11.忘失


 ときどき夢に見る、幼い頃の記憶がある。


『あの丘の上まで競争しよう』


 近所の男の子たちが言い出した。やめておけばよかったのに、優劣を決したい盛りの少年たちのにやにやした表情を見て、気の強いわたしは殆ど勝率のない勝負に乗った。


 はじめのうちは、わたしと背丈のあまり変わらない男の子たちの背中を必死に追いかけていた。だけど、だんだん引き離されていって、彼らの嘲笑は遠くなり、背中はやがて見えなくなった。


 決まりきった勝負を投げ捨てずに走って、喉奥に血の味を感じながら走って。ようやく丘の上についたとき、わたしを待っている人は、誰もいなかった。


 わたしの故郷は、治安があまり良くなくて。

 丘の上からは、西空に沈みゆく天の炎がよく見えた。


 頬を伝っているのが、汗なのか涙なのか分からないまま、わたしはまた走り出す。疲弊しきったか細い脚はもつれて、何度も転びそうになる。それでも前へ進むことを諦めずに、行かないで、とわたしは叫ぶ。男の子たちが駆けるより、ずっとはやく落ちてゆく炎に向かって。


 わたしの言葉は当然、届かない。背後から追いかけてきた夜闇が、わたしの肩をつかまえる。


 ……二年前までは、そんな、恐ろしくて悲しいだけの目覚めを迎えていた。でも違う。今では、違う。きっと「会いたい」という気持ちが、結末を描き変えたのだろう。


 夜闇につかまりそうになったそのときに、背後から冴えたる輝きが差して。思わず振り返りそうになるわたしの耳元で、


『だいじょーぶ、そのまま行こう』


 誰かが軽やかな声で囁くの。


 足が軽くなるわけでも、呼吸の苦しさが和らぐわけでもない。だけどわたしは、そのまま走り続けることができて……そして、お母さんの腕のなかに帰りつくことができる。


 お月様の、見守る下で。



 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜



「今までも、これからも全部、内緒のお話として聞いて欲しい。

 ……アルラズは、俺の兄。双子の兄、だよ」


 そっか。だから、お顔立ちがそっくりなんだ。


 木目の美しさを活かしたベンチ。隣に浅く腰掛けた眷属様をそっと窺う。口許を、凪いだ微笑みが彩っていた。また、とくんとくんと心臓がスキップを始めたので、わたしは思わず姿勢を正す。


「俺たちをよく似ていると言うひとも、全然似ていないと言うひともいる。二年という歳月と『隠れ家』の暗がりが、俺をアルラズだと思わせたようだけど……貴方はどうやら、後者みたいだ」


 ……仰る通りだ。出会ったときには「再会」だと信じて疑わなかったけれど、今はこの方とアルラズ様の違いを感じられる。はっきりしたものも、曖昧なものも。


 例えば、記憶の中のアルラズ様はとてもラフな格好をなさっていた。二年前のわたしは、「救いの手を差し伸べてくれるなら、この方が何方どなたでも構わない」と思っていたから、聖職者にも騎士にもギルドの登録戦闘員にも見えないことを、さほど気に留めはしなかったけれど。


 ノースリーブの黒いインナーに重ねたグレーのシャツは、丸襟がゆったりしすぎて右肩が露出していたし、サスペンダーで吊り下げた黒いパンツもサイズが合っていなくって。この方が完璧に着こなしていらっしゃる、フォーマルでお上品なお召し物……あの方だったら、息苦しく感じるんじゃないだろうか。


「この出会いは、再会ではないけれど」


 一言ずつを丁寧に選び取り、さりげなくラッピングして差し出すような。とても心地良いお声で眷属様は仰る。


「俺にとっては、再会にとても近い」


 わたしにとっては違うけれど、この方にとっては、そうではない?


「兄さんは性質上、忘れっぽくて。どんなに大切で、どんなに覚えていたい思い出でも、いつの間にか遠ざかって、触れられなくなってしまう。だから、俺が代わりに『記憶』しておくんだ。兄さんが経験したこと、思考したこと、余さず全て」


 アルラズ様は、お忘れになって。

 代わりに、この方が覚えている。

 ……とても、神秘的なご関係だわ。簡単には、呑み込めそうにない。


 わたしは俯いて、きっちり揃えた自分の膝頭を見つめた。その上に置いた両手を、ゆっくりと握る。当然のことだけれど、二年という時を経て、わたしの身体はそれなりに成長している。


(それでは、わたしのことも……)


 もし、これが再会だったなら?

 今日お会いすることが叶った方が、アルラズ様だったなら?


 きっと、恐れていた通りに名前を問われただろう。名前を問われることもなく、お別れすることになったかも知れない。ご自分が「忘れっぽい」ということだって、明かしてはくださらなかった筈だ。既に忘れさった相手ならば、尚更……


「兄さんは、」


 心の空隙を覗き込むあまり、頭を突っ込みそうになっていたわたしを、澄んだ声が引きとめた。


「尊い選択だった、って言ってた」


「……え?」


「兄さんが捕らえた『闇を泳ぐ魔物』への……御母堂の仇に対する、貴方の選択。その手を、暴力で痛めなかったこと。貴方の感情より、御母堂のご遺志を尊重したこと。

 ……俺も、兄さんに同感だ」


 瞳の奥が熱くなる。唇を細く噛んだのは、涙がこぼれてしまいそうだったから。


(どうして、優しくしてくださるの?)


 駄目。駄目よシエラ、我慢しないと。わたしが泣いたらまた、ご心配をおかけしてしまう。たとえそれが、嬉し涙だとしても。


「貴方のこと。ティアニーリアの特待生の席を得て、聖都へ単身越してきたこと。日々図書館ここへ通い、粛々と学問に邁進していること。その心の片隅で、兄との再会を願っていることを……俺は、知っていた。

 その理由は、俺がそういう存在だから、としか明かせないけれど」


(只人のわたしを、ずっと見守ってくださっていたの? あの出来事が結んだ繋がりから?)


 わたしの声、どうか震えないで。

 どうか上手に笑えていて。


「……だからこうして、アルラズ様に代わって、わたくしと会ってくださったのですか?」


「ううん、そうじゃない。貴方を案じていたのは事実だけれど、接触するつもりはなかったんだ。さっきも言ったように、偶然重なったいくつかの条件が、俺と貴方を引きあわせた……、うん。その条件を、もうひとつだけ明かそうかな」


 す、と息を吸う、わずかな間。恐らくは、シエラ・バーンネルという一人の人間と、真摯に向き合ってくださっているゆえに生まれた一瞬。


「体内の魔力含有量がとても少ないという、貴方の個性」


 はっと、顔を上げた。


 ふたりきり、誰もいないお庭。冬の眠りから目覚め、清水の駆け回りはじめた水路。日に日に春の気配が膨れ上がっていく、瑞々しい緑の園。草木と穏やかなメロディを奏でながらやってきた風が、わたしの頬を撫でていく……火照ったり青褪めたりと、せわしなく不安定なわたしの温度を確かめるように。


『体内の魔力含有量が、とても少ない』


 手の施しようもない、わたしの欠点。


 魔力無し、魔力無しと、何度もからかわれた。その度にわたしは悔しくて、落ち込んで、家に帰り着くなり涙を流して……お母さんは、わたしを何度も励まさなければならなかった。


「俺にとって魔力というのは、主張の強い情報なんだ。特殊結界に迷い込んだのが貴方ではなかったら、侵入に気づいただろうし、その段階ではじき出していた」


 最愛の家族を奪われても、真実を見つけて欲しいと誰かに縋ることしか、できなかった。


「長い長い時を記憶してきたけれど、隠れ家にひそむ俺のところまで辿り着けたのは、家族以外には、貴方だけだ。そんな貴方になら……祝福の意くらい、伝えても構わないかなと、思った」


 まもなく幕を開ける学生生活にも、暗い影として付きまとうだろう、わたしの欠落は。掻き集めた知識で武装して、必死に埋めようとしていた「不公平」は。


「合格、おめでとう。ひたむきに努力を重ねられる貴方なら、この先に続く、険しい夢路も越えることができる。正しいと信じるものの為に、励んで」


 この瞬間。この奇跡によって、報われた。


「個性……わたし、個性の、おかげで……っ、うぅ、う……ぅわああああああぁ!

 っく、ああ、ああ、ああぁああ……!」


 声を張りあげて泣いた。


 眷属様がどんな表情をなさっているのか、わたしには分からなかったけれど。背中を優しくさするように、ふわりと甘い香りがして。子供じみた衝動を、眷属様が許してくださっている証のような、そんな気がした。


 ただ、ひたすらに泣いて。心臓にこびりついた劣等感を洗い流すくらいに、泣いて。そして綺麗になった内から、今まで言葉にすることの叶わなかった、わたしの本当の気持ちが現れた。


 やがて、涙が枯れ果てて。


「アルラズじゃなくて、ごめん。

 ……兄に伝えておきたいことは、ある?」


 眷属様にそう問われたとき、わたしは。

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