第2話 事件
数日に一回の和泉とのやり取りが常態化した梅雨の入り、事件が起きたのは昼休みのことだった。移動教室から帰ってきて教科書をロッカーにしまっていると、廊下から大きな声が聞こえた。クラス中がどうしたんだと窓から廊下を覗き見る。あたしも右にならえで廊下に出てみたが、碓氷が和泉を突き飛ばす様子が目に飛び込んできて、思わず目を見開いた。長袖を捲った和泉がよろけてコンクリートの壁に背中を打つ。その足元には大量のプリントが散らばっていた。
「お前、なんか勘違いしてんじゃねえの」
碓氷が激昂した様子で和泉を睨んだ。一方の和泉は眼鏡を押さえて「違うって」と小さく反論する。
「委員長だからって女子にちやほやされてんじゃねえよ。どうせ役割を押しつけられただけのくせに、いい子ちゃんしやがって」
いつかのように和泉のネクタイを掴んで引っ張った碓氷が、「お前によそを見てる権利なんかねえんだよ」とすごんで全員の前でキスをした。あたしの口がぽかんと開く。
途端に廊下でキャーと歓声があがり、教室から身を乗り出していた男子たちもうわっと声を漏らした。あたしの周りがざわついて、皆が自分勝手に話し出す。
「牽制ってこと? 圧倒的愛されてる感!」
「でも人前であれは引くわ」
「ホモキスを喜ぶやつ、腐女子決定」
「でも碓氷君と付き合えてる和泉君、ちょっと羨ましくない?」
「嫉妬ってこわ」
碓氷が踵を返したざわめきの中、和泉はくちびるを拭うと周りを無視してプリントを拾い始めた。側に立っていた女子が慌てたようにそれに続く。どうやらその女子と話していたかなにかで碓氷を怒らせたらしい。
和泉はかき集めたプリントを女子に手渡すと、周りの視線を振り切るように俯いて廊下を歩き出した。あたしの横を通り過ぎるときに眼鏡のフレームの隙間から目に光っているものが見えて、あたしは「ウチ、お腹痛いから保健室行く!」と友人に言い放った。
授業のチャイムが鳴って十分を過ぎた頃、和泉の姿を第二校舎裏の自販機の横で見つけた。どこか遠くを見ている和泉の片手に、薄味の梨ジュースの紙パックが握られている。
「サボりなんてイズミンらしくないじゃん」
あたしが近づくと、和泉がはっとしたようにこちらを見た。だが、すぐに「姫宮さんか」とほっとした表情になる。あたしはその手の中の紙パックを指さした。
「授業をサボってまずいジュースを飲むって、意味不明だし」
和泉がははっと小さな笑いを漏らす。
「姫宮さんがくれた画像を眺めてどれにしようか悩んだんだけど、これの印象が強くて」
「それ、まずいっていう印象じゃん」
だが和泉は笑ってジュースを飲み干し、自販機横のゴミ箱に紙パックを落とした。校舎の壁に背をつけ、植え込みと校舎の間の狭い空を見上げる。それを目で追ったが、今にも泣き出しそうな灰色の雲が広がっているだけだ。
じめじめした空気にため息をつき、腰に巻いていたキャメル色のカーディガンをきゅっと引き結び直す。隣に立って同じようにコンクリートの壁にもたれ、口火を切った。
「イズミン、なんかおかしくない? ウチには彼氏いないけど、彼氏にチューされてなる顔じゃないと思う」
すると和泉はすぐに俯いた。その下を向いた顔を更に下から覗き込む。そして無表情の和泉にたたみかけた。
「イズミン、どうして碓氷と付き合ってんの」
「……俺たち、別に付き合ってないよ」
ぽつりと出てきた返事にあたしは驚いた。和泉が密やかな笑みを作る。
「俺と付き合ってるって言うのは女子よけのカモフラージュで、他校にちゃんと彼女がいるんだよ」
「え? でもチューしてたじゃん? ウチ、生チュー見たの初めてだからびっくりした」
「実験室で会ったときはそんな驚いてるようには見えなかったけど」
「エッチの最中だったら倒れたかも」
すると和泉は「そんなことにならなくてよかったよ」と空を振り仰いだ。だが、そのまま口を閉ざし、俯いて地面を見つめる。あたしもコンクリートと土の境目から力強く伸びる雑草を見た。日の差さないそこでも生えている草はなにかに抗っているようにも見える。
あたしはポケットからリップクリームを取り出した。黄色のそれを「使う?」と差し出す。和泉は意味が分からないというように「なんで?」と戸惑ったような顔をした。
「だって、彼氏じゃないのにチューしたんでしょ。くちびる、気持ち悪くない? このリップ、今朝新品のを開けたばっかりだから使ってないよ」
すると和泉はまじまじとリップクリームを見、「ありがとう」と受け取った。色の薄いくちびるにそれを塗る様子をじっと見つめる。すると和泉がなにかに気づいたような顔をした。
「いいにおいだね。リップクリームって初めて使ったけど、においあるんだ」
「これ、ウチのお気に入り。はちみつのにおいって安心しない?」
「あ、ホントだ。ハニーの香りって書いてある」
和泉がようやく素の声を出したので、あたしは肩の力を抜いた。他人の恋愛に口を挟んでもいいことはないと聞いたことはある。だが、和泉の目に涙が溜まっているのを見たのに放っておくのは性分が許さなかった。
「イズミンさ、言いなりになるのダサいよ。カモフラージュとか意味分かんないし」
「返す言葉もないよ」
「そうじゃなくて。イズミンはどうしたいの」
すると和泉はちらりとこちらを見下ろした。
「付き合ってないんだから別れられないよ」
「恋人役をやめればいいし」
「……柊馬君がそれを許さないよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ」
和泉は静かに続けた。
「姫宮さんには分からないよ」
はっきりと拒絶され、あたしは言葉を失った。和泉はすべてを諦めたかのように微笑し、入り込んできた風に揺れた前髪を掻き上げる。初めて見たくっきりとした眉頭が寄せられている。それが和泉の気持ちを代弁しているように見えた。授業をする教師の声が遠く反響して聞こえてくる。
「でも、イズミンは嫌なんでしょ?」
だって、泣きそうだったじゃん。そう続けようとしたが、和泉はあたしの言葉を無視して校舎を指さした。
「姫宮さん、授業を受けておいたほうがよかったんじゃない?」
「それ、ウチが頭悪いと思ってる? ウチ、勉強できるほうだけど」
案の定、和泉は「そうなの?」と意外そうに聞き返してきた。思わず人差し指でトントンとその胸をつつく。
「イズミン、それってギャル差別。髪がプリンでもちゃんと勉強する子はいる!」
「そっか」
和泉が自然な笑みを浮かべた。
「俺たち、なんか似てるね。見た目と中身が違う」
「委員長が放課後学校でエッチしようとしてて、ギャルのウチが勉強できるってこと?」
「まあ、そんな感じ」
和泉の落ちてきた眼鏡を直す仕草に、なんだか心がそわそわする。体を触ってしまった指先を反対の手で包み込んでちらっと見上げた。すると、泣きぼくろの目が「なに?」と見下ろしてくる。あたしはむずむずとする口をとがらせた。
「ウチ、意外と面倒見がいいって言われるけど。ウチじゃイズミンの力になれない?」
すると和泉は「そうだね」と否定しなかった。
「柊馬君には柊馬君の考えがある。それを姫宮さんは変えられないでしょ」
「イズミンの考えを変えるのは駄目なの」
「俺が意見を変えても周りは変わらないよ」
和泉の上履きがそこにあった小さな石ころを蹴った。
「さっきのことだって半月もすれば殆どの人は忘れる。そうやって時間が過ぎ去るのを待つのが一番楽だ。前にも言ったよね。俺は優等生じゃない。ただちょっと諦めが早いだけだよ」
にべもない答えに再び絶句する。自分が助けたいと思っても、手を差し出してくれなければなにもできない。これまで積極的に話しかけることで友人に囲まれてきたあたしは、それを求めない人に出会ったことがなかった。
「姫宮さんの気持ちはありがたく受け取っておくよ」
じゃあね。リップクリームをあたしに押しつけた和泉は背を翻し、あたしをそこに残して校舎へと戻っていく。足が動かなくて、ゴミ箱の中を見る。梨ジュースの紙パックは握りつぶされていて、くの字にへこんでいた。
――ただ諦めが早いだけだよ。
あたしはこぶしを握りしめ、曇り空を睨んだ。
「ねえ、昨日これ落としたっしょ」
翌朝、あたしは登校して真っ先に和泉の机に直行した。久しぶりに晴れた朝、おはようの声が飛び交う教室内でカバンから「これ、イズミンのでしょ」と百均で買ったかわいいイチゴ柄の小袋を取り出す。日直日誌を書き込んでいた和泉が不思議そうな顔をした。
「俺、なにか落とした?」
戸惑ったように袋を開けた和泉が中を見、驚きに目を丸くした。その顔を見つめ、「イズミンのだよね?」と念を押す。和泉は袋とこちらに目線を言ったり来たりさせたが、すぐに花が咲きほころぶように破顔した。
「ありがとう。ちょうど探してたんだ」
少し照れたように赤みを差す頬に胸がどきりとした。今朝の晴れ間に似合うはつらつとした笑顔に顔が熱くなってくる。
「そう? よかった」
「うん、ありがとう」
和泉が自然な動作で日誌をめくり、あたしも自分の席へと机の間を歩き出した。だが、心臓の音は大きくなり、手に汗が滲んでくる。
和泉に渡したのは昨日貸した、はちみつのにおいのリップクリームだった。実験室で遭遇したときに彼らがなにをしようとしていたかは知らない。だが、少なくとも和泉はキスも嫌がっている。もしキスされて嫌ならまた使ったら。そういう気持ちを込めて渡したのだが、昨日はあたしを突き放した和泉がリップクリームは受け入れてくれた。和泉の思考回路が理解できないあたしは、ただ直感に従って行動することしかできない。
和泉の笑顔が頭の奥でチラつき、うるさい心臓の音が周りに聞こえないようにと前でカバンを抱きしめた。自分の席に座り、前に座る和泉の後ろ姿を眺める。ぴんと伸びた背筋と少し刈り上げた襟足が涼しげで、どきんと胸が音を立てたあたしは慌てて目を逸らした。
その夜、風呂から上がって自室に戻ると、ベッドの上に放ってあったスマホが点滅していた。急いでタップすると、初めて見る猫のアイコンからメッセージが届いている。誰もいない部屋できょろきょろとし、あたしは意味もなくブランケットを頭から被ってメッセージを開いた。
『リップクリームありがとう』
たった一言だったが、顔がかーっと熱くなる。一気に汗が出てきて、慌てて髪を拭いていたタオルで顔を押さえた。
『いいにおいって言ってたから』
するとすぐに既読の印がついて返信が来た。
『大切に使うね』
設定されたハチワレの猫の画像を見、あたしは足をジタバタさせて突っ伏した。
「……やばい」
思わず声が出た。
「あたし、恋したかも……」
恋の単語にいたたまれなくなって枕に顔をうずめる。だが、目蓋を閉じると実験室で見た和泉の青ざめた顔と碓氷のにやりとした顔が蘇った。すぐに顔をあげ、自分のリップクリームを取り出してそっとくちびるに塗る。上下のくちびるを合わせ、潤いでくっついたくちびるが離れるとちゅっと小さな音が鳴った。同じリップクリームを使っている。ただそれだけなのに、ますます顔が熱くなった。
「イズミンの馬鹿」
碓氷の顔を思い出し、ピンクのネイルの爪先でスマホを弾く。
「付き合ってないから別れられないって、意味分かんない」
白黒のハチワレの画像をタップして眺める。明らかに自宅で撮った画像だ。猫の向こう側に白のレースカーテンが映り込んでいる。きっと碓氷なら和泉の飼うこの猫の名前も知っているのだろう。もやもやに耐えきれずメッセージを打ち込む。
『猫、なんて名前?』
するとあっけなく返事が来た。
『お茶漬け』
あたしはけらけら笑ってベッドで転がった。自分のくちびるから漂うはちみつのにおいに目を瞑ると、緩やかな眠気が襲ってくる。夢の中で猫が梨ジュースを飲んでいた。
それから、あたしは教室の後ろから和泉の様子を眺めるようになった。気づいていなかったが、左利き。お弁当持参で、足りない分を購買のパンなどで補う。碓氷に呼び出されてリップクリームを握り締めて戻ってきたときは、自分も塗ると決めた。
「璃々子、なんか和泉のことよく見てるよね?」
ある日箸でミートボールを摘まんでいたときに友人にそう言われ、思わずどきっとした。昼休み、教室にいろんなにおいが漂う中、和泉はトイレにでも行ったのか席を外していた。それを確認してから「だってさあ」と髪を掻き上げた。
「生チュー、びっくりしすぎて忘れらんなくて」
すると一人が「璃々子はお子ちゃまだね」とにっと笑った。
「彼氏できちゃったんだよね。一週間前、キスした。しかも海辺! 車でロマンチックなところ連れてってくれて、最高だった!」
一人の台詞に皆が「マジ!?」と色めき立つ。話題はすぐに彼女とその彼氏のなれそめに話が移り、ああ、あたしはこんな会話をすることはないんだなとどこか冷めた思いで皆を見つめる。一方、それを和泉相手で想像していることに自ら赤面した。
その和泉と碓氷の関係は相変わらずよく分からなかった。碓氷が他校の彼女を大切にしていることは聞き出した。ならば碓氷の和泉に対する執着はなんなのか。和泉にそれを尋ねても、いつものらりくらりとかわされた。
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