2.光より眩く
2.光より
ミガーネの街。
ところどころ塗装の剥げたスイングドアを押してその男が入ってきたとき、ギルド併設の酒場は真昼間のような静けさに支配された。
誰もが見知らぬ人物だったからでもあるが、最たる理由は、一目見れば二度と忘れないほどに美しかったからだ。
歳の頃は二十代前半くらいだろうか。
雪のように色素が薄く、いかなる
眼は切れ長の二重
ギルド戦闘職員の制服姿、ではない。
ノースリーブの黒いインナーを
大柄なわけではないが、均整がとれたしなやかな身体つきをしている。猫科の獣のように強靭かつ艶美だ。
人と携えられた
注目されることに慣れているのか、男は大衆に向かって
『ずびっ』
と。静寂を破った鼻水をすする音に、わずかに目を見開いた。
音の主を突き止めたことで笑みは深まり、唇から犬歯がちらと覗く。男はテーブル席の狭間を縫うようにして、そちらへ悠々と歩いていった。
……それから二十分後。
「ゔおんゔおんゔお〜ん、我が友よお〜! おまえぼどおれの気持ぢを理解じでぐれだ者ががづでいだだろゔが、いや、いないぃ〜!」
酒場の片隅には、筋骨隆々とした大男が年甲斐もなく、年季の入った木製のラウンドテーブルに伏せて大泣きする姿があった。相席しているのは、先ほど衆目を集めていた美貌の男だ。
「や、俺は軽ーく話聞かせてもらっただけだってー。ユーデルさんの話し方が上手いんだよー」
しこたま
美貌の男は頬杖をついて、巨躯のギルド戦闘職員……ユーデル・マーガンに柔らかな眼差しを注ぎ続けている。片手で握るジョッキの中でぷくぷくと呼吸しているのは苦い酒ではなく、薄桃に色づいた甘い炭酸飲料。
酒場に居合わせた者達は元通りの騒々しさを取り戻したようでいて、美しき余所者に未だ興味津々である。女性客は特に、だ。
更にユーデルの声量は、隣国フェオリアで近年開発が進められている自動四輪の、試作品の駆動音に匹敵するほど大きかった。
このため二人の会話内容、
「よしよーし。ここは出会いの記念として俺が払わせてもらうから、もう一杯はお水にしといてさー。酔いが落ち着いたら家、帰ろ? んで後日、奥さんの好きなもの選んで買ってさ、いつもありがと、って何でもない日に贈ろーよ」
「ぐずっ、是非ぞうざぜでもらゔっ……何がら何まで、本当に……いやッ」
ユーデルはバッと、泣き濡れてテカテカになった四角い顔を上げた。
「世話になっでばかりでばいられん! 友よ、おれにもおまえのだめに、出来る事ばないだろうがっ!?」
「えー? いやいや、んなつもりじゃねーから、……あ。
じゃあさ、ふたつだけ教えて貰える?」
強調するように人差し指と中指を立てて見せてから、男はパチンと指を鳴らした。ボウッと音を立てて
ユーデルをはじめとした周囲の数人が、目玉を剥いたり仰け反ったりとそれぞれに動揺を示したが、男は「しーっ」と骨張った人差し指を唇に当て、火の玉にもう片方の手を躊躇いなく突っ込んだ。
どうやら収納魔法の一種らしい。引き抜いた手に握られていたのは硬貨だ。「熱くないよ」と悪戯っぽく一言添えて、男は全てをテーブルに置く。ユーデルがその日飲んだ酒代に充てるには、余りにも多過ぎる額だった。
「まずひとつ。この街のお土産に
ユーデルは数秒の間、ぽかんと口を開けていたが、「おーい」と顔の前でひらひら片手を振られ、はっと我に返った。岩石のような手を軽く握り込んで
「ううむ、飲食物以外で、となると……おおっそうだ、街の名産品というわけではないが、高名な
「櫛か、いーね、それにしよう、情報提供ありがとー。んじゃ、もうひとつ」
軽やかな早口で「ひとつめ」を終わらせ、男は身を乗り出した。
重なりあっていた金貨の縁が、腕に押し出されテーブルを小突く、微かな音。強調される、剥き出しになった鎖骨の陰影。命懸けの仕事で滲み流れた汗と、魔糸の先をふやけさせるアルコールのにおいが、床に壁に天井に染みついた中で、凛と立つ、すっきりと甘い芳香。
迫力ある美貌に思わず、地図を描こうか、という言葉を呑み込んだユーデルに、男はあからさまに抑えた声でこう問いかけた。
「ユーデルさん。『闇を泳ぐ魔物』って、聞いたことある?」
ユーデルは再び口をぽかんと開け、
男は切れ長の双眸をすうと細める。
落胆の色は、無い。
「そっか。付き合ってくれて……『友』って呼んでくれて、どーもね」
それだけ残し、男は椅子の脚も鳴らさずに立ち上がった。近づいてきたときと同様に、テーブル席の狭間を縫うようにして、悠々と遠ざかっていく。
追いかけようにも、散々自棄酒を呷った後だ。ユーデルはその場に立ち上がり、空のジョッキと硬貨が残されたテーブルに両手をついて、こう叫ぶので精一杯。
「ま、待っ……おまえっ、名は……!?」
スイングドアに手を掛けながら振り返った男は、
「
唇の動きだけで、ユーデルに答えを示した。そして変わらない足取りで……夜闇を微塵も恐れない足取りで、静かに、漆黒へと溶けていった。
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