第15話 鼓動


 馬車の小窓から見える風景が、後ろに吹き飛んでいくように見える。

 だけど、もっと、もっと、ずっと速くと願う。

 心が、鼓動が、高鳴っていく。

 もう、わたしは、どこにでも行ける。行きたい場所へ、なんのしがらみもなく。

 わたしの心はどんどん急いていった。

 一刻も早く、隣国に行きたい。

 そのことしか考えられない。

 ミラー子爵家に着いたと同時に馬車から飛び降り、そうして屋敷の中を駆け出す。

「お父様はどこっ!」

 玄関ホールにいた侍女は、鬼気迫ったわたしに気押されつつも「み、皆様、サロンに……」と答えてくれた。

 廊下を走り、階段を駆け上り、そして、サロンの扉を思い切り開く。

「お父様っ! スティーブン様との婚約はなくなりましたので、わたしは隣国に向かいますっ! 手続きをおねがいしますっ!」

 言うだけ言って、わたしはくるりと背を向け、自室へと急ごうとした。まず、荷物をまとめて、隣国に行く準備を……と思ったのに。

「ま、待て待てレシュマっ! 一体何事だっ!」

 サロンにいたお父様に怒鳴られ、お母様とルークの兄様には目を剥かれた。わたしは、荒い息を整えながら、言う。

「ですから、スティーブン様から、もうわたしが婚約者でなくても良いと言ってもらえましたっ! これでもうわたしは自由ですっ!」

「だ、か、ら、レシュマっ! それでは何が何だかまったくわからんっ! 一から十まできちんと事情を説明しなさいっ!」

 もうっ! さっさと隣国に行きたいのに。

 だけど、婚約破棄なり解消なりの手続きをしないと隣国には行けない……のか。

 急いた心に止まれと言われたみたい。

 しかたがないので、早口に、それでも一番最初にスティーブン様と婚約を結んだとき、『醜い嫉妬をするな』と言われたあの時から、順を追って、説明をした。

 話しているうちに、辛い気持ちが甦るかと思ったけれど、そうでもなかった。

 スティーブン様とのことは過ぎ去った過去。

 そこに、わたしの心はもうない。

 今は早く隣国に行きたい。それだけ。

 淡々と話すわたしとは正反対に、お父様やお母様、ルークお兄様までも顔をしかめていった。

「ごめんなさい、レシュマ。そんなにあなたが苦しんでいたなんて、ちっとも知らなくて……」

 お母様は涙をハンカチで押さえていた。

「ウォルター先生がいたから……」

 ああ、ウォルター先生。

 わたしはウォルター先生にもらったネックレスを、ぎゅっと手で握った。

 今すぐに、このネックレスに向かって「そちらに行きます」って言いたい。

 そうしたら、先生はびっくりするかな……。

 待っていて、くれるよね……。

「どうしてもつらくなったら、逃げて来いって、ウォルター先生が言ってくれたの。逃げるわけじゃないけど、わたし、ウォルター先生のところに、隣国で新しく設立される魔法学校へ行って、そこで学びたい。お父様、お母様、ルーク兄様。わたしを隣国に向かわせてくださいっ!」

 お父様は顔をしかめていたけど、ダメだとは言わなかった。

「……スティーブン様との会話だけで婚約が解消になるわけではない。きちんとアルウィン侯爵と婚約解消の話し合いをしないとな……」

「ありがとうお父様っ! 入ったばかりだけど、学園の退学手続きもお願いしますっ!」

「……それに、レシュマ。お前、国家認定の魔法使いなんだから、隣国に行くのなら、魔法協会の許可とか申請とか、なんだかわからんが、伝達くらいは必要なんじゃないのか? 組織に、属しているんだから、何らかの規定があるだろう?」

「隣国で新しく設立する魔法学校……って。入学手続きとか試験とかはどうなっているの? そもそもいつからその学校は始まるの?」

 お父様、ルーク兄様、そしてお母様に立て続けに言われて、わたしは「あ……」と呟いた。

 スティーブン様から婚約はなしでと言われても、それイコール婚約解消ではなかった……。

 貴族社会は契約社会。

 婚約を解消するなら手続きがいる。

 魔法学校も、まだ、設立は……していないんだっけ?

「あの、お父様。婚約解消に……その、違約金とか、慰謝料とか、いるんですか……?」

「まず、婚約を結んだ時の契約書を取り出して、それの記載を確認して、それからアルウィン侯爵に手紙を……」

「そうね。とにかく各方面に連絡と確認を。レシュマ、あなたね、行ってしまえば、あとはウォルター先生がなんとかしてくれる……なんて、言わないで頂戴ね。いきなり行ったらご迷惑をかけてしまうことくらい、もう子どもじゃないんだから、あなたにもわかるでしょう?」

 あ……。

 飛んでいけば、あとはウォルター先生が助けてくれる。

 わたしはそう思っていたけど……。それじゃあ、迷惑をかけてしまうのか……。

 わたしは自分の掌で、自分の頬をぺちっと叩いた。

 浮かれてないで、落ち着かなきゃ。

  もう十五歳なんだし、一人前なんだから。

 今すぐ飛んでいきたい。だけど、やるべきことをやってから、行かないと。

 うん。わたしは頷いた。

「わかりました、お父様、お母様。どうかお願いします」

 最短で、わたしが隣国に行けますように。

 わたしはお父様たちに頭を下げた。

 不思議なことに、というか予想外に、アルウィン侯爵からは婚約解消に関しての文句などは言われなかった。

 あっさりと、実に簡単に婚約解消の手続きは済んだ。

 わたしとお父様が、指定された日付にアルウィン侯爵家を訪れると、そこにはすでに婚約解消の書類が用意されていて、わたしとお父様の名前をサインするだけになっていた。

 違約金だのなんだのもない。

 どういうことかと思って、思わず聞いてしまった。

「ああ……。もともとスティーブンとレシュマ嬢の婚約がこれほど長く持つとは思っていなかったからな。これまでの通り、すぐに婚約など破棄なり解消になるかと思っていた」

 そ、そうなのですか……とは言えなかった。

「まあ、あれの次の婚約者も決まってはいないが……。決める気もないので、どうでもいい。スティーブンは学園を卒業まではさせてはやるが、このアルウィン侯爵家を継がせるつもりはないからな」

 え? どういうことだろう?

 聞いてみたかったけど、アルウィン侯爵からは「手続きが終わったのだから、さっさと帰れ」と言わんばかりの目線で見られてしまった。

「こ、これまでありがとうございました。あ、あの、アルウィン侯爵夫人に……ご挨拶をさせていただきたいのですが」

 たくさん援助をしてもらった。アルウィン侯爵夫人のおかげで、今のわたしがある。

 だけど、挨拶することは叶わなかった。

「ああ……あれか、あれはもう実家に帰した。まもなく離縁が成立するだろうよ」

 とだけ、アルウィン侯爵が冷淡に言った。

「え……」

「お前たちとも無縁になるから、あれのことは気にしなくていい」

 アルウィン侯爵は、もうわたしにもお父様にも視線を向けなかった。

 離縁……。

 どういうことだろう?

 つまり、アルウィン侯爵はアルウィン侯爵夫人と離縁するから、スティーブン様を跡継ぎにはしない……? じゃあ、このアルウィン侯爵家は誰が継ぐんだろう?

 気にはなる。

 なるけど……。わたしたちが口を挟めることではないから、わたしもお父様も、頭を下げて、この場から去ることしかできなかった。

 カツカツと、足音が響く。大理石の、磨かれた美しい廊下。きれいだけど、どこか冷たい。

 そこを、わたしもお父様も、黙って歩き、馬車に乗り、そしてミラー子爵家へと戻るしかなかった。

 もやもやする。けれども仕方がない。

 とにかく、わたしとスティーブン様の婚約はなくなった。

 あとは、隣国まで一直線。

 それだけを考えた。



  ☆★☆



 出国手続きに、隣国までの馬車や船の手配も、魔法協会の名前を出せばスムーズだった。サクサクと準備は進む。

 だけど、隣国まで一人ではいかせられないということで、ルーク兄様と護衛や侍女もついてくることになった。ルーク兄様はせっかくだから、見聞を広めるために、あちこち回って見てみるとのことだった。

「ありがとう、兄様」

「別に。お前は妹なんだから、このくらい当然だろ」

 嬉しいな。

 心がホカホカするみたい。

 出国まで時間があったから、長く伸びた髪も、肩に届く程度に短く切り揃えた。

 軽い。

 身も心もすごく軽い。

 今ならシャボン玉に入って、そのまま隣国まで飛んでいけそう……。

 想像したら、なんだかすごく愉快になった。

 もしも、ここからウォルター先生のところまで、飛んでいったら。

 ウォルター先生は驚くかな……。

 別れを惜しむ相手も、家族以外にはいないから、あっさりとわたしは隣国へと向かった。

 ただその前に、アルウィン侯爵夫人……もう、元侯爵夫人かな……とアリスさんにだけ手紙を書いた。

 アルウィン侯爵夫人にはこれまでのお礼状。アリスさんには隣国に行くことを書いた。

 さあ、出発だ。

 胸が、期待でわくわくした。






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