~飽くなき本能~(『夢時代』より)

天川裕司

~飽くなき本能~(『夢時代』より)

~飽くなき本能~

私は二人居た。

―一人の私―

 空は晴れていたように思う。最寄りのstationは自宅から四㎞辺りの所にあり、結構な人で賑わっていた。可愛い娘が居たり、知らない子も居たり、不良も居たり、ヤクザも居たり、紳士も居たり、警察も居た。私はそのstationの地下街にある中華料理屋へ行く予定になっていた。丁度、専門学校時代の友人から三日程前に電話があって、久し振りに皆で会おう、という事になり、実際来てみると、なに、友人同士の語らいどころの騒ぎじゃない、学校全体を上げて催された様な盛大なディナー・ショーの模様になっていた。

 私は暫く宴会場の後ろの方で酒と料理をつまんでちびちびやっていた。パッと照明が消え、お楽しみ会の一つであるプログラムが壇の上で催される頃、私は誰かに後ろから勢い良く殴られた。全く不意の出来事で、今何が起こったのかよくわからないが、酒の味も相俟ってか、陶酔し、自分が誰かに卑怯にも後ろから殴られた、という事だけが比較的早く後を追う様に鮮明に残った。私は始め、静かに振り返り、その私を殴った犯人を探し始めた。暫く見渡したが誰も居らずわからない。すると少し前方に座っていたお客の内の何人かから、くすくすと笑い声が聞えて来た。「笑われる覚えなどないのに…」等と私は被害妄想が祟って全て自分への非難だと思い込み、次第に怒りのボルテージに拍車を掛ける形と成った。しかし〝自分を叩いた犯人〟はまだ見つからない。いい加減苛々して来た私は探していた目付きを止め、一度、プログラムのショーをやっている前の舞台に目をやり、又、酒をちびりちびりと飲んだ。もう、結構な量になっている。少し、「控えねば…」とも思ったが周りの環境が許してはくれず飲むスピードも量も増える一方だった。プログラムの舞台が終わるのと、もう一度勢い良く叩かれたのはほぼ同時で、叩かれたと同時に館内の明かりが付いた。又、次は後方でくすくす笑う声が聞こえ、私は遂に我慢の限界を越え、殆ど無言のままで前方から後方から気付かれない様に本格的に自分を叩く犯人を捜し出した。すぐに見つかった。結構な人数が居た。むかーし昔の旧友の様でもあり見知らぬ荒くれの様でもあり、酔っていた私には見当が付かなかった。持っていた武器で、私は密かに彼等に近付き彼等を殺しまくった。殆ど修羅場と化していた。他の観客は私の殺戮にはその時目も耳も貸さず違う箇所を眺めている。私はこれ幸いとして、気の行くまで彼等と闘い、とにかく殺しまくっていた。やはり殺人を犯した後で多少気が済み、次は罪悪の念に駆られるのか、途端に私は周りが見え始め、明るくなった景色の中、人混みを掻き分けて自分の自宅の方向へと、とにかく逃げた。青いシャツと紺の帽子とズボンを着た多数の警察が、内一人の観客の通報により、沢山の死体が置かれた現場へ駆け付けていた。その観客の一人は、私が殺人を為している現場を直接見ては居らず、後から死体が置かれた現場を見たクチである。この時はまだ、居たであろう現行の目撃者は私の前には現れていない。

 私は、そうあの時の現場では、実際、殺らなければ殺されていたのである。〝くすくす笑う者達〟とは実はヤクザと不良とが混じった一団組織の様であり、何故か奴等は私を狙って来た。別段、恨みを買った覚えはないのだが、いちゃもんを付けられるのは得てしてこんな具合なのかも知れず、唯、殺らなきゃ殺される、といった程の形相を奴等はし、又大人数だったのだ。懐にも恐らく小さな武器を隠していたに違いなく、持っていなかったにしても、素手であの人数に殴られ続ければ死ぬかも知れない。死なないにしても大怪我だ。私が奴等を犯人だとして認め、文句を言いに行こうと身構えた途端に、群れを成して前方に立ちはだかり、一斉に向かって来た。私と奴等はいつの間にかその時、中華料理屋の厨房の様な所に居て、他の人が居ない場所と成っていた。いつ目撃されるか、等気にする間もなく私は奴等を殺しまわったのだ。よく勝てたと思う。あの人数に。幸運が功を奏して、私は生き残り、奴等は撤退して行った。そんな修羅場の様な空間を掻い潜り、私は人混みを掻い潜って、次は逃げていたのだ。

 燦々と陽が照る中、stationのピエトロ広場と呼ばれる広場へ向かって逆行する人々と、現場へ向かって駆け足で二~三人の列を成して逆行する警棒とトランシーバーを携えた警察官を潜り抜けるようにして、私は自宅の方へ小走りになり逃げていた。警察官や人々は、犯人である私の顔を知らず、犯人の顔も未だ解って居らぬからその時の私には好都合だった。しかし、あの観客、又、一緒に来ていた専門学校の学生の内に、犯人である私を目撃していて、犯人を私だと見抜く者が現れはせぬものか、と少々焦りもしていた。私に電話を掛けて来たのはそれ程親交もなかった知人の様な友人で、専門学生だけでもかなりの大人数が居り、それに先生や講師、受付の従業員まで加わる為、内一人が欠けたとしてもそう騒ぐ事もない様子で、私が犯人として見付からない様にそこから居なくなったとしても、わからない様だった。私がその場を離れて帰る迄に既に何人もが私情事情で帰って居り、私の今回のそれも、その「帰宅」の内に含まれる様に有耶無耶になった。私が、逃げる道の途中にあった少々下り坂に建てられたバス停に差し掛かる頃、とにかく前方から何人もの警察官が小走りで私に向かって来ては横を通り抜け、私とは逆の方向へ走って行く。一人一人の警察官の表情は微動だにせず一つの目的を遂行する為だけに固まっている様で、尚、少々、私を強張らせた。私はとにかく逃げなければ、と専門学校主催の宴会場への後始末は首尾良く纏め、その現場から一目散に姿を消した。脆弱(よわ)い逃避行の様に思えるが、その時の私は唯夢中だった。

 大分その現場から距離を空けた後、私はもう警察やその現場周辺の景色、又その時の自分の情景等から遠ざかった為、少々落ち着き出し、色々考える事が出来た。

「もしかすると見付かっているんじゃないか…?警察は今どこまで調べているのか…?私はこの先どう成るのだろうか?やはり捕まるのか?もし捕まるのなら早い内に自分から自首した方が良いのではないか?いや待て、自首したにせよ、俺はあいつ等が集団で、群れを成して襲って来たから自分の身を案じた上で自分は殺(ヤ)られまいと、正当防衛を以て免れたのだ。その後逃げた事も、初犯でもあり、それでも人を殺してしまった罪悪感に耐え切れなくなって勢い余って逃げたのだと説明すれば、警察も解ってくれるんじゃないのか?奴等も鬼じゃない。きっと自分の心の内の恐怖を理解してくれて、罪を軽くしてくれるだろう。何しろあの現場に居たのは、私も少々愛惜しく思いはしたがそれでも私を殺そうと鬼と化した殺戮隊と俺だけで、殺らなきゃ殺られていた、という様な修羅場だったのだから他に助けてくれる輩は当然として居らず、俺はその状況に沿う様にして孤立奮闘だった。この〝孤立無援〟を解って貰えれば、きっと助かる…!そうに違いない。…いや待て、殺したのはあの多数だ。七~八人は殺したかも知れない。あの時はっきり人を殺した手応えがあった。幾ら初犯でも、孤立無援でも、あの人数を殺してしまえば俺は死刑かも知れん。死刑だけは絶対に免れなくては、死刑だけは絶対に嫌だ。(日頃ネットで「日本の死刑囚」について結構調べていた故のその内実と恐怖とが余計にその時の私に圧し掛かる)それにすったもんだの様な裁判中での追加責任や自分も未だ知らない真実が露呈されて自分が完全不利に成る事だって考えられる。現実は甘いものじゃないのかも知れない。…」

等、散々考える事も出来、一度は自分が助かる見込みについて考えてもみたが、現実というものを又思惑の内で仕切り直し、それでもやはり、微動だにする事が出来ずに居た。

 私はそんな事をふらふらと考えながらエスカレーターに乗り階段を下りていた。そのエスカレーターは昇る用ではなく、あの歩いて渡れる平らなもの。エスカレーターを降りて階段を下りる頃、私に後方から話し掛けて来た女が居た。私と一緒の専門学校に通い、結構普段から親しい様子だった女である。しかし顔は見た事もないものだった。頬は赤みがさして居り、前髪は軽くカールして丸まり、ポニーテールで結構長い髪を背中辺りまで下ろした、多少清潔感の漂う娘だった。しかし器量はどこにでもあるありふれたものだった。目がくりっとしていて印象的だったのを覚えている。その娘は私に話し掛け、「久し振り」から、段々真相に迫る物言いに変わり、話している最中で私が犯人である事に気付き始めた様子だった。「気付いた」とは言っても、解った訳ではない様子で、未だ半信半疑の様である。私は、これが犯行後の余韻とも言うべき、後から湧いて出て来るミミズの存在か、と半ば悟り顔して心中で頷いた。尚、その少女は半信半疑から段々と確信へと変わって行く様子で、「もしバレたら大変よねえ」等という様な脅迫めいた事を言い出し、白いブラウスにピンクの吊りスカートを着た背中を見せて、何か一つの目的に向かって颯爽と歩いて行く様な、凛とした姿を見せた。私はその娘について行くだけの体裁を覚え、完全にその娘の下位に自分が置かれているとその時錯覚した。しかし周りに沢山の人が居て、環境がそうさせなかった為か、私にはその時、その娘の口を封じる事は出来なかった。口惜しい気持ちもなかった訳ではないが、唯、その娘について行くしか術がなかったのだ。しかし娘はそれ以上の脅迫、例えば口止め料に数百万円等という事は口にしないで、唯、何かを工作している様な趣を以て颯爽と歩いて行く。時間の問題か、とも思ったが、それでもやはり私にはその娘を殺す事は出来なかった。罪を重ねる恐怖を覚えて居たのかも知れない。その少女が私の犯行に気付いたのは、私の袖口に僅かに残っていた小さな血痕だったのかも知れない、と私は後から思い返していた。

(時と場所が移り変わって)

―二人の私―

 私は〝サンピエトロ〟と呼ばれる広場に居て、イタリアの古風と現代の〝モダン〟を味わえる空間に、同じく専門学校で知り合った仲間達と居た。我々は共に小旅行を楽しんでいた様で、その専門学校内で以前知り合ったTという、肉体の妖艶を漂わせた上で或る男をその心身の虜にする事が出来る娘も、その仲間の内に居た。場所の異国情緒が祟ってか、皆浮かれていた。人数は五~六、七~八人、といった所でそれ程多くはなかったが、人数等興味がないその時の私ははっきり数えず、唯、そのTの存在と、私を脅したあの時の娘の存在をマークしていた。どちらも娘であり、Tはやや大人びているが子供の様な気性も持ち併せて居り、時折見せるエロティックな乳房の谷間と、日焼けした生足が彼女の武器と成り、自分の周りに群がる男共を躰への虜とさせ、私を脅した娘(N)は一層変わらず、黙々と自分のペースで歩んでいる様だった。私はそのNに脅されながらも、Tの魅力に後から後から次第に侵され、そのTの為ならどんな状態に置かれても構わない、という奈落にまで堕ちた。私はTとNとが密かに好きだった。その好奇心は肉体へのものであり、いつかそれぞれと恋仲に成りたいとまで考えていた。Tは持ち前の元気と活発と色香を醸し出し、ここぞという時には精一杯魅了して周りに男達を従え、自分の小旅行を楽しいものにしていた。Nは唯そんな光景を黙って見ているだけで別段嫉妬もせず、てくてくと皆の後や前を歩くだけである。それでもNから私への監視は外して居ない様子で、どこに居てもNは私の居場所を把握し、私の内心にまでその触手を伸ばしてくる様だった。Tはその様な私とNとの関係に気付いていない様子で、アイスクリームやメロンソーダを食べたり飲んだり、イタリアの黄色く重い空気が漂うレトロの中で、子供染みた大人の女性を演出した上で遊び回る。他にその仲間として集った男友達も何人か居た様子だが私に関係ない所で遊んでいた様である。唯、私の十数年来の親友だったYだけは、要所で顔とその雰囲気を漂わせていた様だが、それでも直接私に何かする訳ではなかった。そのTとYとが以前に一度、恋仲にあった事が影響したのかも知れない。

 Tはひょんな契機で私に近寄り、何か赤いミニバス屋台の前で、私を〝好き〟と言った。私はその時、心が別の方を向いていた為かそれ程嬉しくはなかったが気分は良く、その屋台でアイスクリームやサンド、ホットドッグを買っている他の友達の背後で、そのTの股ぐらに手を入れた。Tは別段抵抗するでもなく、真顔になり少々困った様な顔をして、私の動く手を一瞥した後、私の顔をじっと睨む様にして見詰めて来た。そのTには男の陰茎が付いて居り、ふたなりであった様子で、それでも私はわかっていたかの様に別段驚きもせず、その茎の上方の皮を爪でトントントントンカリカリと刺激して、予想以上に敏感に反応するTの様子や表情、又Tの次の反応を面白がって期待し、Tは自分に与えられた当然の刺激から得る悦びを、ふんだんに噛み砕いて一時の内でも愉しんだ。愉しんだ後、一旦Tは怒った様に私の手を払い除けてどこかに立ち去る素振りを見せたが、又すぐに戻って来て、構ってくれ、という様な素振りをした。友達は遠くでキャッキャッと騒いでいる。太陽が雲に隠れて見えず、まるで黄砂の様にどんより黄色く曇った空気は、懐かしさを備えた上で、その時集った私の友達、仲間、女、屋台、街の風景までもを、外界のどんな刺激にも負けないくらい強固に守り通し、包んでいた。TもNもその内に居り、私に違った刺激を投げ掛ける。Tはその時の喜びであり、Nは永遠の喜びである。私がTを翻弄している間Nは私の背後に居た様子で、私はもう一方の手でそのNを抱いていた感覚を覚える。Nは、そのTとの甘い感覚に溺れていた私にとって、ナイフの様に弱い皮膚を切りつける、邪魔で切れ味の鋭い存在に成っていた様子がある。私はTを相応に蹂躙した後でそのNの方を本気で愛し、欲した様だった。Nはしかし、最後まで私に決定的な事を言わなかった。その沈黙の連続に私もつい気を良くして許し、Nを自分の懐に入れ込んでしまった節がある。Nは私の心の中で微笑んだ様だったが、はっきりとわからなかった。

 空に一点の穴が開き、瞬く間に黄砂の風と友人とTと、街の光景や情景を吸い上げ、辺りは星のない宇宙の様に真っ暗に成った。しかしTはその躰から自然に落とされた光の玉の様な人を魅了するものを、私の前に残してくれた様だった。後になって私の周りに残ったのは、Tの残像と、Tが昔付き合っていたYの顔、真正面を向いて時々目を閉じたり微笑んだり、又真顔になって真実を見詰めさせるNである。私は煩悩のしぶとさを憎むと同時に、殺人を犯す者の心の淵に在る門をノックした後で聞こえる「見知らぬ囚人の声」の様なものを聞き、二度と後戻り出来ない境地に辿り着いた。


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~飽くなき本能~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji

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