10.畏怖


 熱い涙が頬を伝っていくのを感じながら、はくはく、と唇を動かす。声が出ない。お母さんにアルラズ様への気持ちを伝えようとするときと同じ。再会が叶ったのに、伝えるべき言葉が見つからない。この涙の正体さえ分からない。


「……、」


 アルラズ様はお応えにならない。漆黒の手袋に包まれた骨張った手が、目元だけを探るように動く。わたしはその意味を知っている。お養父さんが咄嗟に、自分が眼鏡をしているか確かめるときの動き。細かい文字を読んだあとで、老眼鏡を外していたことを忘れて立ち上がったときによくする動きだ。


「…………、」


 沈黙のままに、アルラズ様は視線を伏せた。何かを思索していらっしゃるみたい。お顔に影を落としそうなほどに長くて、密生した銀色の睫毛がうっとりするほどにお綺麗。


 …………銀色?


 そう、銀色だ。睫毛の色も、うなじに近い位置でひとつに結われた髪の色も、三日月の放つ冴えた光のような銀色をしている。


 わたしの、記憶の中のアルラズ様は。

 胸のうちに、違和感がじわりと広がっていく。

 けれど一時ひとときも、視線を逸らすことが叶わない。


 ご体調がよろしくないのかしら。やがてアルラズ様は、飴色の木椅子の背凭れに手をつきながら、ゆっくり、それでいてスマートに立ち上がった。


 しわひとつない黒いスラックス、黒いシャツ。アイボリーのカーディガンの上に重ねられた、ダークグレーのボタンレスジャケット。身に纏っていらっしゃる全てが、やや華奢な身体のラインの美しさを引き立てている。きっと、この方の為だけに作られた品々なのだわ。


 素敵。かつて幼心に夢想した「運命の相手」よりも遥かに素敵。上位存在の御手でしか創り出せないと盲信させる、精緻かつ耽美なる芸術作品。脳を巡る血管の隅々までを魅了する、完璧という言葉を体現されたお姿。


 きっちり締めた臙脂えんじ色のネクタイの位置を片手で直して、更に完璧に成られてから、美貌の方はどこか寂しげに微笑んだ。


 唇が、ひらく。

 わたしの為だけに、お言葉をくださる。


『わりー、誰だっけ?』


 再会のときを待ち侘びながら、ずっと、そう言われることを恐れ続けてきた。

 でも、


「いつか、こんな日が訪れるんじゃないかと思ってた」


 うつつの世界でわたしに送られたのは、


「母さんからもらった名前を、覚えていてくれてありがとう。貴方あなたのことはよく覚えてる、でも……ごめん」


 とても、とても、優しい声だった。


「『はじめまして』、シエラ・バーンネル嬢。

 貴方にとって、これは再会じゃない。俺は、アルラズじゃないからね」




 扉をひらいた先は、大聖殿附属図書館の中庭、だった。


 先にお日様の下へ出させてもらったわたしは、すぐにそっと振り返った。淑やかな音を立てて閉め切られるなり、扉は消えてしまった。色鉛筆で描かれた絵を、上から消しゴムでこすって消したみたいに。後には白紙が……「聖都の真珠」と呼称される図書館の、白き外壁が在るだけ。


 ぱちぱちとまばたきを繰り返す、さぞかし眼が丸くなっていたことだろう。はっと我に返って辺りを見回すと、美しい方は枝葉の整えられた低木の傍らにいらっしゃって、やや腰を屈めてしげしげと花を観察なさっていた。


 淡い水色をした、涙の形の花弁が可憐なお花さん、どうかお気を確かに。間近に迫った「美という概念」様に、恥じらったり酔いしれたり、はたまた敗北感を覚えたりして、そのつぼみを閉ざしてしまうことのありませんように……って、見知らぬお花を案じている場合ではないわ!


 己を叱咤激励するように両手でワンピースのスカートを握りしめ、浅く息を吸い込んで、


「あのっ! その……っ、炎神様へ直接質問を申し上げる行為は、禁忌とされていますが、」


「眷属への質問は、禁忌には該当しないよ。答えを差し出せない場合は、往々にしてあるけれど」


 細く酸素を通した、喉が震えた。

 やっぱり。この方も炎神様のご子息様なのだわ。


「そ、それでは、重ねて質問を失礼致します! 先ほどの空間は、一体……?」


「俺の隠れ家みたいなものなんだ。特殊結界って聞いたことある?」


「は、はいっ! 世界の内側に小さな世界を創造する、空間操作系統の高等魔法……全属性において使用可能ですが、難易度ゆえに扱える魔導士はごくわずか。使用者は練度が高まるほどに、内部環境をより自在にコントロールできるようになる……文字の上でそう学んだことがございます」


 丁寧に適切に管理された展示物、磨き抜かれて光沢を放つ木床。図書館の一部だとしか……創り物とはとても思えない程、現実に酷似した世界だった。炎神様のご子息様ならば、容易く扱える魔法なのかも知れないけれど、わたしにとっては「奇跡」みたいに凄い魔法だった。


 だからこそ、疑問が生まれる。


「ですが、そんな凄い『隠れ家』に、どうしてわたくしが立ち入れてしまったのでしょう?」


「いくつもの条件が偶然重なったから、かな。例えば……」


 紅色の瞳が、再びわたしを映す。


丁度ちょうど、貴方のことを考えていたから」


 やわらかくて、けれど甘い嘘を吐いているのではないとはっきり分かる、真摯なその声は。鼓膜の内側に滑り込むなり、淡い痺れのようなものになって、わたしの世界を明滅させた。


 花に伸ばしかけた指をそっと引き、眷属様はわたしに向き直る。あらゆる動きがどこか、雲が朝焼けの空に描く絵画のように、儚くて繊細。


「申し訳ないけれど、俺自身のことはあまり明かせない。それから……俺は私的な場で、家族以外のひとと滅多に話さないんだ。経験不足ゆえに、俺の言葉は貴方の心に寄り添えないかも知れない。どうか、許して欲しい」


 唖然、として。


「そんな……そんな、」


 ぶんぶんと首を左右に振って、申し上げる。


「わたくしに許しなど願われる必要はございません! わたくしは、アルラズ様に救われた、ただの人なのですから! わたくしがあの方との再会を願っていたのは、ひとえに感謝を……」


『本当に?』


 耳元で低く囁いたのは、わたし自身。


 春に萌ゆる若草の狭間からにわかに突き出した、鼠色をしたつるが……「畏怖」が身体に這い上がってきて、わたしの首を締める。


『許されないのはわたし。目の前にいらっしゃるのは炎神様の子。尊き「正義」の化身。只人のわたしには、直視することさえ許されない存在。くだらない問いへの答えを欲するなんて論外だわ』


 ぎりぎりと気道が狭められ、上手く呼吸ができない。四肢が痺れて、膝が震えて、今にも座り込んでしまいそうになる。


『それでいい。ひざまずくの。今、すぐに……』


 ふいに。


「大丈夫」


 カンカン帽と手袋を隔てて、眷属様の指がほんの一瞬、わたしの頭に触れた……触れたのだと、思う。


「どうか落ち着いて」


 囁く声がはっきりと聞こえて、身体がぽっと温かくなって、


「ここには貴方以外に、貴方をとがめるものはない。もし存在したとしても、俺が決して咎めさせないから。だから、大丈夫」


 わたしをむしばんでいた畏怖が、溶けてなくなる。


 ゆっくり呼吸を整えてから、おずおずと、自ずと俯けていた顎を持ち上げる。恐ろしく整った造形の中で、慈愛に満ちた瞳がわたしの様子を案じていた。


 間近にある紅色のつややかさにただただ見惚れてしまうわたしは、やはり罪深い。それでも寛大な眷属様は、ふわりと安堵の表情を浮かべて、


「向こうにベンチがある。座って話そう」


 小さく首を傾げてみせた。

 先に向かうにつれ黒へと染まっていく、右の横髪がはらり流れて。


「ね」

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