19.忘却の記憶


《ゼイリェット・フレア》



 トエニカ姉様には蒼き瞳に良く映える、純白の真珠をあしらったイヤリングを。美酒を好むヤエコ姉様にはその年で最もかおり高い葡萄ぶどう酒を。ノアグレーテには、当時の最新技術が用いられていた収納用魔導具を。そして、


『これは……ルシュの花?』


 アルヴィンへ、このゼイリェット・フレアが最初に贈ったものは「押し花の栞」だった。


『フッフッフ、御名答だとも! ただ……ご覧の通り、残念ながら生きてはいないがね』

『でも、生きていた頃の「記憶」は残ってる。本物は初めて見た、これが……』


 長方形の薄い硝子板に挟まれた、楚々とした小振りの花。シェールグレイの北方、空気の冷たく澄んだ高所にて、雪解けを名残惜しむかのように、白くつぶらな五枚の花びらを開く。短い花期に有りっ丈、ふわりと柔らかな芳香を膨らませるのだが……甘美なるその香りが、アルヴィンの香りと一致しているのだ。


 不可思議かつ素敵なことに、炎神とその眷属の身体からは、特定の植物の香りが漂う。


 この僕の身体から薫るのはシュデンの花……繰り返しになるが、涙形の深紅の花びらが幾重にも重なった大輪、のそれである。古くから愛の告白の際に贈られてきた情熱的な花はまさしく、華麗にして愛情深いゼイリェット・フレアという存在に相応しい!


 ……こほん。話を戻そう。


 アルヴィンは黒手袋をめた人差し指で、丁寧に花の輪郭を辿った。純白の花びら、暗い緑色をした一対の広葉、華奢な茎。紅色の双眸には、内に秘めていた豊かな好奇心が発露し、陶器の如き頬は、僅かながらに朱みを帯びていた。


 僕は呼吸することさえ忘れ、弟の表情に魅入った。アルヴィンは元々美しいが、そのときは格別であった。彼は紛れもなく生きていて、僕もそうなのだと……くも当然にしてたっとき真実を、何故だか鮮烈に思わされたのだ。


『……っ! あの、ええと、』

『どうやら、お気に召して戴けたようだ。贈り主が少しばかり嫉妬してしまう程に』

『う……ごめんなさい。気持ちが高揚し過ぎてしまった、かな』


 彼と栞の二者しか世界に存在しないかのように夢中になっていたアルヴィンは、置き去りにしていた僕をおずおずと見上げ、申し訳なさそうにはにかんだ。


『ありがとう。他に言葉が見つからないくらい……嬉しい、すごく。大切にする』


 嗚呼。このときのアルヴィンの表情は、栞を丁寧に丁寧に扱う手つきは、いつまでも僕の目蓋の裏側に、あざやかに残ることとなる。




 その光景を見た刻、全身の熱が爪先からさあっと抜けていくような感覚があった。


 大聖殿の瀟洒しょうしゃな廊下を、此方こちらへ向かって無表情に歩んでくるアルラズ。その腕に抱かれたアルヴィンは、ふっつりと目蓋を閉じ切り、ぐったりと脱力している。窓硝子から静かに注ぐ昼日中の陽光が、やけに白く、まばゆく映った。


 思わず靴音を高く鳴らし、駆け寄った。淡々と歩み続けるアルラズに並び、来た道を引き返す。


『い、一体何があった! アルヴィンは何故、気を失っているのだ!? アルヴィン、アルヴィンッ、僕の声が聞こえるか!? 聞こえるのならば返事をしてくれ、叶わないのならせめて、頷くことだけでもッ……』


『静かにしてくれゼイリェット。アルヴィンは任務こなして「いっぱい」になっただけ、もー情報入んねーだけ。呼んでも無駄で無意味だから』

『…………ッ、どこへ行く、アルラズ』

『はあ?』


 僕としたことが。酷く動揺していたとは言え、それは確かに無駄で無意味な問いかけだった。だからこそ甘んじて受け入れた。紅色の双眸から送られた、冷淡な一瞥いちべつを。


『母さんのところに行く。アルヴィンを「まっさら」にしてもらいに。毎回やってることだろ、まさか忘れたわけじゃねーよな? 俺でも覚えてることなんだぜ?』

『忘れる? 馬鹿を言うな、忘れるわけがない。僕は……僕は、ただ……』


 アルラズは止まらない。

 それ以上、追い縋ることは叶わなかった。


 数百年生きていると、いくら僕が優秀であろうと、この身に起こった全てを覚えていることは難しい。何故なら炎神の眷属は皆、「人」をモデルとしているからだ。


 自我を持ち、経験の積み重ねにより価値観を形成し、理性と感情とで正しき道を選び取る。斯様かような性質を有しているからこそ、僕等は人と国家に寄り添うことが出来る。僕等の正義は、歴史の編纂者たる人の為にある。


 しかし、この世界に生きる大多数の人の寿命は短く「出来て」いる。命の限りを超越して続いていく僕等の精神は、次第に擦り減り濁っていく。斯様な状態では職責に障りが出る。


 だからこそ僕等は忘れる。

 アルラズとアルヴィンのような存在が要る。


 アルヴィンは他の兄弟姉妹と同様に、与えられた職責を全うしているだけであり、彼にとってそれは当然で、必然で、この上なく誇らしいことなのだ。僕自身が主命を果たす刻と、等しく。


 解っている。余計なお世話だということは。

 この感情が、侮辱に等しいものだということは。


 アルヴィンは死ぬわけでも失うわけでもない。すぐに目醒め、全てを思い出す。ただ主観的な思い出が、客観的なデータとなるだけだ。初めてルシュの花を見た喜びが、整然と並ぶ文字と画像に変換されるだけなのだ。


 それでも僕は項垂うなだれた。その先に影はない。影は、光から逃れるように生まれるものだからだ。

 遠さがっていく、時計の秒針の如き靴音に向かって、ただ力無く呟く。


『……抗いたくなる刻くらい、あるだろう』



 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜



 叩扉する。黒を基調とした華麗なる軽鎧を纏い、護拳の複雑かつ美しい銀のレイピアを帯び。火炎とシュデンの花をモチーフとしながら、実用性を最重視しデザインされた弓と矢筒を背負った姿で。


 アルヴィンが私室で過ごしていることは分かっていた。許可を待たずに、波打つような形状がしんなりと手に馴染むドアノブをひねった。


 紅蓮を模したマントを揺らし、黒きサバトンの先が示す前を見据え、夜闇に沈んだ部屋を行く。


 相変わらず、隅々まで整理整頓が行き届いている。この空間にある殆どの品は、我ら兄弟姉妹……特にアルラズが、任務の度に旅先で購入し持ち込んだ土産物みやげものである。恐らく僕が贈った栞も、経年劣化等により破損していない限りは、何処かに。


 華奢な後ろ姿を硝子越しに見つけ、目を細める。やはり、君は其処そこから飛び立つのだな、と。

 寝台の横を通り過ぎ、ベランダへと続く硝子扉を開ける。


「こんばんは、ゼイ兄さん。来てくれて、嬉しい」


 アルヴィンは振り返り、完璧な微笑で僕を迎える。服装も常と変わらない、ネクタイと髪結い紐がほどかれているだけだ。月光を集めて紡いだような銀色の髪……なびかせる風は思いの外冷たく、季節の移ろいを我が頬に感じさせた。


 あまりにも普段通りであることが、ざらついた不安を煽る。

 時間は残されていない。早速、


「ごめん。ゼイ兄さんの善意には、応えられない。アルラズは俺を呼ぶし、俺がアルラズのところへ行く」


 ……言われてしまった、か。


「フ、まさに単刀直入、だな。

 嗚呼アルヴィン、勿論分かっていたさ……君が僕に代わりを務めさせてはくれないことなど、とうに分かり切っていたとも! 何故なら愛しき家族、かけがえのない弟の考えることなのだからね! フハ、フハハハハ……」


 地上の星団の如き聖都へ盛大な哄笑を降らせる僕を、アルヴィンは唇を結んで見つめた。続く言葉を待ってくれた。


「…………それでも、と思ってしまったのさ。清々しい程にきっぱりと断られてしまった以上、騎士として紳士として、君を困らせるような真似はするまい。

 ただ……一つ、答えて欲しいことがある」


 手摺てすりに左手を滑らせる。新調したばかりのガントレットが初々しく鳴る。


 装備の朽ちるのは早い。いかに丹念な手入れを重ねても、戦場で扱うものである限り、我が力に耐えられないのだから仕方がない。


「どうか教えてくれ」


 刹那の雷光を閉じ込めたるが如き紫色の瞳で、弟を見つめ返す。


「僕がくして君を止めようとするのは、今宵で一体、何度目のことなのか」

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