第4話 撃ち抜けヴァージン

 数学のグラフのように斜めに雨が降る日、屋根付きの廊下を渡って放課後の体育館へ向かった。梅雨はもうすぐ明けるとニュースで言っていたのに、その日は雨で気温が低かった。ボールとバッシュがキュッキュッと鳴る体育館の中からかけ声が聞こえてくる。部活に入ってないあたしとは違って青春してるんだなと思いつつ、あたしの青春はこっちと思いながら自販機を眺めた。


 今日からはこの体育館前の自販機。一番上の列のボタンに指を伸ばそうとしたとき、「ふざけんな!」という怒鳴り声が聞こえて、あたしは手を止めてきょろきょろした。この大声を聞いたことがある。教室前の廊下で聞いた碓氷の声と同じだとピンときて、慌てて声のする体育館の裏手へ回った。体育館と狭い自転車置き場の間で、土が雨に打たれている。軒先の下で碓氷が和泉の胸ぐらを掴む姿が目に飛び込んできて、「ちょっと!」と雨に構わず駆け寄った。


「碓氷! なにしてんの!」


 碓氷を和泉から引き剥がそうと腕を掴んだが、強い力で振りほどかれて和泉の左頬にこぶしがめり込む。だが、よろけた和泉は無言で頬を押さえるだけだ。


「イズミンもなんでやられっぱなしなの! アンタらなんで喧嘩してんのよ!?」


 こちらの叫びも聞かず、碓氷が二発目を繰り出した。和泉がぐっと小さく声をもらし、くの字に腹を折る。男子の本気の喧嘩など見たことがないあたしの顔から血の気が引いたが、碓氷はこちらを睨んだ。


「姫宮、なんでこいつの味方してんだよ? こいつを助ける価値なんてねえのによ」


 碓氷は嘲るような目つきで和泉を見た。


「こいつの母親、最低なんだぜ。俺の親父を寝取って不倫してよ。親が離婚して家族がバラバラになったのも、名字が変わってすげえ嫌な思いをしたのも、家を引っ越して転校しなきゃなんなくなったのも、全部こいつの母親のせいなんだよ! どうせシングルマザーで頑張ってますとか言って親父につけ込んだんだろ!」


 碓氷の暴露にあたしの思考回路が一瞬停止した。寝取る。不倫。名字が変わる。平穏で平凡な家庭で育ったあたしには縁のなかった言葉が、碓氷の口からぽんぽんと飛び出してくる。


「昨日親父に呼び出されて驚いたぜ。なんとこいつの母親と再婚するんだとよ! つまり、俺の親父はこいつの父親になるってことだ。寝耳に水で問いただしたら、実はとっくに同居してて来月には妹が生まれるんだってよ。ふざけんなよ!」


 あたしは唾を飛ばして怒りを振りまく碓氷と、黙ったまま無表情の和泉に視線を行ったり来たりさせた。和泉とちらりと目が合ったが、ふいと逸らされる。また碓氷が殴りかかろうとしたので「待って!」と声をあげた。


「碓氷につらいことがあったのは分かった! だけど、それはイズミンのせいじゃない! イズミンに当たるのは変だって!」

「じゃあ父親や妹ができてよかったなとでも言えばいいのかよ? こいつが昔の俺の名字を名乗るとか、こいつと血の繋がったガキができるとか、反吐が出そうなんだよ!」


 碓氷の顔が歪んで、あたしの気持ちもぐしゃぐしゃになった。碓氷はあたしには到底分からない苦しい気持ちや嫌なことを体験していて、怒りの矛先をどこに向けたらいいのか分からないのだろう。ようやく碓氷が彼女を大切にしているという言葉の意味が分かった。きっと碓氷は父親のようになるまいと彼女を大切に扱い、父親を得た和泉からはそういう幸せを取り上げたいのだ。だから好きでもない和泉に恋人役をやらせている。


 多分、碓氷もそれが間違いだと分かっている。あたしたちはそれに気づかないほど子どもではないし、でも割り切れるほど大人でもない。だが、潔癖を求めてしまうくらいは恋に夢を見ている。


 それはきっとここにいる三人の共通事項。


 激昂した碓氷が和泉に向き直る。


「親父は大変だよな! 俺の養育費を払ってお前のことも養わなきゃなんねえ!」


 すると和泉はぎゅっとこぶしを前で握りしめた。


「高校は奨学金を借りてるし、なるべくバイトもしてるよ。……新しい家庭に迷惑をかけたくないから」


 新しい家庭。和泉の言葉は自分を数に入れていない。その言葉にさっと血の気が引いたとき、碓氷のこぶしで和泉の眼鏡が飛んで、土にぽすっという軽い音を立てて落ちた。黒縁眼鏡が雨に打たれる。


「ねえ、やめてってば! こんなことしても碓氷もつらいだけでしょ!」


 こちらを振り返った碓氷がなにか言おうと口を開いたとき、どこかでスマホがブブッと振動する音が聞こえた。碓氷がポケットからスマホを取り出し、「リサからか」と呟く。途端に怒りを静めて普段の表情になり、地面に置いていたカバンを肩にかけた。


「リサが待ってるから行く。千尋、親父に余計なこと言うなよ」


 踵を返した背中に「分かってる」と和泉が律儀に返事をする。碓氷はなにも言わずに傘を差して立ち去り、あたしと和泉は二人でそこに取り残された。


 イズミン。あたしが声をかけようとしたとき、和泉は軒先から出て、転がった眼鏡を拾った。そして雨に打たれながらこちらを見、眼鏡を外した顔では初めてはつらつとした笑みを浮かべる。


「フレームが歪んじゃった。学校帰りに眼鏡屋に寄らないと」


 ははっと笑った顔と細い雨が対照的で、あたしはそのまま空を見上げる和泉の顔を見た。さきほどまでの無表情さはどこへ行ったのか、むしろすっきりした顔で微笑を口元に湛えている。雨に濡れた髪がぺったりとして、和泉が前髪を掻き上げた。眼鏡をしていない和泉はいつもよりも透明な水のようにきらきらしていた。


「……イズミン、怪我してない?」


 あたしの言葉に和泉がこちらへ戻ってきた。ポケットから出したハンカチで顔を拭きつつ苦笑する。


「柊馬君はちゃんと手加減してるよ。どうしたのか家で俺が聞かれると、お父さんが困るから」

「そんなの、理由になってない。どうして抵抗しないの。家ではなにも言わないの?」

「言わないよ。俺たちが同じ高校なのは親も知ってるから、俺たちがおかしい関係だって知ると柊馬君のお父さんが困るし、うちの母親も困る。もうすぐ子どもが生まれるんだから、厄介ごとは家に持ち帰りたくないんだ」

「じゃあイズミンは誰に本音を話すの。こんなの、ウチ、見てて嫌だったよ……」


 突然震える声に涙が出てきて、驚いた表情の和泉の顔がぼやけた。手の甲で目を拭うと手にマスカラがつく。そんなこちらに和泉は歪んだフレームの眼鏡をかけて「嫌な思いさせてごめんね」と困った顔をした。


「でも、聞いてて分かったでしょ。柊馬君の行動には正当な理由がある」

「でも、イズミンのお母さんとイズミンは別の人間じゃん。そもそもイズミンのお母さんが悪いかどうかなんて、ウチには分かんない」

「俺だって親のことはどうしていいか分からないんだよ。柊馬君も同じなんだ。俺と柊馬君とはただ行動が違うってだけで、柊馬君がすごくつらいのは一番近くで見てて分かってる」

「だからって、なんでイズミンだけがこんな目に遭うの。言い返せばいいのに」


 口がわななきそうになって、必死で涙を堪える。こちらを見下ろす和泉がふっと息をつく。


「自分の意見を言ったって無駄なんだよ。母親と柊馬君のお父さんのことも止められなかったし、妹ができたときもどう反応したらいいか分からなかった。自分の気持ちを口にしても俺の人生は変わらない。そう思うと、なにも言えなくなるんだよ」


 和泉はそう言って「姫宮さんも濡れてるよ」とハンカチを差し出してきた。


 和泉の口調には人生に達観した大人のような諦めの念が混ざっており、あたしは言葉を継げなくなった。委員長に選ばれたときも、和泉は自分の意思とは関係なく事実を淡々と受け入れたのだろう。あたしはそんなことも知らず、ラッキーだと喜びさえした。和泉の気持ちは和泉自身からもなかったかのごとく扱われている。彼が一度あたしを突き放したのも、あたしでは和泉の人生を変えられないからだ。リップクリームやバッティングセンターなどの付け焼き刃でごまかしているうちは、あたしは和泉の人生に介入できない。


「イズミンは今なにしたい?」


 あたしはハンカチを受け取って、雨を吸い込んだそれをぎゅっと握った。


「傷を冷やしたい? おかし食べたい? 横になって寝たい? 一人きりになりたい?」


 すると和泉は雨で泥水が堪った土に目をやり、「風呂に入りたいかな」と腕をさすった。


「雨の日はまだ寒いや。でも、バイトもないしあんまり家にいたくないから遅くに帰る」


 いつも通り図書館にでも行くよ。そう言って濡れたシャツにカバンを肩にかけた和泉に慌てる。和泉が以前夜遅くに帰ると言った理由がようやく分かった。用事があるわけではない。ただ家に帰りたくないだけなのだ。濡れたシャツがぴたりと貼りついた腕を思わず掴んで引き止めた。


「それなら、うちにおいでよ。今誰もいないからお風呂貸してあげる」


 あたしは和泉の指の冷たさを思った。心も冷え切っているに違いない和泉をこのまま帰すことはできない。


「今だけでもイズミンの気持ちに応えたいよ……」


 雨の音が急に大きくなったように聞こえた。


「姫宮さん、着替えをありがとう」


 兄のお古のスウェットを着た和泉が風呂から出てきたのは、四十分ほどたってからだった。遠慮がちな足取りであたしの部屋に入ってくると、ドアの前で首をすぼめて正座する。ちらっとなにかを見たと思ったら、コレクションしているネイルの並べた棚だった。ピンクのルームウェアでベッドに座っていたあたしは、足を組んで太ももに頬杖をついた。


「なんでそんなとこに座んの?」

「女子の部屋になんて入れないよ」

「お風呂使ったのに今更じゃん。ウチは別に構わないんだけど」


 一軒家でも狭い一人部屋に二人分の椅子はない。床のクッションに座ると、あたしは部屋の真ん中にある小さなローテーブルの向かいを指さした。そのローテーブルにはアップルパイとラズベリーケーキが置いてある。和泉が風呂に入っている間に、急いで近所のケーキ屋で買ってきたものだ。


「イズミン、ケーキ食べない? 甘いもの食べて嫌なこと忘れようよ」


 そう言ってしまってからはっとする。


「簡単に言ってごめん。忘れることはできないかもしれないけど」


 つい声が小さくなる。すると和泉が目をぱちぱちとさせ、ようやくくすりと笑ってローテーブルの向かいに膝をついた。


「姫宮さんはどっちを食べるの」

「イズミンはどっち食べたいの。ここのケーキ屋さん、ラズベリーケーキはガチでおいしいから。でもアップルパイは鉄板っしょ? 外れナシ」


 すると和泉は笑って「じゃあラズベリーケーキにしようかな」と深いピンクのケーキを指さした。じゃあウチはこっちとアップルパイの載った皿を引き寄せ、ペットボトルのお茶を二人分のグラスに注ぐ。そして明るい声を出した。


「じゃあいただきまーす!」

「いただきます」


 和泉は丁寧に手を合わせ、フォークで一口すくってぱくりと食べた。ラズベリーと生クリーム、焦げ茶色のチョコレートのスポンジ。味の濃いケーキが和泉の口の中で溶けるのを想像していると、「これ、おいしいね」と和泉がちょっと目を丸くさせた。甘いものは人を笑顔にさせる。和泉の口元が微笑んだのを確認し、あたしもアップルパイを食べた。しゃきしゃきとしたリンゴと幾重にも重なったパイ生地がサクサクしている。ギシギシと軋んでいた体に甘みが染みこんでいく。


「すごいや。ケーキを食べるなんて何ヶ月ぶりだろう」

「イズミン家、誕生日にケーキとか食べないの」

「俺、誕生日は冬だから。食べたのは半年くらい前だよ」

「ウチも冬。最悪なのは今年は高校入試の当日だったってこと」


 すると和泉はフォークを動かしながら笑った。


「俺は毎年つらいよ。俺、クリスマスが誕生日だから。買いに行ってもショートケーキがほとんど」

「マジ? お母さんもサンタもプレゼント考えんの大変じゃん」

「残念ながらうちにサンタは来たことないよ。誕生日の人には言葉でお祝いするらしくて、メリークリスマスの手紙が来たことがあるだけ」


 思わず笑うと、和泉もつられたように笑った。そしてようやく部屋の中をゆっくりと見回す。


「女子の部屋って俺の部屋と全然違う。なんていうか、雑誌に出てきそう」


 枕元のぬいぐるみや床に積み上げて置きっぱなしにしてあった雑誌を見て、和泉はそう感想を述べた。


「イズミン、お姉ちゃんとかいないの?」

「一人っ子だから。……いや、もうすぐ二人になるけど」

「ウチと同じになるんだ。ウチ、お兄ちゃんとの二人兄妹だから」


 あたしのあっけらかんとした口調に、和泉がまた目を細めて「そっか」と同意した。


「でも、俺、いきなり十六も離れた妹ができるって想像がつかない。赤ちゃんも身近で見たことないし」


 和泉が素の口調でそう話し始めたので、あたしは「ふうん」と相槌を打った。


「ウチが同じ立場でもそう思ったかも。でも、多分赤ちゃんってかわいいんじゃない。名前とかもう決まってんの?」


 するとようやく和泉がそこで照れたように口元をほころばせた。


「母親と柊馬君のお父さんが俺になにかいい案はないかって聞いてくる。俺みたいな性別に関係なく使える名前がいいからって」


 新しい家庭。さっきそう言った和泉の言葉を思い出し、思わず脱力したくなった。ちゃんと家に和泉の居場所はある。そう聞き出せただけで、ケーキは充分役割を果たした。緩んだ部屋の空気に首を傾げる。


「薫とかかなあ? イズミンと揃えるなら漢字二文字がいいかも。未来とか」

「真琴とかどうだろう。あとは飛鳥とか」

「イズミン、飛鳥、いいと思う! 千尋と飛鳥って和風な名前ですっごく好き」


 思わず声をあげてから、好きの単語を発したことに我に返る。ごまかすようにケーキにフォークを刺して、にっこりしてみせた。


「でも、ウチの璃々子みたいに画数が多いと、将来テストのときに恨まれるかもしれないし。今から覚悟しといたほうがいいよ」


 和泉がははっと笑い、ズレた眼鏡を押さえてまたケーキを口に運ぶ。


「姫宮さんはなんで璃々子なの」

「ウチは母親が菜々子だから。直接は言わないけど、お揃いの名前ってちょっと嬉しいもんだよ」

「じゃあ飛鳥はどうかなって言ってみようかな。……柊馬君が嫌じゃないといいんだけどね。一応、柊馬君の妹でもあるんだから」


 あたしはケーキ残り三分の一というところで手を止めた。フォークを皿に戻すとカチャと音を立てる。しとしとと降る雨が家の塀を叩き、ぼつぼつと耳障りな音を立てていた。湿気を帯びた部屋が急に重たくなったように感じる。


「イズミンは、これからどうするの」


 あたしの慎重な口調に和泉もフォークを持つ手を止めた。


「恋人のカモフラージュなんて碓氷の言い訳じゃん。イズミンは碓氷のサンドバッグにされてる」


 すると和泉は「それに気づいたのは姫宮さんだけだよ」と口元を緩めた。


「柊馬君はともかく、いつでも家を出られるように貯金は始めてる。大学はどこでもいいから遠くに行こうかなって考えてる」

「碓氷の彼女にはなにも言わないの」

「柊馬君は彼女に指一本触れないくらいすごく大切にしてるから、俺なんか近寄らせないよ。俺も言いたくない」


 そこで和泉がこちらを見、「姫宮さんは俺と柊馬君がなにしてるか聞きたい?」と尋ねてきた。慌てて首を横に振る。だが、すぐに思い直した。


「イズミンが言いたいって言うなら聞く」


 ぎゅっとルームウェアの裾を握ってぐっと覚悟を決める。だが、あたしの言葉に和泉が苦笑して「姫宮さんらしいね」と感想だけを述べた。


「姫宮さんは不思議だよね。俺さえ黙ってればなにも表面化しないのに、平気で踏み込んでくる。姫宮さんにはなんの得もないのに」

「じゃあイズミンはなんで今ここにいるの。ウチのお節介を受け入れたってこと?」


 すると和泉は「どうだろう」とフォーク片手に首を傾げた。


「姫宮さんなら信じられると思った。そんな感じかな」


 それを聞き、頭が痛いとばかりにテーブルに肘をついて額に手をやった。急に向かいにいる和泉のほうから石鹸のにおいが漂ってきて、空気を超えて温度が伝わってくる。制服のスカートより長いルームウェアの裾の短いズボンが少し恥ずかしい。赤くなったに違いない顔を垂れてきた髪で隠した。


「ねえ、それ、告白みたいに聞こえちゃう」


 とうとう一線を越えてしまった言葉に、和泉がははっと明るい声をあげた。


「告白は駄目だよね。二股になる」

「碓氷と付き合ってないなら、二股ではないんじゃない?」

「でも、誠実ではないかな」

「なにが誠実かなんて分かんなくなっちゃった」

「そりゃ、俺たちの親の話を聞いたらね」 


 くすりと笑う和泉のほうを見ると、口端があがっていた。あたしがほっとして笑みを浮かべると、ようやく部屋の空気が和む。


「姫宮さん」


 和泉が手元のラズベリーケーキを一口すくった。


「はい」


 フォークを差し出されて、思わずぱちぱちと瞬きをした。それが俗に言う「あーん」だと気づいて一瞬慌てた。目に力を入れて軽く睨む。


「イズミン、距離感バグってる」

「ラズベリーケーキ、おいしいよ。ほしいんじゃないの」


 そんな、言い訳。そう言いたかったが、ぐっと顎を引いて顔をあげた。ローテーブルに手をついて身を乗り出し、すくってもらったケーキを口にする。途端に口の中に甘酸っぱさと濃厚なチョコレートクリームが混ざり合って、アップルパイの果実の感触より、一層甘ったるい。それなのに、いつもより余計な考えが邪魔して味がよく分からなかった。


「……確かにおいしいかも」


 適当に言って、熱い頬を膨らましてもぐもぐと口を動かす。ふふと小さく笑った和泉が、あたしが食べてしまったフォークでそのままラズベリーケーキを食べる。薄いくちびるからフォークがするっと出てくると妙にどきどきした。


「じゃ、じゃあ、ウチも」


 なかなか切りにくいアップルパイにざくっとフォークを突き刺すと、表面の編み目になったパイとリンゴが二個取れた。


「は、はい」


 向かい合ったテーブルを挟んで、和泉にケーキを差し出す。そう言えば、こんな距離になるのは初めてだ。そう思ったとき、「ありがとう」と和泉がアップルパイを食べた。自分の持つフォークと和泉がゼロ距離になった瞬間、心臓がどきっと飛び跳ねる。


「うーん……? ちょっと酸っぱいかも。素朴な味」


 和泉の真面目な感想に頬を熱くさせたまま笑う。


「確かに、ラズベリーケーキのほうが甘さは断トツだよね」

「なんていうか、アップルパイって姫宮さんっぽいよね」


 和泉が少し首を傾げながらこちらを上から下まで見た。


「姫宮さんが金髪を揺らしてバット振ってるとき、すごく普通の女の子だなって思った。思ってたよりずっと普通の子」


 そう言われて思わず照れてしまった。うっかり本音を漏らしてしまう。


「見た目は狙ってやってんの。金髪ギャルはゲームキャラの装備やジョブと一緒。それがあると強くなれるしそれっぽく振る舞える。中学校の卒アル見る? 黒髪二つ結びのいかにも生真面目な中学生って感じだよ。見た目から先に変えたけど、高校デビューなんてテンプレで終わりにされたくないから授業も真面目に受けるし、体育も全力投球だし、明るくクラス全員と仲良くしようと心がけてる。遅刻は言い訳できないけど、罰掃除もさぼってないでしょ」


 あたしは「この部屋も同じ」とぐるりと周りを見回す。


「クローゼットの中にお兄ちゃんと読んでる少年マンガを隠してるし、お兄ちゃんとゲームするときはお兄ちゃんの部屋でやるし、休日着るスウェットもそこにしまってる。誰かが家に来たときに『姫宮璃々子』っぽさが出るようにしてるだけ。最初に来るのがイズミンになるとは予想してなかったけど」


 すると和泉は再び部屋を見回してから、ラズベリーケーキを見つめた。あと一口分残っている。ぎりぎりバランスよく立っているケーキは、ぎりぎり呼吸している和泉の立ち姿に似ている気がした。和泉はそれにフォークを刺して最後の一口を食べた。そして決心したように白い歯をちらっと覗かせる。


「……さっき自分の気持ちを言っても無駄だって言ったけど、無駄になるなら俺も本当のこと言おうかな」


 独り言のように呟いた和泉がはにかんだ。


「俺、姫宮さんが好きだよ。俺すらどうでもいいと思ってた俺のことを気にかけてくれて、すごく優しい子だって分かった。見た目で別世界の子だなって思ってたけど、俺の偏見だったよ」


 一瞬息をするのを忘れた。そんなこちらを見た和泉が「気持ち悪いことを言ってごめん」と謝り、ようやく「好き」の言葉が胸に浸透した。


「姫宮さんにありがとうって伝えたかった。姫宮さんの答えは求めてないから気にしないで」


 和泉はそう言い切ると、あたしから目を逸らしてケーキの残りカスが落ちている皿を見つめた。だが、照れたように少し赤くなった頬が和泉の気持ちを語っている。いつも碓氷と話す横顔はなんの感情も宿さず、無表情なことが多かった。その和泉が初めて見る表情をしている。


「……イズミン」


 あたしは立ち上がってローテーブルをよけて膝をつき、和泉を真正面に捉えて座り直した。そして床に投げ出されていた和泉の手を上からぎゅっと握る。温まった手は節がしっかりしていて大きい。弾けるようにこちらを見た和泉の顔を、目を逸らさず見つめる。


「自分の意見や気持ちを言ってもなにも変わらないって、本当なんだね」


 青春まっただ中の高校生の世界は狭くて、大人になると世界は酷く複雑になるのだろう。それに巻き込まれた碓氷も和泉も、のんびりと子どもでいることができなくなってしまった。そしてそれを知ったあたしも大人の世界を垣間見たのだ。


「イズミンのお母さんと碓氷のお父さんが本当に好き合ってるなら、碓氷にもイズミンにも留められないんだよね。だから、碓氷とチューしてるイズミンのことを好きになったこの気持ちも、誰にも止められない。イズミンが答えを求めてなくても、これが答え」


 重ねた手に力を込めて握ると、和泉の口がぽかんと開いた。目が丸くなって瞬きもせずにこちらを見る。だが、笑ってくれると思った顔は曇り、ゆっくりと俯いて背中を丸めた。


「姫宮さんって本当に変わってるね……俺なんかを好きになるなんておかしいよ……」

「信じられない?」

「だっておかしいでしょ……俺は柊馬君と」


 単語が飛び出す前にあたしは和泉の手を引っ張った。それをぎゅっと自分の左胸に当てる。和泉が慌てて手を引っ込めようとしたが、あたしは放さなかった。


「この心臓の音、分かる? こんなに緊張したの初めてだし」


 ルームウェアから和泉の体温が伝わってきて、体に汗がじんわりと滲んだ。


「確かに、チューもしたことないから恋愛のことはよく分かんない。でも、イズミンを見てると、本当に好きな人とじゃないと意味がないんだろうなって思う。だから、するよ」


 身を乗り出して和泉の頬にキスをする。そこでちくりとひげのようなものが当たって、突然和泉がごく普通の男子であるという事実に我に返った。誰もいない家の二人きりの部屋に、後ろにあるベッド。風呂上がりの和泉に部屋着のあたし。さあさあと小さな音を立てて降る雨が、くっきりと二人きりの空間を浮かび上がらせる。


 だが、息を呑む前に背中と腰に腕を回されて、和泉の腕の中にあたしの体がすっぽりと収まった。初めて触る男子の体は固くて、骨張っていて、温かい。その熱が移ったかのように急激に顔が熱くなり、早かった心臓の音が更に加速する。触れている部分が熱くて、和泉の肩で邪魔された視界が狭苦しくて、息の仕方を忘れてしまいそうになる。


「姫宮さんって馬鹿だなあ、もう」


 耳元で和泉が涙の混じった笑い声を漏らす。


「男に胸を触らせるとかキスするとか、なに考えてんの」

「か、覚悟を見せないと、イズミンは、あたしの気持ち、信じなさそうだから」


 きちんと言おうとしたのに声が裏返った。すると和泉がふふっと楽しそうに笑う。


「動揺してる姫宮さんを見たのは初めて」

「それ、ギャル差別。男慣れしてそうって思ってたでしょ」

「そうは言ってない。だけど、姫宮さんがかわいいのは分かったよ」


 和泉の大きな手が頭の後ろに添えられた。その手に従い、ゆっくりと薄い胸板に頭を預ける。自分と同じくらい速い鼓動が聞こえて、急に目頭が熱くなった。


「姫宮さん、ありがとう」


 和泉の低い声が振動で伝わってくる。


「ありがとね」


 次の瞬間にはくちびるを重ねられていた。薄く見えた和泉のくちびるは案外肉厚でやわらかい。聞いたことのあるレモンの味はしなかったが、はちみつのにおいがする。


「もしかして、リップクリーム塗ったの?」


 あたしの問いに一度顔を離した和泉が「お風呂からあがったときに」と相好を崩す。


「あたし、塗ってない。だから、ちょうだい」


 うんと答えた和泉が眼鏡を外した次の瞬間、口がぶつかった。しっとりとしたくちびるはふわふわで、上を向かされて塗られるようにくちびるを食まれた。和泉の首の後ろに腕を回してクロスする。髪に触れると、どこか湿り気が残っている。次第にくちびるが熱を持ち、口を動かされるたびにぴりぴりとした刺激が体を走り抜ける。初めて知る感覚はむずがゆくて、こちらは恥ずかしくて堪らないのに和泉は止まってくれない。背中に回された手が熱いくらいで、ルームウェアの中が汗を掻いてくる。チッチッチと部屋の時計の針が秒を刻む音がして、その合間にちゅっというリップ音が挟まった。


「これって俺への同情?」


 くちびるが離れた隙に和泉が小さく尋ねてくる。あたしは否定した。


「同情なら碓氷にもしてる。今こうしてるのはイズミンが好きだから。イズミンがこうしてるのはあたしへの同情?」

「そんなわけ、ないよ」


 あたしは和泉の背に手を回した。そっとベッドのほうへ引っ張ると、腰に回された腕が少し躊躇ったようにそっとシャツの中に入ってきた。ぷち、と小さな音がして、体を締め付けていたブラジャーが浮く。今朝何色のブラをつけたっけ。そんな思考はキスで遮られた。


 二人分の体重にベッドが軋み、枕に沈んだ頭を和泉の手が大丈夫だと言わんばかりに何度も撫でてくる。体の芯から震えそうになり、キスの合間に吐息を漏らす。だが、和泉が気づいたように口を離した。はっきりとした泣きぼくろの目がこちらを見下ろす。


「震えてる。寒い?」

「違う。でも、大丈夫」


 すると和泉は目を伏せて「そう」と言って、きつく抱きしめてきてからキスをくれた。ちゅ、ちゅ、とくちびるが音を立てるたびに体の中で熱がぱちぱちと弾けて、気づけば震えは止まっていた。和泉の髪に手櫛を通し、湿り気を残したくせっ毛が指の間を抜けていくのを楽しむ。だが、その左腕を掴まれて引き寄せられ、指と指を交差させて手を握り締められた。


 和泉の左手がルームウェアをたくし上げ、空気にさらされた肌がひんやりとした。それを温めるように大きな手が腹に乗る。


 だが、そこまでだった。和泉の手が強張ったように動きが鈍くなり、キスが止まった。二つのくちびるが離れるのを嫌がるように名残を残し、ぷつっと弾けて別れる。


「……ごめん」


 背後に天井の光を背負った和泉が赤くした目を逸らした。


「ごめん……無理だ」


 絞り出すような声にあたしは目を瞑った。


「姫宮さんが嫌いとかじゃないよ。だけど、これ以上できない」


 ぽたっとあたしの頬に一粒落ちてきて、目蓋を開いた。和泉の睫毛の先からぱたぱたと粒が落ちてきて、ルームウェアにぽつぽつと濃い色を広げる。あたしは深く息を吸って「そっか」と答えた。


「人にやられて嫌なことはできないよね」


 和泉が苦しそうに顔を逸らし、体を起こす。あたしも起き上がって、和泉の涙で濡れた頬を親指の腹で拭った。和泉がベッドから足を床に下ろし、また背を丸めて手で顔を覆う。


「ごめん。俺、ひどいよね」

「あたしはそう思ってないよ」

「嫌々でも別の男とそういうことをして、姫宮さんとは無理だって言ってるんだよ」

「あたしのこと、好き?」

「こんな状況でもう言えないよ」

「それなら、あたし、待ってるよ」


 あたしの力強い言葉に和泉がそろりと顔から手を離した。その顔に訴えかける。


「待ってる。イズミンが嫌なことを嫌って言えて、好きなことを好きって言えるまで待ってる。それでいい?」


 すると和泉は見る見るうちに顔を歪ませた。


「俺はもし明日柊馬君に呼び出されたら……行くだろうし、姫宮さんがそんな俺を待ってるなんて信じ続ける自信がない」


 それを聞き、あたしはベッドから立ち上がった。和泉の視線を無視してブラジャーのホックを留め、部屋を出て台所へ行く。自室に戻ると、一人取り残されていた和泉が怪訝そうにこちらの手の中を見た。


「それ、なに?」

「保冷剤。ケーキを買ったときについてきた」


 保冷剤をベッドに置き、不安そうな顔の和泉の隣に座った。きちんと顔を見て言う。


「イズミンの行動はあたしには変えられない。でも、待ってることをイズミンに伝わるように行動することはできる」


 あたしは机の上にある未開封のピアッサーを手に取った。ピアスを開けた友人を見ていいなと思って買ったものの、穴を開けるのが怖くて使っていなかったものだ。アクアマリンの色のピアスがはまっているそれを和泉の手に押しつける。


「それであたしにピアスを開けて。イズミンに開けてもらったピアスをつけてる間は待ってるっていう合図にするから。毎日教室であたしの耳を見て確かめて」


 ピアスの語に和泉が「えっ」と目を見開き、慌てたようにピアッサーの裏の説明を読み出す。あたしは右耳の耳たぶに保冷剤をあてて冷やし始めた。すぐに指先も冷えて痛くなってくる。


「こうやって耳を冷やしてから開けるんだって。ピアスを開けたかったからちょうどいいよ」


 だが、和泉は焦ったようにピアッサーとあたしを交互に見た。


「これでピアスを開けたことがあるの? 俺、ピアスのことなんてなにも分からない」

「初めて開けるけど、簡単らしいよ。ホチキスを留めるのと変わらないって聞いた」

「でも……穴を開けるなんて、姫宮さんを傷つけるみたいだし」


 顔をしかめる和泉に冷たくなる耳を感じながらそっと本音をこぼした。


「あたしだって不安になるかもしれないでしょ。だから、毎日確認してほしいの。ピアスを見てくれてるうちはイズミンを信じ続けるから」


 すると和泉は打って変わって真剣な顔つきになり、ピアッサーを開封した。中から説明書を取り出し、その文章を読むために目線が左右を往復する。それから中から取り出したそれの構造を確かめた。


 あたしは通学カバンの中からバラの形をした白の手鏡を取り出し、ペンケースを開けた。鏡を見ながらシャーペンで耳たぶに灰色の点をつける。


「印をつけたから。そこに開けて」


 すると和泉は黙って頷き、ピアッサーにあたしの耳たぶを挟んだ。緊張に顔を強張らせてこちらを見る。あたしもぐっとくちびるを噛みしめた。


「初めてって、痛いよね」

「でも、イズミンならいいよ」


 目がしっかりと合った次の瞬間、バチンという爆発音が耳元で弾けた。耳たぶをぶすりと貫いていく感覚に体中がカッと熱くなり、急に汗が噴き出す。衝撃で感覚の飛んだ耳たぶが、すぐに息を吹き返してじんじんと痛み出した。思わず耳を触ってしまう。耳たぶの後ろには鋭くとがった先端が突き抜けていて、指先で触るとちくちくと皮膚を押してくる。その鋭さは和泉のバットが放ったボールと同じようで、あの日見た和泉のバットを振る後ろ姿を思い出させる。


「このピアス、きれいな色だね」


 はっとすると、微笑した和泉がこちらの耳を見ていた。


「金髪にすごく似合ってる。水色が好きなの?」

「本当はピンクが一番好き。でも、それじゃ子どもっぽいかと思って」


 和泉はそれには返事をせず、あたしの長い髪を優しい手つきで耳にかけてくれた。右耳にはまだ鈍い痛みが残っていて、あたしはその甘美な痛みを忘れないようにと胸に刻んだ。


「あたし、待ってるから」


 そっと両頬に手を添えて、額同士をくっつける。


「好きって千尋が言えるまで待ってる」

「……うん」


 和泉の両手が伸びてきて、あたしの体をぎゅっと抱き寄せた。その温かさに目を瞑る。


「ありがとう、璃々子」


 優しい言葉に包まれて、和泉の思いもまるごと抱きしめた。

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