12.記憶
《アルラズ・スノウ》
額縁におさめられた絵画を眺めるように。いつでも鑑賞物に手を加えることのできる「特等席」から、ただ黙って見ていた。
「どうか、感謝の気持ちを。母の仇を捕らえてくださって、わたくしの心に再び炎を
泣き腫らした目のなかで
「わたしは、夢を叶えます。お母さんの娘として、お養父さんの娘として……貴方がたと出会えた果報者として、二度と己を恥じることのない、清く立派な聖職者に、必ずなります!
ですから……もし、もし、これ以上のご無礼が許されるのでしたら……」
「恐れずに、言ってみて」
「……っ、わたし、覚えていたいです……!」
アルヴィンを振り向いたときに揺れた、左右できっちり三つ編みに結んだ栗色の髪を。
「これから先も、ずっと、ずっと……! アルラズ様のこと、あなた方のことを……わたしの人生に、おふたりが残してくださった光跡を……覚えていても、いいですか……!」
十六歳の若く瑞々しい感情が、有りっ
この子は一体誰で、いつ、どこで、何から救ったんだっけ。そう思い出そうとしたけど結局、字面以上のことは思い出せなかった。
「ありがとう。俺たちも貴方のことを忘れない。『正義』の名のもとに」
アルヴィンはさっと立ち上がり、俺とお揃いの紅色の双眸をすうと細めて微笑みかけてから、シエラ・バーンネル嬢に背中を向けた。
追いかけるように慌てて立ち上がったシエラ嬢、だったけど。前へと出しかけた右足を引き、被っていた帽子を胸に当て、俺たちに深々と頭を下げた。
俺たちが再び「隠れ家」の中へ消えるまで。彼女自身をも覆い隠していた「図書館の中庭をモデルにした特殊結界」が静かに消え去るまで、ずっと下げ続けていた。
彼女は聡明みたいだから、弟と二人きりでいた庭に何の脈絡もなく他の人間が現れたとしても、何が起きたのかをきちんと
もー、いいか。
そろそろ、思い出そうとすんの諦めよ。
俺は
それに。近頃の様子を見るかぎり、アルヴィンが全てを忘れなきゃならねーときは、そう遠くない未来に訪れる。その時が来たら嫌でも思い出すことになるだろう。アルヴィンから記憶を預かってる間だけ、ほんの一時的に、ではあるけど。
……おっと。
「く、……」
長く長く果てなく続く、事実だけがおさめられた書架に挟まれた世界。隠れ家に戻ってきて安堵したんだろう。不調に抗えず、ふらと前のめりになった弟の身体を、
「よーしよし、お疲れ様ー」
弟の影から抜け出した兄が、抱きとめてやる。
アルヴィンは苦しげに息をつき、
「何っ、が、お疲れ様、だ……!」
「分かってるってー、兄さんが悪かったってー。さっきの『健康診断』のときに、兄さんから情報を受け取りすぎたせいで、ふらふらになっちゃったんだろ?
だから、普段は
体調不良による、特殊結界のわずかな揺らぎ。
アルヴィンがシエラ嬢のことを思いやっていた丁度そのとき、シエラ嬢が図書館を訪れ、しかも物思いに
そして、シエラ嬢の体内の魔力含有量が極めて少なかったことで、ただでさえ体調の悪いアルヴィンは、彼女が特殊結界に侵入したことにも、傍らまで接近していることにも気づかなかった、と。以上が、本件の顛末。
「ほんとーに、ありがとな。兄さんの代わりに、あの子の心に寄り添ってくれて」
「……寄り添えた、のかな」
「はいはい、謙虚ですねえー。さ、今日はもー寝た方がいいよ、このまま部屋まで送ってあげる。特別に兄さんが添い寝して差し上げよう」
「
問答無用、肩に担ぎあげる。相変わらず軽い。
四肢をじたばたさせて抵抗していたアルヴィンだったが、やっぱり力では俺に敵わない。やがて無駄と悟ったらしく、操り糸が切れた人形みたいに動かなくなった。
「この体勢、くらくらする、から……せめて、背負ってくれないか」
と頼まれたので、リクエストにお応えしておんぶにチェンジする。
「……ありがとう」
幾つかの世界の境界を跨ぎ、幾つかの壁をすり抜けて、幾つかの廊下を道なりに進んで。只人には決して紛れ込めない、存在さえ掴めない、眷属たちの居住区域へ……アルヴィンの部屋への最短ルートを辿る。
「兄さんの足音は、いつも、変わらないね」
「そ?」
「時計の秒針の鳴る音みたいで、聞いてると、少し落ち着く」
眠そうな声だ、また少し身体も火照っている。無理もない。不安定な状態で、人間の感情をあんなに間近から浴びたんだから。
「兄さん」
「ん?」
「俺……上手く、できた?」
「なにが?」
「兄さんの、代わり」
アルヴィンが露出の極めて少ない格好をしているのは……とりわけ、いつも黒いシャツを着ているのは、その下にある「紅」を隠すためだ。
アルヴィンが生まれてしばらくの間、目覚めることができなかったのは、自分の強力すぎる能力を、自分で制御することができなかったからだ。
周囲に存在するあらゆるものを対象とし、あらゆる境界線を透過して、あらゆる情報を収集する。そして、その全てを余すことなく己の頭のなかに蓄積する……「記憶」する能力を。
今のアルヴィンは、情報に自我を押しつぶされないように、家族の一員が創り出した能力制御のための細く紅い「帯」を、四肢を中心とした身体中に巻いている。黒手袋をはめ、色眼鏡をかけ、情報の直接的な摂取を可能な限り
それでも少しずつ、少しずつ、アルヴィンは満たされていく。そうして容量不足に陥ったときには、母さんの御力を借りて一度全てを忘れさせ、全てを思い出させる。
アルヴィンが自ら感じ、考えたこと……他のどんな情報より重たい「主観的な思い出」を、額縁の奥へ、書物の中へと圧縮するのだ。
ま、色々と大変だけど。
『もしかしたら、会いに来るかも知れない』
この聖都の全てを覚えているアルヴィンは、他の眷属たちの
今回も正しかった。シエラ・バーンネル嬢は俺のことを覚えていた。会いにきた。彼女の望みは「俺たちを覚えていたい」ということのみであり、
「んなの、不安になるまでもねーって。上手くできたに決まってるだろ? 俺たち、二人で一人なんだからさ」
こうしてくっついてると、本当にひとりになったみたいだ。満ち欠けすることのない……溢れる好奇心の赴くままに、自由に外の世界を見て回れる、ただひとりに。
俺の言葉と思考。恐らくはその両方に、
「……そうだね」
片割れは頷いた。
きっと、
『枕元で話してくれてたの、聞こえてた。全部、ちゃんと覚えてる、よ。ありがとう。ごめん、ね。はじめまして。それから……
おはよう。アルラズ兄さん』
初めて呼んでくれたときみたいに、笑って。
【第一章 月に似た双子・了】
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