3.月より遠く
昨夜、街の中心部に建つミガーネギルド併設の酒場にて、酔っ払い達を静まらせ騒がせた美貌の
ユーデルの三分の一程度しかない細さの利き腕で、両開きの大扉を軽々とひらく。
講壇の
依頼主である彼女の名前は、シエラ・バーンネル。未だ成人の儀を迎えていない十四歳の少女だが、憔悴が老けさせたその顔は、既に生きることに疲れ果てているようだった。
規則的な靴音が丸みを帯びた響きとなって、神父も含めた三人分の鼓膜を柔らかく叩く。
余所者は片手をひらひらと振りながら、
「や、おはよー。あ、立ち上がんなくて良いよ。座ったままで、落ち着いて話そう」
羽根のように軽やかな声で少女を制し、少女の前列に腰掛けた。磨かれたばかりの窓から差し込んだ午前の光が、その淡い金髪を穏やかに彩る。
「落ち着いて……」
シエラは余所者の言葉を反復しながら、膝上に置いた両手で、橙色のワンピースを強く握った。彼女の母親が仕立てた一着。フレアスカートの裾周りに、草花をモチーフとした精緻な刺繍がぐるりと施されたものだ。
(落ち着いて「いられるものか」……って感じ、でしょうかね)
依頼主の焦燥を察し、
「『闇を泳ぐ魔物』。捕まえられそーだぜ」
余所者は早々に切り出した。
「っ! 本当ですか!?」
「本当。早くて明日、遅くても明日には。君に会いに来たのはその報告のため。それから、改めて判断材料が欲しい」
「……判断、材料? わたしがお話できることは全て、お伝えしたと思いますが。もしかして、やはり依頼料が欲しい、というお話でしょうか?」
「や、そーじゃなくて、まだ聞かせてもらってねー超・重要なことがあるんだ。
君の、愛についてさ」
3.月より遠く
神が、地上に顕現する時代だ。
ミガーネの街を領土とするシェールグレイ神聖王国の治世を
祭壇の奥、紅を基調としたステンドグラスを背に佇む神像は、
『女神は天上に
シエラ・バーンネルは、ある「生まれながらの不公平」に苦しみながらも、優しい母に導かれて真っ当に生きてきた。
しかし神は、少女の唯一の肉親を……かけがえのない存在を、護ってはくれなかった。
シエラが行動に出たのは五日前のこと。新たな保護者となったこの教会の神父に伴われ、聖都の中枢である大聖殿を訪れたのだ。神を糾弾する為ではなく、正しき裁きを乞う為に。
一人一人が抱く、異なる色をした願いを、神は慈愛の心で以って受けとめる。どれほど強い願いだろうと、多くの場合は受けとめる「だけ」だ。
シエラも、重々承知の上だった。
それでも……という、次第に重く冷たくなっていく期待を抱えながら、ミガーネへと帰り着いたとき。夜闇に侵食された世界で、小さな背中に体重を預けるようにして閉め切った玄関扉を、軽やかにノックする音がした。そして、
『おっ。どーもはじめましてー、聖都から伺いました、余所者でーす。君の依頼……「闇を泳ぐ魔物」事件について、
軽やかに笑う、美貌の「余所者」が現れた。
〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜
「わたしの、愛……ですか?」
「そ。君の、お母さんへの愛について。
「……必要なことなら、何でもお答えします。ですがその前に聞かせてください。何故?」
「ん、理由? 『分からない』から。
俺さー。君の前で言うべきことじゃねーのかも、だけど」
祈りの対象でも呪いの対象でもある神像の、閉ざされた瞼を見つめながら。余所者は、
「母さんが大好きなんだよね」
真摯な声音でそう言った。
「過去の……生まれる前は流石に、だけど。今も未来も、世界中で誰よりも、森羅万象の何よりも、母さんのことを大切に思ってるって自信がある。ここへ来たのも君の為って言うより、母さんの為って言った方が正しい。だから、」
春の晴れ空のような蒼を湛えたシエラの瞳を、
「母さんが、夜空に浮かぶ月よりも遠いところへ連れて行かれてしまったら?」
余所者には分からない。
語られなければ、分からないのだ。
「母さんを想うことが、母さんの為に動くことが当たり前の俺は、一体どうなっちまうのか。想像すら、できないんだよなー……」
「わたしも、分からないんです」
「わたしが、どうしたら良いのか」
〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜
ぼたたっ、と大粒の涙が零れ落ち、母親の遺作のワンピースに、暗いシミをつくっていく。
(……はは。どこまでも、弱いなあ、わたし。
もう、涙は枯れ果てたんだって……何度も、思ったのになあ)
思い出すまでもない。硬い土路の上で仰向けに横たわった母親に、ふるえる脚で駆け寄った日。一筋だけ、涙の跡を残した頬……氷のように冷たくなった頬に触れた、悪夢のような日。
(あの日から、何度も、何度も、何度も。
それなのに……っ)
それでも、涙は再び溢れ出す。渇いた感情を
遺体の傍らの土を抉り、殴り書かれた「闇を泳ぐ魔物」の名を……憎き仇の名を読み上げたときの、焼けるような臓物の痛みを。
「分からない、分からないの……!」
その痛みが、喉から迸り、叫びへと変わる。
「だって、ずっと一緒だったから! 一緒にいることが当たり前だった、こんなに早くお別れのときが来るなんて思わなかった!
だからっ、まだ、お母さんが……お母さんのいない、家の中で、どうしたら良いのか、全然、分からないの……っ!」
黒いインクで、白紙にひたすらぐるぐると渦巻きを描くような。行き場の未だ見つからない、感情の炸裂へと、変わる。
「ただ、悲しくて、悔やんで、憎んで……悲しくて、悔やんで、憎んでっ……ずっと、ずっと、その繰り返しで……っう、だけど……」
やがて。
負荷に耐えかねたペン先が折れたように、
「っ、だけどぉ……誰よりも優しかったお母さんが、悲しむ顔は、見たく、ない……。わたし……わたし、どうしたら、良いのかな……?」
かぼそく、かぼそく、少女は問うた。
〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜
(……材料は充分、揃ったかな、と。色々と決ーまり)
負の激情に凍てついていた、少女の「熱」を背中に浴びて。
余所者は、口許だけで
「材料提供ありがと、よーく『分かった』よ。
んーと、どうしたら良いか、ね」
掃除という名目でさりげなく
紅色の双眸にその姿を映した余所者は、笑みの色を素早く切り替え、
「とりあえず明日の
話は終わりだ、とばかりに立ち上がり、神父に向かって手招きした。
どこまでも
「そこから先は、人間同士で考えよう」
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