【特盛版】ある眷属の正義
紫波すい
序章 闇を泳ぐ魔物
1.闇より昏く
『我は闇を泳ぐ魔物。
夜闇の中で生まれ、朝陽を浴びて死ぬ。
我は闇を泳ぐ魔物。
束の間の生と死を繰り返すもの。
我は夜を泳ぐ魔物。
黒き糸の流れぬ者よ、
ゆめゆめ闇を覗くこと
【序章 闇を泳ぐ魔物】
1.闇より
食い縛った歯の隙間から、ヒィヒィと、浅く荒い息が不規則に漏れ出す。割れた酒瓶を蹴飛ばす音に何事かと、夜闇に溶け込んでいた黒猫の、蜂蜜色の瞳が
この街は俺の
容易かったのだ、今宵までは。
彼は駆ける。駆ける。駆ける。
ただ駆けて、一歩分でも遠くへ逃れること。
手札はその一枚だと、脳を麻痺させる、恐怖。
血走った眼で、幾度となく背後を振り返った。あれの姿は無い。だからこそ焦りが募る。かっ、かっ、かっ、と規則的な足音……自分のものではない足音が、鼓膜を震わせて止まないのだから。逃走劇の幕開けから現在まで、ずっと。
闇よりも昏い、影のような執着。
あれは何処から来た?
あれは何処に居る?
俺は何処へ行けばいい?
スタミナ管理になど頭が回らない。脚部に強化魔法をかけた状態で全力疾走しているのは、丸きりいつも通りのやり方だが、長期戦に陥ることなど無かったのだ。
今宵に限って、幼稚な罠の
爪で
躍り出た、そこが最果て。
転がりそうになるのを堪えた結果の前傾姿勢で、彼は急停止した。
全身を流れ這う熱い汗が、一気に凍てつく。
石畳の敷かれた、円形の広場だった。
彼をぐるりと取り囲むのは建物ではなく、薄っぺらな板の上に色鮮やかに描かれた、建物の稚拙な絵。子供が演劇で使う大道具のような代物だ。
やけに明るいのは、頭上に広がる、どこまでも晴れ渡った星海のせい。
そして、金色に輝く、望月のせい。
身の丈より巨大な月を背負うようにして、
「『やあ、良い夜ですね』って挨拶しようと思ってたんだけど……生憎の曇天だったから、良い感じのシチュエーションを自分で創ってみたんだ」
白く並びの良い歯をにっと見せて、
「会いに来てくれてどーも。やっと言えるよ。
やあ、良い夜ですね」
あれが
明朗快活で爽やかで、一切の遠慮もなく侵食してくる声に、粟立った肌が鱗のように硬くなる。
いや、それよりも。無い。
この街に、こんな場所は、無い。
髪を乱して振り返る。退路を残しておいてくれる程に、甘い相手ではないと分かっていながら。案の定、視線の先には、
「特殊結界は初めてかい?」
まるで同じだけの距離を置いて、望月を背負ったあれが立って居て。切れ長の紅色の双眸を、わざとらしく丸くする。
「お? その反応、マジで初めてなんだー。簡単に言やー、世界の内側に自分だけの世界を創る魔法なんだけど……」
振り返る。伸び放題の髪が引きちぎれそうな程に激しく。
もう一度。もう一度。もう一度。
景色はまるで変わらない。脚の震えが慌ただしく這い上がってきて、
「はは、
近づいてくる。
かっ、かっ、かっ、と規則的で、残酷な足音。
制止と容赦を求める上擦った声が、狭まった喉を迸る。足がもつれ、後退は遅々とし……それに耐えられずに再び背を向けた刹那に、
右肩に手を置かれた。
「逃がしてやるわけ、ないだろ?
今まで悪事ご苦労様、『闇を泳ぐ魔物』さん」
死刑宣告の如く、低く、無感情に。
左の耳元で囁かれたのは、
「『正義』の名のもとに」
絶対零度の、最後の台詞。
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