撃ち抜けヴァージン

タリ イズミ

第1話 罰清掃

「っていうか、なんでウチだけ」


 あたしは長い金髪を翻し、リノリウムの廊下を踏みつけるように足音を鳴らして化学実験室に向かった。入学してから遅刻した回数が十回オーバーとなった今日、担任の教師に罰掃除を言い渡されたからだ。


 左手にはプラスチックの青いバケツに入った雑巾、右手にほうき。いつもの放課後ならメイクに励んでいる手に、自分には不似合いなものが収まっている。「璃々子りりこだけ注意されててウケる」と笑いながらカラオケに向かった友人たちの顔を思い出し、あたしはイラッとした。思わず首元までしっかり結んだネクタイを引っ張って緩める。いつもなら、フルメイクにチェックのスカートの丈をあげて、一番かわいい自分になっている時間帯なのだ。


 面倒な高校受験と義務教育から解放されて一ヶ月がたっていた。電車通学にようやく慣れ始めたものの、方向音痴のあたしは乗り換えの駅で工事が始まってから迂回路で迷うようになった。


 階段を下りて、左へ曲がって、通りを抜けてから塀沿いに歩いて更に地下へ。そんなダンジョンの最短距離攻略を目指していたら、連続遅刻魔になってしまった。あたしは最短距離を探して遅刻しないようにしているだけで、遅刻したくてしてるわけではない。だが、そんな言い訳が通用するはずもなく、もう教師の間では時間にだらしない生徒として認定されてしまったんじゃないかと思う。


 ため息をつきながら実験室のある別棟へ渡る。渡り廊下からは自販機のある中庭が見えて、ジュースを飲みながら談話する男子たちの様子が見えた。窓を超えて少しだけ笑い声が聞こえてくる。園芸部が上手なのか、チューリップが花壇に等間隔に植わって風に揺れている。白、ピンク、オレンジ、赤。まるで幼稚園児が描く絵のお手本のようなきれいな花だ。入学したときにはあった、ヒヤシンスの咲いたプランターはいつの間にか姿を消している。


 特別教室の集まった棟は外から部活をする生徒のかけ声が聞こえてくるくらいで、放課後なのに随分と静かだった。ぺたぺたと自分の上履きの音がするだけ。だが、いざ指定の教室に着くと、中からなにやらぼそぼそと男子の話し声がした。


「ちょっとー! 掃除するから出てって」


 そう言いながら扉をガラガラと開け、目の前の光景に中へ入ろうとした足を止めた。


 実験室の広い机の上に座らされているのはクラス委員長の眼鏡男子、和泉千尋いずみちひろ。その和泉のネクタイを引っ張りながら今にも乗っかろうとしているのは、隣のクラスのイケメン男子だ。こちらを見た和泉がさっと青ざめ、あたしは彼の外れたベルトやファスナーが下りて広げられたズボンの前をまじまじと見てしまった。その机に正方形の薄い小さなピンクのパッケージが置かれている。思わず大きなため息が出た。


「そういうの、家に帰ってからにしてくんない?」


 コンドームを指さすと、イケメンがにやっとした。


「邪魔すんなよ。これからだったのに」


 あたしはそこでイケメンの名前を思い出した。碓氷うすいだ。下の名前は知らない。


姫宮ひめみや、だっけ。ギャルなら放課後はさっさと遊びに行けよ」


 根元が黒くプリンになってきた頭を指され、思わず口をとがらせる。


「ウチだって、掃除もアンタらと遭遇することも予定に入ってないし。とにかく、掃除しないとウチが帰れないから出てって」


 語気を強めると、「はいはい」と碓氷が生返事をして和泉のネクタイを放した。和泉が慌てたようにズボンの前を直す。


 碓氷と和泉は学年でも有名なカップルだ。碓氷は入学当初からその容姿で目立っていた。女ウケが良さそうな爽やかイケメンで高身長。これでスポーツもできるとなれば騒ぐ女子も出てくる。碓氷が体育をしている時間は女子の悲鳴がうるさいらしい。


 だが、彼は近寄ってくる女子を「俺、幼馴染みの千尋と付き合ってるから」と遠ざける術を持っていた。


 実験室の丸椅子を机の上にひっくり返しながら、あたしはちらりと和泉の様子を窺った。


 和泉は線が細く、気弱そうなところが前面に出ている影の薄い男子だ。黒縁眼鏡とフレームにかかる野暮ったいくせっ毛の前髪がその印象に拍車をかけている。クラス委員長になったのも、「面倒くさそう」という役割をクラスの皆に押しつけられたからだ。あたしも委員長が決まったときは内心「ラッキー」と拍手をしたクチだ。


 根が真面目なのか、和泉は多数決で決まったそれに「分かりました」と首肯し、一ヶ月たった今も黙々と委員長の仕事をこなしている。なかなか集まらないプリントの回収、体育館の朝礼に向かうやる気のないクラスメイトの人数確認、尿検査の運び役だってやらされていた。尿検査を提出しない女子に声をかけて「生理だから無理」とあっけらかんと答えた友人に、「ごめん」とたじろいだのもいかにもというイメージだ。


 だが、今日の様子を見るに、地味で平凡を行く人物だと思っていたのはあたしの勘違いだったらしい。


「じゃあな、千尋」


 一緒に帰るのかと思いきや、和泉がネクタイを結び直している間に碓氷は教室を出て行く。和泉が「待ってよ柊馬しゅうま君」と焦った声を出して追いかけていき、あたしは何度目かのため息をついて椅子をひっくり返した。


 連続で椅子を持ち上げていると腕が疲れる。気合いを入れるために金髪をシュシュで結んだとき、ぱたぱたと足音が戻ってきた。


「姫宮さん」


 扉から顔を覗かせた和泉が恐る恐るといった小さな声でこちらを呼んだ。


「……柊馬君に言われて気づいて。その、掃除、手伝おうか」


 なるほど、口止めってことね。あたしは肩をすくめ、最後の椅子をあげた。


「誰にも言わないからいいよ、そういうの。罰掃除だから、ウチ一人でやんなきゃ意味ないし」


 和泉から顔を背けると、灰色の綿埃が黒く鈍く光る床を転がっていくのが視界に入る。あたしは思わず舌打ちをした。あたしはこう見えてきれい好きだ。教師が罰掃除と言うだけあって、あまり掃除をしていないように見える。どこのクラスが担当なのよ。そう思ってから、化学教師が担任の自分のクラスが担当であることに思い当たって頭を抱えたくなった。


「あのイケメン、人を使うなんてむかつく。イズミンも言いなりになるなんてダサいよ」


 思わずきつくなった口調に、後ろにいる和泉がおろおろする様子が脳裏に浮かんだ。だが、聞こえてきたのはくすっという笑い声で、思わずそちらを振り返る。黒のフレームの中の目尻が下がって、暗く見えた顔立ちがやわらかくなった。


「ちゃんと話すのは初めてなのに、いきなりそんな呼び方をするんだね」


 和泉の声は案外低くて落ち着いていた。そちらに向き直ると、一五〇センチのあたしよりずっと背が高い。標準服の白シャツをきちんと着こなす黒髪の和泉は、透明な水を思わせる。中学の卒業式の日に黒髪も卒業してメイクに励んでいる自分とは違い、どこか透き通った色をしているように見えた。


「ミンってかわいいじゃん。ムーミンみたいだし」


 あたしの返しに和泉が目を細める。そして教室内に入ってくると、掃除用具の入った灰色のロッカーの扉を開けた。


「やっぱり手伝うよ。俺が手伝っても先生にはバレないでしょ」

「イズミンって委員長オーラがフルスロットルしてるよね。ウチと全然違う。いかにも優等生って感じ」


 だが、ほうきを手にした和泉は「優等生ならここであんなことしないよ」と静かに否定した。


「姫宮さんが思ってるほど優等生なんかじゃない」


 あたしはさっきの光景を思い出し、軽く頷いた。


「じゃ、罰掃除の共犯になって。ウチは窓側から掃くから」


 すると和泉は「分かった」と素直に頷き、廊下側から掃き出す。会話のない静かな教室にほうきが動く音だけがした。


 掃除が済むと、職員室に報告に行ってから中庭に寄ってオレンジジュースを二つ買った。皆が帰った教室に一人戻っていた和泉に「お礼」と片方を渡すと、彼の睫毛がぱちぱちと上下に動く。


「俺が勝手にやっただけなのに」

「中庭に寄ったから、ただのついでだし」


 あたしはそう言い、机にジュースのパックを置いてスマホを掲げた。教室に入り込む五月の夕方はまだ明るくて、きれいに写真が撮れそうだ。カシャッと画像に収めると、すぐに加工してSNSにアップする。スマホをスクロールすると、爪が視界に入った。ピンクのネイルが少しはげてきている。これではみすぼらしい。家に帰ったら塗り直そうと思いつつ、家にあるネイルの小瓶の色を考えながら言う。


「ウチ、学校中の飲み物を制覇しようと思ってて、自販機の端から順番に買ってんの。昨日は炭酸でつらかった。ウチ、炭酸飲めないし」


 ほら、と昨日SNSに載せた画像を和泉に見せると、彼はまじまじと手元を覗き込んできた。底が花びら型に立っているペットボトルの画像を見、怪訝そうな顔をする。


「炭酸が苦手なのに飲んだの?」

「制覇を目指してるんだから飲むっしょ」

「飲み物を制覇するって決めたのは誰なの」

「ウチだけど?」

「……姫宮さんってちょっと変わってるね」


 和泉の感想を聞き流し、そのまま和泉の前の椅子に腰かけてパックにストローを差す。ズズッとオレンジジュースを啜ると甘い味がじんわりと口内に広がった。午前中に降った雨のせいなのか、エアコン付きの教室でもどことなくじめじめとしている。


 ようやくパックにストローを差した和泉を見、あたしは「そうだ」とスマホをタップした。


「イズミン、連絡先を教えてよ。お勧めのジュースがあったら教えるし」


 すると彼は「え?」と驚いたようにストローから口を離した。


「第二校舎の裏にも自販機があるって気づいてさ、ウチの冒険はまだまだ続くよ」

「えっと、なんで俺? 姫宮さん、友だちが多いんだからその友だちに教えればいいんじゃない?」


 クラスの女子はだいたい三グループに分かれている。勉強や部活に熱心な子、ちょっとオタクっぽい趣味にいそしむ子、教室内でも自撮り棒でばえる画像を撮るあたしや陽キャの子。あたしはその円の重なる中心にいて、勉強のできる子とノートの貸し借りもするし、趣味に夢中な子と流行りのマンガについても話すし、スマホでかわいく写るにはどういう角度がいいか研究したりもする。和泉があたしのことをほぼ正確に把握していることにちょっと驚いたが、まるで連絡先を教えたくないと言わんばかりの言葉に思わず和泉をねめつけた。


「ウチに教えたくない感じ? ごまかさないではっきり言いなよ」

「そういうわけじゃないけど」


 戸惑う和泉の言葉に「言質取った」とSNSのQRコードを突きつけた。


「これ、ウチのアカウント。イズミンのは?」


 和泉が慌てたようにスマホを取り出し、「どうやるんだっけ」と言いながらもコードを読み込んだ。フォローの通知が来て、即返す。さっと中身を見たが、写真はおろか、プロフィール画像も初期設定のままだった。


「このアカウント、使ってないじゃん。もしかして、教えたくない人用?」


 あたしの声が鋭くなったからか、和泉がまた慌てたように首を横に振る。


「連絡用に作っただけだから。姫宮さんみたいな使い方はしてないよ」

「でもこれじゃイズミンのこと、なんも分かんないし」

「俺のことなんか知ってどうするの」

「クラスメイトなら仲良くしたいじゃん」


 あたしの言葉に和泉が宇宙人でも見るような目つきになった。そこで気づいたが、右目の下に泣きぼくろがある。和泉はすぐに目尻を下げた。


「姫宮さんが大勢に囲まれてる理由が分かる気がする」

「そう? とにかく、アイコンは好きな画像に設定したら。次に誰かと連絡先を交換すときもこの状態で教えるつもり?」


 あたしの言葉に和泉はくすりと笑い、「考えておくよ」とスマホをしまった。その場で画像を探さないところは、案外頑固者か、あるいはマイペースなのかもしれない。


 あたしは和泉をまじまじと見つめた。毛量の多いくせっ毛の黒髪に顔立ちを隠すような太いフレームの眼鏡、二重の目が左右で少しバランスが違って、泣きぼくろがその補強をしているようだ。あまり見た目にこだわりがないのか、耳にかかる髪が野暮ったい感じがするが、それがどこか薄幸そうな空気を出している。


「俺、なんか変?」


 和泉が自分の体を見下ろす。あたしがじろじろと見ているのを勘違いしたらしい。


「ううん、別に」

「じゃあ、俺、バイトに行くから帰るね」


 和泉はそう言うと、「ジュースありがとね」と言って教室から出て行く。なぜかその白シャツの背中が目蓋の裏にくっきりと跡を残し、あたしは自分も帰るために席を立った。


 その後、あたしはおいしいものとまずいもの、つまり、毎日飲んだ飲み物の感想を画像付きで和泉に送った。「マジうま」「鬼まず」「水は裏切らない」「炭酸で口が飛んだ」等、一言だけ。和泉が返事をしないのでただ画像をアップするのと殆ど変わらなかったが、梨ジュースを飲んだ日に「俺も飲んだけど味薄いよね」とメッセージが返ってきた。


『マ? 梨は固形が最強説』

『ラ・フランスならおいしいかもしれないよ』

『そんな高級そうなジュースないっしょ』


 数回のラリーで話は終わったが、あたしは満足して自室もベッドに寝転がってやり取りを眺めた。和泉とは例の掃除の日以来言葉を交わしていない。というより、和泉自身があまり人と交流しないのだ。新作のカラコンの話題で友人らと盛り上がりつつ見る和泉の背中は、教室のどこよりも空気が薄かった。たまに碓氷が教室へ来て「千尋」と呼び出したときに女子が騒ぐから、彼の色彩が濃くなるだけ。碓氷と向き合う和泉はいつも白い顔をしていて、彼氏が来ているというのに嬉しそうには見えなかった。


「和泉碓氷カップルってどこで遊んでんだろ」


 なにげなく友人らに聞いてみたが、「リア充のことなんか分かんない」と返ってきた。高校生活も落ち着いてきたが、友人に彼氏ができた子はまだいない。アルバイトに精を出したりファッションに夢中だったりと、皆が自分の青春に忙しいのだ。


「璃々子、それより宿題教えてよ」

「五月考査まで勉強漬けかあ。だっるー」

「つか、うちら高校受験したばっかなんですけど」


 口々に文句を言う友人らに、あたしは和泉は誰と勉強するんだろうと思った。

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