第5話 迷路
楽しくて、楽しくて。
ウォルター先生との魔法の授業は本当に楽しくて。
わたしは子爵家に帰ってからも、すごい勢いで魔法の練習ばかりしていた。
そして、スティーブン様との交流の時間に、ウォルター先生に教えてもらった魔法がすごく楽しかったことを告げて、それから、わたしのシャボン玉の魔法をスティーブン様にも見てもらいたいと思っていた。
だけど。
「ふーん、レシュマはさぁ、僕と過ごす時間よりも、魔法のほうが好きなのかな?」
スティーブン様の顔はものすごく不貞腐れていた。
声も、不機嫌さを隠そうともしなかった。
「婚約者のくせに、レシュマは僕を蔑ろにするんだね」
その冷たい声に、わたしは声も出せなかった。
蔑ろになんて、してません。
わたし、スティーブン様が好きです。
言えなかった。
喉が詰まって。
メイさんとミアが、スティーブン様の腕にしがみついて、馬鹿にするみたいにわたしを見てくる。
「あたしたちはぁ、スティーブン様のことをいっちばんに考えているってのにねぇ」
「そうよ~。レシュマ様はスティーブン様よりも魔法のほうが大事なのね~」
わたしは反論もできずに、俯いた。
なにか言えば、涙が零れ落ちそうで。
だけど、アリスさんがわたしとスティーブン様の間に入ってくれた。
「スティーブン様、レシュマ様が魔法を練習するのはスティーブン様のためなのですよ」
「ええ⁉ なにを言っているのアリス。僕のためってどういうこと?」
咎めるとか、諭すとか、どんな感情も含まない、淡々とした表情と声で、アリスさんが言う。
「レシュマ様は、子爵令嬢です。侯爵家の令息であるスティーブン様の婚約者として、正直に申し上げて身分が足りない。ですから奥様は、レシュマ様にウォルター先生という有名な魔法の先生をつけて、レシュマ様の価値を上げようとしているのです」
「価値?」
「ええ。スティーブン様の婚約者になってくれるのは、子爵家の娘しかいなかった……と言われないようにとお考えなのでしょう。子爵家の娘であろうと、魔法の才能のあるレシュマ様を、このアルウィン侯爵家に取り込む……。それが、アルウィン侯爵家のためになると……」
「ふーん、お母様のねえ……」
「ですから、レシュマ様はスティーブン様を蔑ろにしているのではありません。逆です。むしろスティーブン様のために、レシュマ様はご自分の価値を上げようとしているのです」
スティーブン様は、不満げにしていたけど、渋々と頷いた。
「僕のため……だね。なら、レシュマが魔法を習うのは許すよ。だけど、僕、魔法には全然興味はないから。そんな話は僕には聞かせないでよね」
許すって……なに?
わたしが魔法を習うのに、スティーブン様の許可が必要なの?
わたしがしたいことをしているだけなのに、スティーブン様が駄目だと言ったらもう、何もできないの?
「そもそも、スティーブン様がお見合いのときに、レシュマ様に魔法の先生を紹介できるとおっしゃったのですよね? それを奥様が素晴らしい考えだと思われて、レシュマ様に有名な魔法の先生をあてがったのでしょう?」
「だって……あれは、違うよアリス」
「何が違うのですか?」
「僕の、アルウィン侯爵家は、レシュマの願いを叶えるほどにすごいから。だから、そんなすごい侯爵家の僕を大事にしてねっていう意味で言っただけで、本当に魔法の先生とか、呼ぶとか思ってもみなかったんだよ」
「スティーブン様……」
アリスさんがため息を吐いた。
わたしも何か言ったほうがいいかと思ったのだけど、アリスさんがわたしになにやら目配せをしてくるし、黙ってアリスさんとスティーブン様の話を聞いた。
「私たちはみな、スティーブン様を大事に思っておりますよ。ただ、その方法が人それぞれなだけです」
「人それぞれ?」
「はい。メイやミアは常にスティーブン様のお側に控えて、すぐにスティーブン様を支えられるようにと旦那様から指示をされています。レシュマ様はそうではありません。婚約者です。つまり、社交界で、アルウィン侯爵となるスティーブン様の隣に立つにふさわしい人格や教養を持っていると、他の貴族の皆様に思われなければならないのです」
「ふーん、で? 僕にはアリスの言っていることがわからないんだけど」
「スティーブン様の婚約者が、たかが子爵家の娘では、他の貴族から侮られる。スティーブン様、あなた様が他人から侮られないように、レシュマ様は魔法という方法で努力をしているところなのでございますよ」
胸の中がもやもやした。
アリスさんが、わたしを庇ってくれているのはわかる。そうだと、同意すれば、スティーブン様も納得してくれるかもしれない。
だけど、違う。
わたしは、元々、単純に魔法が好きなのだ。
だから、学べるのが嬉しい。
ただ、それだけなのに。
たくさん練習をした。びしょぬれになりながら、家でも何度も繰り返して。
そうして、魔法で作った、複数個のシャボン玉を、飛ばせるようになった。
スティーブン様に、わたしの魔法を見てほしかった。
がんばったことを、スティーブン様に伝えて、レシュマはすごいねって、スティーブン様からも言ってほしかった。
それで、スティーブン様に、わたしが魔法で飛ばしたシャボン玉を見てもらって、一緒にきれいだねって言えたら……って。
だけど、スティーブン様のために、魔法を学んでいるんじゃない。
魔法が好き。
スティーブン様が好き。
わたしの心の好きという感情は、ただ、それだけ。
それに、さっきスティーブン様は「僕と過ごす時間」と言ったけど、わたしとスティーブン様が二人で過ごしたことなんて、ない。
いつも、ミアさんとメイさんがスティーブン様の腕に引っ付いて。
わたしはそれを、後ろから、アリスさんと一緒に見ているだけ。
……そんな時間の何が楽しいというのか。
二人きりで、当たり前の婚約者同士のように、将来や愛や夢を語れたらいいのに。
わたしの好きなことをスティーブン様に知ってもらいたい。
スティーブン様の好きなことをわたしも知りたい。
二人でお話をしましょう。二人きりの時間を過ごして、二人だけの思い出を作りましょう。
願うのは、ただそれだけ。
なのに、たったそれだけを言葉にすることはできない。
だって、ミアさんもメイさんもアリスさんも連れてこないで、二人で話を……なんて言ったら、わたし、婚約を解消させられてしまうんでしょう?
僕の大切なミアとメイとアリスを蔑ろにするなって言うんでしょう?
スティーブン様と過ごす時間は、わたしの嫉妬心を無理矢理押さえつけている時間でしかない。酷く、つらい、だけ。
「ふーん、納得はしてないけど、仕方がないってことなんだね? まあ、お母様がレシュマに家庭教師をつけちゃったから、今更やめさせるわけにもいかないしね」
肩をすくめるスティーブン様。
メイさんとミアさんはくすくす笑う。きっとわたしとスティーブン様の仲がこじれるのが楽しいのね。わたしとの婚約がいつまでもつか……。今までの婚約者と同様に、すぐにでも解消になるんじゃないかって思ってる。きっと。
……ああ、嫌だ。胸の中がぐるぐるして気持ち悪い。
「ねえ、そろそろぉ、レシュマ様はぁ、お帰りになる時間なんじゃあない?」
メイさんが、言った。
「そうね~。今日はもう、レシュマ様は帰ったら~? ねえ、スティーブン様~。ミアとメイと一緒に本でも読みましょ~」
いつも、スティーブン様と交流をして、それから馬車に乗っている時間にはまだ少し早い。だけど、これ以上この場所にいれば、わたしはもう、何かを喚いて、泣き出しそうだった。
見たくない。
ミアさんとメイさんが、スティーブン様とべたべたする姿を、これ以上、もう見たくない。
「そうですね。では、私がレシュマ様を馬車までご案内いたします。さ、レシュマ様」
アリスさんがそう言って、スティーブン様たちに背を向けて、わたしのほうに体ごと向いた。
そして、小さく。スティーブン様とミアさんやメイさんに聞こえないくらいの小さな声で「……嘘でいいですから、ごめんなさいと伝えてください」と言ってきた。
え? と思ったけれど、アリスさんがすごく真剣な顔をしているから。
「ごめん……なさい、スティーブン様」
わたしは、アリスさんの言うとおりに、謝った。
言われた通りに、言葉にしただけの、中身のない、謝罪。
口の中が、ざらざらして気持ちが悪い。
だけど、謝ったらスティーブン様は笑顔になって「うん、いいよ。今回はレシュマを許すから。また次回ね。今度はおいしいものでも一緒に食べよう」と言った。
まるで、今のことは、なにも……なかったかのように。
ああ……泣きたくない。
今、スティーブン様の前で、泣きたくない。
スティーブン様が好きなのに。
どうして、わたしは、スティーブン様と一緒にいて、話して、そして……こんなにもつらいのだろう。
スティーブン様たちの姿が見えなくなるまで、わたしはそのままそこに立ち尽くしていた。ううん、姿が見えなくなった後もずっと。
「申し訳ありません、レシュマ様」
しばらくして、アリスさんがわたしに頭を下げてきた。
「え?」
アリスさんは何を謝っているのだろう?
アリスさんはわたしを庇ってくれたのに。
「スティーブン様は……その、幼いんです。ご自分が中心でないと拗ねてしまわれて。婚約者であるレシュマ様のお気持ちが、スティーブン様だけに向けられていないのが嫌なのでございますよ」
「え……」
「勝手なことを申し上げた上に、謝らせてしまって、申し訳ありませんでした。レシュマ様が引いてくださったので、スティーブン様も、しばらくは害した気分を引っ込めてくださるでしょう。ですが、レシュマ様」
一息おいて、アリスさんは言った。
「魔法のことは、これ以上スティーブン様におっしゃらないでください。次に、魔法が楽しいと、一言でもスティーブン様に言えば、きっとスティーブン様は……」
「また、気分を害する?」
「ええ。それどころか、スティーブン様よりも魔法に熱中しているレシュマ様を厭うようになるかもしれません」
嫌だな……と思った。
スティーブン様に厭われるのは、嫌。
だけど……。
「だけど、わたし……魔法が好きなの」
「存じております。魔法を習っている間のレシュマ様は……遠目から見ても、とても楽しそうでした。声を上げてお笑いになり、熱心に研究され……。その、スティーブン様とご一緒の時と、表情が全く異なって……」
「だけど、わたし、スティーブン様のことも好きなの」
「レシュマ様……」
「どうして、好きが両立しないの? 魔法が好きなわたしを、スティーブン様は、どうして好きだと言ってくれないの……?」
「スティーブン様はご自分のことだけを、大事にしてもらいたいというかたです。自分を好きなはずのレシュマ様が、魔法という他のことに意識を向けられるのが、そもそもご理解いただけない」
「え?」
「『僕のことが好きなら、僕のことだけ見てよ。ほかのことなんて、いらないでしょ』それが、スティーブン様の感情です」
アリスさんが、スティーブン様の口調を真似て言った。
「そんなの……」
無理よ、という言葉は飲み込んだ。いいえ、言葉にできなかった。
他のことは全て捨てて、スティーブン様だけを見て生きる?
他には何もしないで?
魔法も、忘れて?
足元が、ぽっかりと開いて、そこにできた穴に落ちていくみたいな気がした。
もしも……わたしが魔法を捨てて、ミアさんたちみたいにスティーブン様にべったりくっついているだけになったら。
それは、しあわせ?
ううん、違う。それはわたしのしあわせなんかじゃない。きっと、永遠に、暗い落とし穴を落ち続けるような気持ちになる……。
「ミアとメイが、旦那様に命じられているのは、まさにそれです。スティーブン様だけを見て、スティーブン様の機嫌を取って……」
「アリスさんも……?」
「私も、似たようなものですが……、少し違います。私には、奥様や旦那様への報告義務が、ございます……」
なんだろう。気持ち悪い。
言葉に表せないけれど、すごく気持ち悪い。
これ以上、なにも考えたくなくて、黙ったまま馬車に乗り込もうとした。だけど。
「あ」
わたし、アリスさんにお礼を言っていないことに気が付いた。もやもやした気分にはなったけど、それでもアリスさんはわたしをかばってくれたから。
「あの、アリスさん」
「はい、なんでしょうレシュマ様」
ありがとうと言うつもりだった。
だけど口から出た言葉はぜんぜん違った。
「アリスさんはスティーブン様が好きなの?」
アリスさんはさみしげに笑った。すべてを諦めている老婆みたいな表情で。
「初恋ではありますね」
「はつこい……」
わたしと、同じ。アリスさんも、スティーブン様に恋をした。
だけど、初恋の甘美で甘酸っぱい気持ちは、わたしにも、アリスさんにもすでになかった。
「初恋は叶わない……なんて言葉もありますね。元々私のような平民では、スティーブン様の隣に立つのは無理なんです。最初から、わかっていました。それでも、一時の寵愛でもいいから……と、願ったことも……あります」
願った。
過去形。
「今も、そう願っているの?」
アリスさんは首を横に振った。
「どうやったら、この気持ちを……、スティーブン様を私だけのものにしたいという気持ちをなくせるのか。それが分からずに、ただ、お側で、スティーブン様の姿を見ているだけの毎日です。出口のない迷路をうろうろしているようなものですね」
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