7.日常


「その名前、覚えてる?」


 睡眠欲を促進する春の陽気。鼻先と触れ合うほどの至近距離に何かを突き出され、弟という名の絶景をぼんやりと堪能していた俺は我に返った。


 何かとは一枚の紙で。引き剥がし、印刷された文字の多さにわざとらしく顔をしかめてみせる。


「名前、いっぱいあるんだけど。どれのこと?」


「上から十七行目。数える必要はないよ、横に印をつけてあるから」


 うんうんありますねー、ラピットの顔を模した可愛いマークが紅いインクで記されてますねー。


 思わず、くくっと喉を鳴らす。


 ごめんな、その声が聴きたかっただけ。気づかないわけないのにって苛立ちながらも丁寧に教えてくれちゃう、アルヴィンらしさのにじみ出たその声が。兄さんだけに与えられた特権だからさ。


 ちなみにラピットっていうのは、うさぎに似てうさぎに非ず、純白まん丸ボディとまあるい顔、楕円を描く一対の耳と、綿雲のようなフォルムの一体の翼を持つ、風属性の魔導生命体のことだ。


 うさぎと違って、人間を背中に乗せられる程にでかい。短い四本足でのちのちと歩き、風魔法の力ですいすい空を飛ぶ。弟はこの、人間と共生する癒し系生物をこよなく愛している。


「んー、と……シエラ・バーンネル?」


「約二年前に、『母親アマレア・バーンネルのかたきである「闇を泳ぐ魔物」を捕らえ、真実を明らかにして欲しい』って礼拝堂で訴えた子。母さんの目に留まったから、兄さんが単独でミガーネの街へ向かうことになった」


「へえ。さぞかし簡単な任務だったんだろーな、ぜんぜん覚えてねー……」


 リストのタイトルに視線を流す。今年度分の、都立ティアニーリア神学校の新入生名簿? 弟の職務の煩雑さには恐れ入る。


 つーか、聖都ここの神学校……特に神学科に合格するのって、めちゃくちゃ難しいんじゃなかったっけ。誰から聞いた話かは覚えてねーけど。


「……あえて言葉を選ばずに言うけど。兄さん、また少し忘れっぽくなったんじゃないか?」


「そ?」


 弟は憂い顔でカップを置く。白地でふちの部分に金色の流線があしらわれた、シンプルなデザインのカップ&ソーサー。陶器のミルクピッチャーも硝子のシュガーポットも、飾り気のないものだ。


 俺が訪ねたときアルヴィンは必ず、用事が済んだらさっさと帰れ、みたいな表情をしながら、とびきり味と香りのいい紅茶を、時間をかけて淹れてくれる。


 だけど自分が飲んでいるのは無色透明、無味無臭の水。特別な処理を施すことで「情報」を綺麗さっぱり飛ばした超純水だ。それが、アルヴィンが口にできる唯一の飲食物だから。


「まーいいじゃん、仕方ねーことなんだし」


 ひらりと書類をテーブルに伏せる。糸状に伸ばした魔力を操り、つつうと滑らせて返却。


 アルヴィンは黒手袋をはめた人差し指と中指で、とんと書類を叩く。書類は事務机へと飛んでいき、仲間を迎え入れるように捲れ上がった紙束の狭間にすっと差し込まれた。ぽふ、と空気を吐き出して、紙束は元通りの直方体に。


「それに、ヴィーが覚えててくれますし? 俺たち、二人で一人なんだからさ」


 「瞳」という機関において、俺は序列第三位で、アルヴィンも同じく第三位だ。


 アルヴィンは訳あって神域から出られない。その行動範囲は基本的に、神域を構成する「裁きの塔」「大聖殿」「大聖殿附属図書館」の三箇所に制限されている。


 基本的にと言うからには例外もある。兄であるアルラズ・スノウ……つまり俺が正義執行の為に必要だと判断した場合には、この美しい籠の鳥を独断専行でどこへでも連れ出すことができる。


 後から決して軽くない代償を支払うことにはなるが、一人になった俺たちに敵はいない。序列第一位のトエニカにだって負けないだろう。実力も、当然、母さんへの愛もだ。


「頼りにしてくれるのは光栄だけど、一緒にいられないケースが殆どだろう? 俺との些細な思い出を入れておける引き出しがあるのなら、自分が救った人達の名前をしまっておく方が……そう努力する方が有意義だよ」


「なんで? 俺が出ることになんのは嫌ーな事件を起こした罪人が現れたときだけなんだし、向こうも俺のことなんて、事件ごと綺麗さっぱり忘れてーと思うぜ?」


「兄さんに救われた人たちは、兄さんのことを忘れない。シエラ嬢もきっと覚えてる。それに兄さんは彼女の養父に、自分の身分を明かしてる。もしかしたら、会いに来るかも知れない」


 きっと、もしかしたら、かも知れない。アルヴィンが断定しないのは珍しい。テーブル上で組んだ指へ落とした眼差しも「迷い」を帯びているようだ。ますます珍しい。


 可愛い弟のために、ちょっと真剣に考える。


 シエラ・バーンネル。シェールグレイじゃよくある女性の名前だ。神学校の新入生ってことは大方、うら若き乙女……あー、そういうことか。


 降参、とばかりに両手をひらりと上げる。


「だーいじょうぶ、まるっときっぱり断れますって、遊んだり弄んだりしませんってー。俺、家族以外に興味ありませんから?」


 美しい弧を描く銀の睫毛まつげまたたき、鋭い視線がまっしぐらに飛んでくる。


「そういうことじゃない」


「お、違った?」


「いや、そういうことでもあるか。でも違う」


 いやいや、どっちなんです?


 アルヴィンが立ち上がる。すれ違った瞬間、良い匂いが鼻をかすめた。ふわりと甘くて美味しそうな香り。俺のとは違う、アルヴィンの香り。


 きわめて規則的で、だけど内心を誤魔化すようにいた靴音。弟はすぐに戻ってきて、俺の背後に立った。骨張った長い指で、兄さんの髪を優しく整えて、くしで丁寧にかしてくれる。


 これがマジで気持ち良い。よく一緒に屋根の上で昼寝する仲の白猫あいつだったら、喉をごろごろ鳴らしてるだろうなってくらい。


 だけど悲しいかな、アルヴィンが俺の髪を整えはじめるのは「そろそろ休憩時間が終わるから出ていってくれ」というサインなのだ。


 残念。やがてアルヴィンの手が止まり、


「想いに応えてもらえないことよりも、忘れられることよりも……出会った瞬間から過ぎ去るものだと割り切られていることの方が、悲しい。

 ただ、そう思った。それだけだ」


 体温が遠のく。思わず口端が歪んだ。


 優しいなー、本当に。二人で等分に受け継ぐはずだった母さんの優しさは、全部アルヴィンの方にいっちまったんだろう。


 人間に寄り添うことのできないアルラズが人間と関わり、寄り添うことのできるアルヴィンは附属図書館の奥の奥にこもって事務作業に明け暮れている。俺たち双子の在り方は、笑えてくるくらいいびつだ。


 さてと。


「はいはい、善処しますとも。美味しーお茶、ごちそうさまー」


 俺はお茶会セットからするりと抜け出した。


 アルヴィンが愛用している櫛は、珍しい半月型で、持ち手の部分に楚々とした花模様が彫り描かれた、精巧にして繊細な木製の一品だ。多分、俺から贈られた「お土産」の一つなんだと思う。


 それを鏡台前の定位置に戻してふりむいた弟に、まっすぐ、歩み寄る。


「? ……っ、」


 俺とお揃いの紅色をした双眸がきょとんと見開かれ、すぐに焦りによって細められた。油断していた獲物はじりじりと手遅れな後退をはじめ、譲歩を求めて胸の前で左手をひらいてみせる。


「分かっ、た! どうしてもスキンシップがしたいなら握手だ、握手がいい、握手にしよう、握手で決定だ、どうか気が済むまで握手をしてくれ兄さん、」


「やだ。つーか俺は、スキンシップがしたいわけじゃーない。大事な大事な弟の、」


 アルヴィンは、力では俺に敵わない。抵抗の証である左の手首を素早く捕らえて引き寄せ、噛みつくように抱きすくめた。


「健康診断がしてーの」


 炎神の眷属である俺たちにとって、熱は特別な意味を持つ。俺以外のなにものも、アルヴィンにはれられない。弟のメンテナンスは俺の大事な仕事であり、唯一の趣味でもある。


 一番上のボタンさえも滅多に外さない黒いシャツ。露出を最低限に抑えた、フォーマルが過ぎる服装。ネクタイくらい緩めればいーのにと、いつも思う厳重な包みごしに、硬直した身体の温度が俄かに高まっていくのが分かる。


 うなじに近い位置、紅色の結い紐でまとめられた、清水のような手触りの銀髪に指を通して。白い首筋から立ち昇る甘さを、すんと吸い込んで堪能してから、


「ん、まあまあなポカポカ具合。及第点」


 内緒事のように低く囁く。


「だけど、くれぐれも無理はしないよーに。抱えらんねーぶんまで抱え込むな、って何万回言っても忘れたフリするよーな悪い子には、おしおきしなきゃなんねーかも?」


 弟を解放、しようと拘束を緩めた途端。


「……それは、」


「お?」


「こっちの、台詞だっ!」


 俺は額をがっと掴まれて、全力で押しのけられたのだった。

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