第3話 ホームラン

「だから、なんでウチだけ!」


 つい数週間前に吐いた台詞を床にたたきつけ、放課後のあたしはまたバケツとほうきを手に化学実験室に向かった。二日連続で電車の遅延で遅れ、「電車は遅れることがあるからそれを見越して登校すること」なんていう昭和な考えがある校風と知った。いい加減にしてよと言いたくなったが、担任の汚れた眼鏡を見たらその気力もなくなり、めでたく再び罰掃除を仰せつかったのだ。五月考査では英語でクラス一位をとったのに、金髪フルメイクギャルに対しては目線が厳しいらしい。


 でも、今日はピーチティーだから。あたしは昨日飲み物を買った自販機の列を思い出して内心ふふと笑った。ピーチティーは夏の期間限定らしく、先週登場した新入りだ。梅雨の正念場である六月も悪くない。その前にそこにあった飲み物を買えなかったことが残念だったものの、桃味はたいていこちらを裏切らない。


 イズミンはどう思うかな。感想を聞く限り甘党ではなさそうだから、ちょっと甘過ぎるって思うかも。そう言えば、紅茶派かコーヒー派かも聞いてない。カフェオレを飲む機会があったら聞いてみよう。


 そんなことを考えながら実験室の扉をガラガラと開けると、「なんだ、また姫宮かよ」という声がした。ぱっと顔をあげると、背を向けて机に座った碓氷がこちらを振り返ってにやっとしている。机に見覚えのある黒縁の眼鏡が置きっぱなしだ。一人かと思ったが、碓氷の足の間に黒髪のくせっ毛が見えて、そこに和泉がいることに気づいた。


「……えっ?」


 一拍遅れて、状況を理解した。彼氏がいないあたしでも、興味本位でネットにある大人の刺激的なマンガは読んだことがある。だから、今、和泉と碓氷がなにをやっていたのか分かった。ただ、それを受け入れるのに時間がかかっただけだ。


 ガラン。大きな音がして、廊下にバケツが転がった。その音に我に返り、思わず実験室から遠ざかるようにじりっと後ろにさがる。碓氷がくっと笑った。


「なんだよ、この前は動揺なんてしてなかったくせに」


 碓氷が和泉の髪を掴んで顔をあげさせて、あたしは眼鏡を外した苦しそうな顔に目が釘付けになった。


 別棟は相変わらず人気がなく、同じ階から人の気配はない。おそらくそれを見越して碓氷はここを選んだのだろうが、あたしはどっと汗が噴き出るのを感じた。半袖になったシャツが急に寒々として、鳥肌が立つ。


 誰か、先生を呼ばなきゃ。


 そう思うのに足が動かない。上履きが廊下に貼りついてしまったかのように、最初の一歩を踏み出せない。


 違う、駄目。先生を呼んだら和泉が傷つく。こんな古い考えの学校で、和泉が退学処分になんてなったらあたしは。


「おい」


 ふと気づくと碓氷が目の前に立っていた。身長が高い碓氷を馬鹿みたいに見上げると、いきなり金髪を掴まれて実験室に引きずり込まれた。


「痛い!」


 あたしの悲鳴に、床に膝をついていた和泉がはっとしたように顔をあげた。


「碓氷、痛い! 離して!」


 頭を引っ張られる手を振り払おうとすると、碓氷はあたしをそこにある椅子に押すように座らせた。どすっと座った丸椅子がなんだかひやりとしていて、金属製の足に素足の部分が触れると冷たい。そんなあたしに屈み込んできた碓氷が顔の側で威圧感のある声を出した。


「姫宮、千尋が俺に今なにをしてたか分かるよな? 多分、お前もやったことあるんじゃねえの。先生にチクるか?」


 あたし、そんなふうに見られてるんだ。その言葉にショックを受けたと同時に、和泉はしたことがあるんだという現実がひやりと背中を撫でた。だが、ぐっと堪える。ここで怯んでは駄目だ。碓氷が今意識しているのは和泉で、あたしじゃない。こちらが平然と振る舞えば、「クラスメイトにそういうところを見られた恥ずかしい和泉」なんてものは生まれない。


 深呼吸したい気持ちを必死に堪え、「女子の髪を引っ張るとか信じらんないし!」と怒って碓氷を睨み上げた。


「馬鹿にしないでよね。ウチの彼氏、アンタと違って超紳士だからそういうことは強要しないし。学校の廊下でチューして実験室でエッチしようとするアンタとは違うの」

「お前の彼氏、いくつだよ?」

「二十。大学三年生。バイオサイエンス学科で研究者目指してんの」


 兄の情報をそのまま口にすると、碓氷はふうんと鼻白んだ。あたしは髪を引っ張られてずきずきする頭を押さえた。


「前にも言ったけど、こういうのは家に帰ってからにしてくんない? 罰掃除のたびにアンタらにびっくりするの、嫌なんだけど」


 そして「ウチが家に帰るのが遅くなるじゃん」と口をとがらせてじろりとねめつける。全く和泉に触れないこちらに毒気を抜かれたのか、碓氷は拍子抜けしたように頭を掻いた。


「あっそ。じゃあ罰掃除頑張って。千尋、お前も手伝ってやれよ」


 碓氷はさっさと実験室を出て行き、急に体から力が抜けた。丸椅子にそのまま座り込んでいたかったが、廊下の落とし物は放っておけない。あたしは動かない和泉から目線を逸らして足に力を入れ、必死に立ち上がって廊下に出た。リノリウムの床に上履きがきゅっと鳴って、急にどくどくと音を立て始めた心臓を落ち着けようと二度深呼吸する。


 あたしが今すべきことは。呼吸を整えつつ頭を整理する。イズミンにいつも通りに振る舞うこと。そう、きっとこれが正解。


 ふうと息を吐き出すと、落としたままの雑巾やバケツ、ほうきを拾ってから実験室に戻って扉を閉めた。ゴトという扉の音が鳴った次の瞬間、後ろから「姫宮さん!」と大声が聞こえた。


 和泉の声に驚いて振り返り、その場で足を止める。和泉は俯いていて、その顔は前髪に隠れて見えない。こちらを見ないまま小さな声で続けた。


「これは、俺が納得した合意の上でのことだから、先生に言わないでもらえると、助かる」


 その言葉に机に置かれたままの黒縁眼鏡を見た。必死に肩で息をしている和泉の呼吸音が聞こえる。あたしは深呼吸してつかつかと和泉に近寄り、「はい」と眼鏡を取って差し出した。


「イズミンが言ってほしくないなら言わないよ。今、イズミンが言った合意の意味も分かってるし」


 そこで一応首を振った。


「ごめん、違う。イズミンがウチに言いたいことは分かる、かも」


 すると和泉は強張らせていた肩でふうと息を吐き出し、ようやく俯いたまま「ありがとう」と眼鏡をかけ直した。黒縁眼鏡の野暮ったいいつもの和泉になると、ふーっと細く長い息を吐き出して「今のは」とぼそぼそと言う。


「そんな、いつもしてるとかじゃ、なくて」

「うん」

「学校でしたのは初めてだし、というか、それ自体初めてだったし、まだしてないし」

「うん」

「俺が、なにを言いたいかというと、姫宮さんが来てくれて、よかった、ってこと」


 あたしは「うん、分かった」とこっくりと頷いた。


「今度罰掃除になったらもうちょっと早く来るね」


 すると和泉がぱっと顔をあげてこちらをまじまじと見た。そして顔を和らげてくすっと笑う。


「また罰掃除をする予定なの?」


 あたしも同じくらい笑ってみせた。


「超ムカつくけど、ウチ、先生から目つけられてるっぽいし」


 あたしはわざと下から覗き込むように和泉を見た。


「でも、見た目って重要なんだなって納得するほど、ウチ、青春を諦めてないし。イズミン、こんな見た目のウチでも中学の頃はクラス委員長だった、って言ったら信じる?」


 案の定和泉が「えっそうなの?」と驚いた顔に変わる。


「ううん、めっちゃ嘘。図書委員でカウンターの下でこっそりマンガ読んでた。ブラック・ジャック、お金の取り方がエグすぎてウチじゃ頼めないなって思った。ちなみにさっきの架空彼氏の情報も全部でたらめ」


 すると和泉は、一転「姫宮さんってやっぱり変わってるね」とははっと笑い出した。和泉から笑顔を引き出せたことに安心し、あたしは「さて」とほうき等を指さす。


「イズミン、今日もバイト? ウチの罰掃除、手伝ってく? 今日のお礼はピーチティーになるけど」


 すると意外なことに和泉は「それ、昨日飲んだよ」と言った。そしてこちらを見てにっこりする。


「俺はその隣のアップルティーを飲もうかな。昨日姫宮さんが画像をくれて、気になったから。掃除が終わったら一緒に買いに行く。今日はバイトないから」


 思わず「ホント?」と聞き返すと、和泉は眼鏡を押さえて笑い、掃除道具が入ったグレーのロッカーを開けた。埃っぽい実験室が急に明るくなった気がする。あたしはうきうきで「ちょっと空気の入れ換え!」と窓を開けようとした。だが、水道場が手前にある実験室の窓のクレセント錠に手が届かない。つま先立ちでそれに手を伸ばすと、「はい」と後ろから和泉の手が伸びてきてそこをカチャンと回した。その手が骨張っていて大きい。


 和泉、男子だ。あたしよりずっとずっと背が大きい。……鍵を開けてくれただけなのに、すっごく嬉しい。すっごく胸がどきどきしてる。


 体がかあっと熱くなって、教室のほうを振り向くのが難しい。「風、気持ちいい!」と窓のから入ってくる湿気交じりの新鮮な空気を吸うと、後ろでくすりと笑う声がしてほうきが床を撫でる音がした。


 結局帰りに第一校舎脇にある自販機に寄って二人でジュースを買った。また人のいない教室内で紙パックで乾杯し、和泉がアップルティーを、あたしはピーチティーを飲む。和泉とはたわいもない話ばかりした。今日の英単語の小テストはできた、化学の元素周期表を歌で覚えるのがちょっと恥ずかしい、古文の已然形の「已」の字が書きにくい、等々。教室の時計が四時を回ったとき、お互い紙パックを飲み干した。


「イズミン、答えたくなかったら言わなくていい。でも聞く」


 和泉があたしの台詞に手を止める。その和泉を真正面から見た。


「碓氷とは付き合ってない。でもそういうことは合意。つまり、セフレってことだよね」


 一生口にするとは思わなかった単語を口にすると、体の中で冷たいものがひやりと駆け抜ける。和泉は諦めたかのような顔で、静かに「そういうことになるね」と同意した。あたしはよし、と座っていた椅子から立ち上がって、腰の位置で数回まくり上げたスカートの長さを確認した。昨日塗り直したばかりだから、紫陽花色のネイルも今日は完璧だ。今日のあたしは百パーセント。そう自分を鼓舞して、腕を上に引っ張って伸びをした。


「じゃ、女子と遊んだっていいよね。ウチ、どっか遊びに行ってスカッとしたい。イズミン、どっか行かない? 気晴らしに遊ぼうよ」


 えっと驚くはず。そう思って和泉を見たが、彼はちょっと考えるようにして「それがいいかも」と呟いた。


「どうせ、図書館とか行って家に帰るのはいつも夜遅いから」

「いいの?」


 思わず声が大きくなって、はっとして顔を赤らめた。誤魔化すように口をとがらす。


「罰清掃のあとってストレスが溜まるんだよね。なにがいい? ボーリング? カラオケ? ゲーセン? バッティングセンター?」


 男子が好きなものが分からなかったので、学校近辺で遊べるものを挙げる。すると和泉は急に笑顔になって「バッティングセンター!」と即答した。


「俺、これでも中学は野球部」

「えっ、マジ? それ、今日イチの驚き」

「文化部っぽいって思われてるだろうなって思った。でも、姫宮さんは制服じゃ難しいかな」


 和泉がこちらの短いスカートをちらっと見たので、さっき百パーセントなんて思った自分に恥ずかしくなった。急いで折り返した部分を直して、スカートの長さをチェックする服装検査のときのように膝丈に戻す。


「これで大丈夫!」


 ぱんぱんとスカートを払ったあたしに、和泉はくすっと笑ってカバンを持った。教室のゴミ箱に紙パックを捨てて、電車で二駅のところにあるバッティングセンターへ行く。髪をシュシュでまとめると、先にバッターボックスに入った。


「実はウチ、初めてなんだけど」


 すると和泉がネットの向こうの通路側で「まず一球やってみて」と言う。だが、案の定スパーンと音がしたときは空振りで、かすりもしない。もう一度とバットを構える。その後ろから和泉が明るい声を出した。


「今体育でテニスやってるでしょ。テニスのラケットだと思って振って。絶対当たる!」

「オッケー、任せて!」


 足を広げてボールが飛んできた瞬間、テニスの要領で腕を振った。腕の先にかかる重い手応えとともにキーンと金属の鈍い音がした。向かいの緑のネットにぼすっと球が当たって落ちる。


「すっご! ホントに当たった!」


 思わず声をあげると、「後ろからその調子!」と声援が来る。その楽しそうな声に「めっちゃ嬉しい!」とバットを構えた。急に体中が熱くなって額に汗が出てくる。だが、メイクが落ちるといったことは考えなかった。一球打つごとに実験室での画像が薄れていく。


 十球打つと、「交代ね」と網で仕切られたボックスから出た。和泉はボックスの並んだ一番端の、左利き用の人のところへ移動した。和泉がそこにあるバッドを眺めて選びながら、ちらっと向かいのネットを見た。その目線の先に、ここに当たればホームランと書かれた丸い白い部分がある。


「姫宮さん」


 バットを選んだ後ろ姿の和泉がボックスに立って、バットを構える。左利きを強調する構えが、和泉の和泉らしさをくっきりと浮かび上がらせる。


「俺がもしあそこのホームランに球を当てたら」


 だが、それ以上言葉は続かず、和泉の振ったバットがカキーンとお手本みたいな音がしてボールを飛ばす。その髪の揺れも、振り切ったあとのバッドを持つ手も、教室では見られない和泉だ。ぼすっとネットに突き刺さる威力に和泉の本気が出ている。ああ、かっこいい。そう思ったら思わず叫んでいた。


「イズミン、すごい!」

「これだけは自信があるから」


 笑う和泉は決してこちらを振り返らなかった。多分、さっきの言葉の続きが言えないからだろう。でも、振り返らないでくれてよかった。トマトのように真っ赤になっているに違いない顔は見られたくなかった。


「楽しかったよ。また明日ね」


 駅で笑顔の和泉と別れ、あたしは夕日の沈む景色を眺めながら電車に揺られた。腕が若干痛くなっていて、手のひらもこすれてなんだかひりひりする。


 あそこのホームランに球を当てたら。結局そんなことは起こらなかったが、もし当てていたらどうだったのだろう。和泉はわざと当てないようにバットを振っていたのだろうか。


 切ない胸の痛みとともに息を吐き出す。ようやくそこで今日のジュースの画像を撮り忘れたことに気づいた。


 その日から和泉はあたしが画像を送るたびに毎回返事をくれるようになった。内容はジュース以外のことのほうが長かった。学校生活のことも多かったが、野球部ではどこのポジションだったのかだとか、好きな食べ物はなんなのかだとか、あるときは和泉から宿題が分からないから教えてほしいと言ってきたときもあった。


 通話してお喋りしたい。文字を打ちながらそのまどろっこしさにくちびるを噛む。だが、それをしてしまうとなにかの一線を越えてしまう気がした。たまに和泉は夜遅くまで返信が来ない上に明るい話題を避けることがあって、碓氷と会ってたんだろうなと薄々気づいてしまう。そんな日に電話をしたら、余計なことを言ってしまいそうだった。


 和泉とは変わらず学校では話さない。あたしが友人とかわいい髪型の動画を検索して騒いでいるときも、今秋から始まるアニメの声優について盛り上がっているときも、宿題の多さに愚痴っているときも、ただただ和泉は静かに教室で座っている。


 確認したことはないし、和泉から確認されたこともない。だが、メッセージをやり取りしているときは同じ気持ちだと信じたかった。名前のつけられない関係性に揺られていると、和泉の透明な水の中に入って閉じ込められたような気持ちになる。


 あたしはそこで息をするのに精一杯で、毎晩水を抱くように眠った。


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