ。




 あなたはxxいわ。


 きっと、誰よりも、何よりもxxくなるわね。




 だからこそ、あなたは誰よりも優しくならなければいけないわ。


 どうか幸せに生きてね。


 どんな身分でも、どんな姿形でも、あなたはきっと……




 人らしく、生きて頂戴。


 それが私の、たった一つの心からの願いなのだわ。






 誰かが喋っている……



 透明の膜の張った、まどろみの波の中で、心地よく掠れた柔らかな誰かの声が、鼓膜をあやすように揺らしてくる……





 *


 さて、それから五年の月日が経った。


 ブリザーグ伯爵家の長女の寝室は、まるでおとぎ話の夢の中に迷い込んだかのような美しい空間だ。


 部屋の入り口には、贅沢な模様と色使いの絨毯が敷かれ、高貴な雰囲気を漂わせている。


 壁には金箔で飾られた美しい薔薇の壁紙が貼られ、繊細な彫刻が施された木製の家具が配置されている。


 ベッドは豪華な金細工が施された四柱ベッドで、上品な絹のカーテンで覆われている。

 そのカーテンから透けるあわい光が、部屋全体を柔らかな輝きで満たしていた。


 寝室の中央には贅沢なドレッシングテーブルがあり、美しい鏡と共に化粧品や宝石が輝いている。

 まるで小さな美術館のようである。


 カーテン越しに差し込んだ朝の光がペンダントに当たり、キラリと反射する。

 その拍子に、寝台に横たわっていた少女は可憐な吐息を乱した。


「んぅ……」


 絢爛豪華なベッドの上で、ノエル・ブリザーグはゆっくりと目を覚ました。


 寝間着は最高級の絹で、伯爵家の紋章の薔薇の花をモチーフにした花柄が優雅に広がっている。


「朝か……」


 すると、寝室の扉が静かに開き、美しいドレスを身にまとったメイドが優雅に入ってきた。

 彼女の服もまた繊細な刺繍やリボンで飾られており、その服装だけでもこの家の高貴さを物語っている。


 動作や表情は快活でありつつも、落ち着いた品の良さがある。

 伯爵家の子守係(ナニーメイド)のエリーは微笑みながら、ノエルに寄り添った。


「おはようございます、ノエルお嬢様。新しい一日のはじまりですね」

 エリーは柔らかな声で言った。

 ノエルは起き上がって床に降り、目をこすった。


 エリーは一人掛けのソファに座ったノエルの真紅の髪に、薔薇の香りのオイルをなじませていく。


「昨夜はいかがでしたでしょうか、ノエル様? 夜遅くまで歴史のご本を読まれていたとお聞きしましたが」


 ノエルはあいまいに微笑みながら答えた。

「いや、ちょっと大陸の歴史に興味があっただけで……お、わ、私はこの国について何も知らないから」


「まあ。ご謙遜なされて」

 エリーはノエルの髪を梳きながら、微笑んだ。


「本当に賢いお嬢様です。エリーは誇らしいですよ。本日は宮廷の儀式がございます。ノエル様は初めてですね。伯爵もご一緒に参られますから、早めにお支度をいたしましょう」


 身支度が整うと、メイドは紅色の美しいドレスを用意した。

 薄い生地はノエルの頬の色と同じだ。


 エリーは着替えを手伝いながら、少女の柔らかな背中に目を落とす。天使の羽のような痣が、肩甲骨の間にある以外は、雪原のような白い背中だ。


 ノエルがその服を身にまとう瞬間、天使が舞い降りたかのように、彼女の美しさが一層際立ち部屋の雰囲気までもがパッと明るくなる。


「完璧ですわね。今日も大変美しく、最高にお可愛らしいですわ。ノエル様」


「……ありがとう」


 ノエル・ブリザーグは、その愛らしい果実のような唇を引き結んだ。


 エリーは、ほう、と溜め息を零す。美少女とは思っていたが、最近日増しにその美貌は光り始めている。絶世の美女とうたわれる日も遠くないかもしれない。


 隣の部屋から、ほにゃあ、ほにゃあと猫の鳴くような声がした。つい先日誕生した弟は、まだ乳飲み子だ。


「あら。マルク様が起きてしまったみたいですね」

「はやく行ってあげて。エリー」

「ではノエル様は先に食堂室へ。お食事を用意しております」


 エリーは重厚なドアを軽やかに開けて、静かに出ていった。


 一人になったノエルは、天使のような愛らしい容貌を金色の鏡に映した。

 鏡の中に映る幼い美貌には、どこか憂鬱な表情が浮かんでいる。瞳は遠くを見つめ、それはどこか遠い記憶や思い出に思いを馳せているようだった。


 絶世の美少女、ノエル・ブリザーグ。

 彼女はおもむろに、自分の頬を触った。

 毛一本生えていない。



「つきたての餅みてぇだ……」



 高貴な伯爵令嬢にはおよそ不釣り合いなつぶやきが、春の陽光を浴びた花びらのような唇から漏れた。



(しかも)



 そっと目を落としていく。

 真紅の瞳に人形のような長いまつげがそっと伏せられる。

 そして、美少女はドレスの上から、色白の傷一つない陶器のような手で、



 ぐわしっ!!



 と、股ぐらをつかんだ。



(やっぱり、ないッ……)



 そう、ないものはない。

 女性にはない。

 男性にはある。

 古今東西普遍のあるなしクイズである。



(5年経つのにまだ受け入れられねぇ……この俺が! 貴族の! お嬢様って柄かよ!?)




 男児ならまだ気持ちの切り替えができた……のかもしれない。


 だが、女。

 しかも、美少女。

 否、美幼女だろうか?


 故・辰也の沽券のために付け加えると、彼はもちろんシノギとして何箱かクラブも経営していたターゲットに近づくため、客としてその筋の店に行くこともあった。きれいどころとのアハンウフンもそれなりに経験してきた。

 だが、特定の恋人や愛人は必要ないと思っていた。大切なものなんてできてしまえば、仕事に差しさわりがでると思った。自分はそれほど器用ではなかった。


 だから、だ。

 辰也は知らなかった。

 

(こんな餅の妖精みてぇな体を、どうやって動かせばいいんだ……!?)



 取り扱いを間違えればすぐに壊れてしまうのではないか。


 アニメでよくあるロボットだかなんだかにのせられる十代のパイロットだって、もう少し頑丈な装甲でスタートするはずだ。

 こんな、華奢で筋肉がなくて、HP3みたいな身体に載せ替えられたって、どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。



(宮廷……)


 故・猪瀬……ノエルは怖れていた。

 貴族のお嬢様生活には恐ろしいことばかり起きる。


 うっかり退屈だと漏らせば、エリーが

「お嬢様、それではお裁縫をいたしましょうか」

 だとか言い出すのだ。


「春らしいモチーフで刺繍などいかがでしょうか。それとも、詩をお書きになってはどうでしょう」

「死……寝首をかく?」


「それとも庭園でピクニックをしながら、お花を摘んで冠にいたしますか。『木苺姫の午睡』や『ぬいぐるみ一家の大冒険』を持って行って、木陰でお読みになってもよろしいですね」

「……」


 こんな具合なのだ。


(どういう不手際か知らないが、転生のミスなんてあるのか!? もう死んじまってるんだから、綺麗に『前世』の記憶を消してくれ! 俺はイチゴ姫やままごとなんかよりトイチとイタチごっこの方が馴染みがあるんだ! こんな令嬢があってたまるか)


 天に怒り、恨み辛みを祈っても、何の音沙汰も無かった。


 こうしてようやく、現実をしぶしぶ受容しつつ、ノエルは育ってきたのである。





「嫌だな……」



(宮廷なんかくそくらえだ)



 ノエルはほっぺたにパンパンに空気を入れて、ブーッと吐き出した。

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