第4話 魔法
婚約してしばらく経って、わたしはアルウィン侯爵夫人から魔法の先生に引き合わされた。
「レシュマさん、ウォルター・グリフィン・ブラウンス先生よ。ようやくあなたに紹介することができるわ」
アルウィン侯爵夫人の横には赤い色をした短めの髪の男の人が立っていた。金色の瞳から放たれる眼光は鋭い。
「ウォルターだ。よろしくな」
低くて渋い声。若手魔法使い第一人者……のはずなのだけれど、騎士様の甲冑を着ても問題なく動けるような、広い肩幅とがっしりとした体格。わたしのお父様やお兄様よりも背が高い。先生の着ているフード付きのコートなんて、もしもわたしが羽織らせてもらったら、地面にずるずると引きずってしまうだろう。
大きいな……。
わたしは思わず、ウォルター先生を見上げてしまった。
怖い先生……なのかな……。
ドキドキしながら、早口で言った。
「レシュマ・メアリー・ミラーです。よろしくお願いいたします、ウォルター先生」
ドレスのスカートをつまみ、淑女の礼をする。侯爵家からの礼儀作法の先生に教えられて、礼はかなり上達した……はず。
「……おう」
ウォルター先生からの返事は短かった。
「あー、それでアルウィン侯爵夫人。週に一回、この屋敷に来て、レシュマ嬢に魔法を教えるのは良いのですが……」
「あら、何か問題があるのかしら?」
ウォルター先生に魔法を習えるのは貴族学園に入学するまでの短い期間。その間に、どれくらい、わたしの魔法は上達するのだろう。
「……侯爵家の、ご子息のほうには魔法は教えなくてよろしいのですか?」
「残念ながら、スティーブンは魔法には興味はなくてね」
ごめんなさいねぇと肩をすくめるアルウィン侯爵夫人。そんな仕草さえ、優雅でお美しい。
「そうですか。わかりました。んー、レシュマ」
「は、はいっ! ウォルター先生っ!」
いきなり名前で呼ばれてびっくりした。
「教え子だから『嬢』とかつけねーけど、いいか? あと、一応オレも、身分的には貴族の御令息ってヤツの範囲なんだか……。丁寧な口調も、あんまりできねえから……ビビらないでいろよ?」
いたずらっ子みたいな、にかっとした笑い。怖い人では……ない、みたい。
「は、はいっ! もちろんです!」
「ん。あーとな、今日は挨拶って言われて来たけど、このまま最初の講義に入っちまうか? それとも今日は挨拶だけで、次回から魔法を教えていくほうがいいか?」
わたしは一も二もなく答える。
「すぐにっ! 先生さえよければすぐにでも教えてほしいですっ!」
ウォルター先生は、目を細めた。
あ、優しそう。
大きな男の人で、ちょっと怖いのかと思ったけど……。
「よし、じゃあ、さっそく。……アルウィン侯爵夫人。庭とかお借りしてもいいですか? できれば噴水とか、小川とか、水のある場所が良いのですが……」
「ええ、案内させるわね。あたくしは用があるから、なにかあれば侍女に伝えてちょうだい」
「ありがとうございます」
アルウィン侯爵夫人が去った後、ウォルター先生は残っていた数人の侍女たちに
洗面器と石鹼を用意してほしいと伝えていた。
水……は、わたしが使えるのが水と風の魔法だからだと思うけど、洗面器に石鹸?
なにをするんだろうと思いながら、わたしはウォルター先生と一緒にウォーターガーデンという場所に案内してもらった。
☆★☆
案内されたウォーターガーデンも、うちの子爵家の屋敷が全部が入ってしまうくらい広かった。
あるのは噴水だけじゃない。水をたたえ、水生植物が生えている大きな池。魚までもが泳いでいる。その池に流れ込む滝。水音が、涼し気な音を奏で続けている。小川のそばには蔓性の植物をからませたパーゴラがあり、日陰を作っている。ベンチにテーブルまで、あった。
「そんじゃあ、このへんでいいか」
ウォルター先生は、洗面器に水を入れてくれと侍女の一人に指示を出した。侍女は言われたとおりに洗面器に水を入れて、そうして、それを、テーブルの上に置いた。
「レシュマ、この石鹸、水で溶いてみてな」
「は、はい……」
なにをするんだろうと思いながらも、わたしは洗面器の水の中に石鹸をボトンと入れた。そのまま手でかき回す。水のふちに、小さなシャボンができてきた。
「えっと、このくらいでいいですか?」
「もっとかな。まずはシャボン玉を作って遊ぶから」
「へ……?」
あの、ウォルター先生? シャボン玉を作って遊ぶって、先生にはわたしが、シャボン玉遊びするような小さな女の子に見えているんですか? そりゃあ、もっと小さいころは、お風呂に入るときにシャボン玉を作って遊んだりしていましたけど。今はもうやりませんよ?
ウォルター先生はわたしが作った石鹸水に、手をずぼっと入れて、親指と人差し指でわっかを作り、そうして息をふうっと吐いた。
小さなシャボンがいくつもできて。それが風に乗って、空を舞う。
晴れた空に、舞う、シャボン玉。
「わあ……、きれい……」
お風呂場と違う。屋外でのシャボン玉は、光が反射して、すごくキラキラしていた。
「だろ? レシュマもやってみろ」
「はいっ!」
ウォルター先生と同じように、わたしも右の親指と人差し指でわっかを作って、そこに息を吐き、シャボンを飛ばす。
舞って、すぐに消えるシャボン玉。
面白くなって、何度も何度も繰り返してしまった。
「さて、今作ったシャボン玉は、石鹸水さえあれば、魔法使いでなくとも誰でも作れる」
それはそうだ。小さい子だってできる。
「だが、これを魔法で再現するにはどうする?」
「え……」
魔法で再現……。
つまり、魔法で、シャボン玉を……作る?
ウォルター先生が、にやっと笑って。指をパチンと鳴らした。
すると、ウォルター先生の背後からぶわっていう感じに、いきなり無数のシャボン玉が現れた。それがふんわりと風に乗って、空にまで飛んでいく。
「すごい……」
わたしだけでなく、アルウィン侯爵家の侍女たちも驚いて、シャボンを見上げていた。
「いきなりこんなにたくさん飛ばさなくてもいい。一つでいいから魔法でシャボン玉、作ってみな」
シャボン玉を、魔法で作る。
「現物は、今見ただろ。実際に作って、感触も感覚も分かっただろ。じゃあ、それを魔法で作るにはどうすればいい? レシュマ、まず、自分で考えてみな」
水で作ればいいのか。
それとも、この石鹸水を材料にして?
とにかくやってみる。
すぐに、水で、リンゴくらいの大きさの、球体を作った。
「……これじゃ、シャボン玉じゃなくて、水の玉だわ……」
飛んで、はじけるようなシャボン玉ではない。
むうっと顔をしかめたら、ウォルター先生が感心したみたいな声で言った。
「いきなりウォーターボール、作っちまったか……」
「ウォーターボール?」
「ああ。それ、今お前が作ったやつ。それ、そのままパーゴラの柱にでもぶつけてみろ」
「はい」
水の玉をヒュッと飛ばして、パーゴラの蔦の絡まっている柵にぶつけた。バシャッと音がして、柵が濡れる。
「それな、暴漢とかに襲われたら、ぶつけちまえるぞ。好きでもない男に迫られた時とかもな」
「な、なるほど……」
暴漢に襲われたりすることなんて、ないだろうけど。
なるほど、攻撃魔法の一種になるのね。
「シャボン玉じゃねえけど……。レシュマ、すげえな」
「そう……ですか?」
「ああ。いきなりウォーターボールは作れねえぞ。しかも、言われたとおりに飛ばせたしな……」
そういうものかな?
でも、このくらいだったら、初級魔法の先生にも教えてもらっていたことの応用みたいなものだけど。
「ヒントとか言わなくても、お前なら、すぐにシャボン玉くらい作れちまいそうだな……」
ぼそりとつぶやいた、ウォルター先生の言葉が嬉しかった。
「ま、どうしても出来なかったら、作り方は教えてやる。まずは自由に、自分でやってみな」
「はいっ!」
そのまま、どのくらいわたしはシャボン玉作りに集中していたのだろうか?
何度も何度も試行錯誤を繰り返し、ようやくわたしは一つだけ、小さなシャボン玉を作ることができた。
「見てください先生っ! わたし、できましたっ!」
「お、おう……。一日目にしてできるとは……。マジですげえなレシュマ……」
わたしが、魔法で作ったシャボン玉。
ウォルター先生みたいにたくさんじゃあない。たった一つ、だけど。
だけど。
「すごく嬉しい……」
「おう、良かったな」
ウォルター先生が、わたしの頭をわしわしと撫でてくれた。……えーと、小さい子ども扱い? それとも犬?
「あ、すまん。淑女の頭を撫でるもんじゃねえな」
「えーと、ウォルター先生からすれば、わたしなんて子どもですよねえ……」
そういえば、ウォルター先生って何歳なんだろう?
若手って言っているけど、魔法使いはかなりかなり年を取っていても現役だから、四十歳とか五十歳とかでも若手だよね。
「オレは、そんなに年寄りじゃねえぞ……」
すねたみたいに口をすぼめて、ウォルター先生は言った。
「んと、おいくつなんですか?」
「……二十八」
「え……」
三十代は通り越していると思っていたんだけど……。
「……わたしが十三歳だから、えっと十五歳差ですね」
「……どうせ年寄りだよ。老けて見えるんだよ、オレは。三十以下に見られたこと、ねえよ……」
大きな体を丸めてしゃがみ込んでしまったウォルター先生。ずーん……っていう感じに哀愁が漂っている。
侍女さんたちは、笑いださないようにと口元を引き締めた。
「えっと、貫禄があるということで……よろしいんじゃないかと……」
他に言いようがなくて。
ウォルター先生は自嘲するようにふっと笑ってから、立ち上がり。そして、わたしのほうを向いた。
「ああ……、びしょぬれになっちまったか……」
わたしの髪の毛もドレスも、結構濡れていた。水、かなり触っていたから。手も足も冷えて、ぶるっと体が震えた。風の魔法で乾かしたら……風邪をひきそう。寒い。
「今乾かしてやるから、ちょっと近寄るぞ」
「はい?」
わたしが首を傾げた途端、ウォルター先生が、さっきのようにパチンと指を鳴らした。
ふわりと、温風のようなものに包まれて、わたしの濡れたドレスはすぐに乾いた。冷えた体も温かくなった。
「わあ……すっごい……。これ、風の魔法……?」
「水分を蒸発させるとともに、風を温めて送る。これもそのうちお前に教えてやるけど。いいか、自分一人ではぜったいに試してみるなよ」
ぜったいに、という言葉にものすごい力が籠っていた。
「一歩間違うと、体の水分抜けて、干からびるから」
ミイラってわかるかと言われて、血の気が引きそうになった。
「シャボン玉作るんだったらいくらでも練習して良いぞ。今日は一つだけ、だったが。次回のときは複数作れると良いな」
「はいっ! 今日子爵家に帰ったら練習しておきますっ!」
楽しくて、すごく練習して。
ウォルター先生との次の授業のときに、わたしは百個くらい一気にシャボン玉を作れるようになっていた。
ウォルター先生は、何度も何度もすげえなと言って、褒めてくれた。
嬉しかった。
すごく嬉しくて、わたしはウォルター先生と一緒に、大声で笑った。スティーブン様と婚約してから、初めて、心の底から笑ったと思った。
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