執念

 甲刹は立ち上がった男の方に、目だけをギョロリと動かす。その目は感情が読み取れず、まさに空虚である。彼は姿勢をなおす。そして、穴の空いた外套を脱いで早業的に畳んだ。畳んだ外套は傷ついてない机に置かれる。


 この、緊迫した場面であるのにも関わらず、一連の動作は全てが丁寧。中に着ていたワイシャツにはシワもシミもない。

 

「申し訳ありません、エミーリアさん。ここの皆さまを少しの間、守ってくれますか?」

「は、、、はひ」


 エミーリアは、魂が抜けたような様子で返事をする。けれどすぐにしっかりしなくては、とはっとし、手を固く結んで唱える。


「主よ、彼の者共から我らを守り給へ、聖域サンクチュアリー


 すると客全員の周りに、光り輝く四角形の輪が現れた。彼等はやがて、光の壁に包まれる。それに、あるものはどよめき、あるものは感嘆を吐いた。

そうする間も、エミーリアは手を握り祈りを続ける。

 

「さて、すいませんね、少し手間取りました。待って頂いて感謝します。マスター」

「...」


 彼は何も答えない。深い敵意がこもった視線が、ただ甲刹に突き刺さる。そこには、これまで経験したものより遥かに上の、並々ならぬ殺意があった。


 一秒後、マスターは甲刹に向かって走り出す。凡庸な走り方で。しかし、動きとは裏腹に早さは格別。息を吐く間も無く、距離は縮まる。そうして、勢いをそのままに首元に掴みかかった。

 

「!」


 触れる直前で、目の前の男は体を横に動かす。すると手は者を掴めず、横からの強烈な蹴りが脇腹を刺した。マスターの体は派手に吹き飛び、窓に叩きつけられる。


 この機を逃すまいと甲刹はバケモノじみた速度で彼に接近。壁にもたれかかった彼の腹に前蹴りを喰らわせた。


 ドシャンという建物全体に響き渡る音を鳴らして、その壁が壊れる。土埃が宙を舞い、周囲の様子は殆ど見えない。

 

「ゴホッ!ゴホッ!」


 マスターの目には、土埃越しに太陽が見えた。

どうやら外まで飛ばされたようだ。店を台無しにしやがって、と彼は倒れながらも文句を垂れる。そして飛び起き、土埃の中で影を探した。


 左に右に、あらゆる方向に影が素早く通っていくような感覚を感じた。何一つ、あてにならない。どうやら目は役に立たないそうだ。

彼は触覚を研ぎ澄ます。

感知したのは背後で微かに感じた土埃の乱れ。


「そこだっ!」

 

 振り向き様に足で弧を描きながら薙ぎ払う。甲刹はこれを一歩下がって避けると拳を作り大きく前進。体を捻りながら右手で顔に強烈なストレートを叩き込む。

ゴリという鈍い音がした。


「っぢぃ!」ザーッ

 

 彼は今度は倒れずに、車道ぎりぎりだが何とか足で踏ん張る。車道は車が往来し、出たらひとたまりもない。


 ポタポタと、マスターの頬から血が滴る。頭からの流血も酷くなったようで視界が真紅に染まり始めた。暑さに汗も流れ始め、状態は刻一刻と悪化する。

 しかしながら、近づいて来る者の服は未だ白かった。やがて彼等の距離は1メートル。走る必要もなくない。

 

 血を流した男は全身全霊で殴りかかる。その攻撃は遅いなんてことはなく、それどころか常人の物より数段早い。


 甲刹はそんな攻撃を、片手で滑らかに逸らす。それから懐に潜り込むと、肘鉄で肋骨を突いた。

 

「ガッ!」ダダッ


 目を大きくし、口から掠れた空気を出す。少し後退するも、甲刹は逃さない。


 すぐさま、銃口を向けて脚、鳩尾、喉の順に3発を発砲。銃弾は貫通しないものの、ダメージを与えるには十分だった。

 マスターは喉と鳩尾を抱えて、膝をつく。彼は最後の追い討ちとして、俯いたその顔を垂直に蹴り上げた。


 そして遂には、バタンと力無く仰向けに倒れる。


「……ふぅ...動きは素人なのに、なんて、でたらめな強さの神秘だ。私が見て来た神秘による身体強化の中でも、最上のもの。当たったらただではすまない攻撃。これは皆様が死んでしまう理由も分かります……はぁ………………………バカが」

 

 彼は一人呟きながら額の汗を袖で拭う。倒れた者を見る瞳は、冷たく、遠く。ただ、その場で少しだけ呆けた。

 それから今度こそ確実に捕まえるため、マスターに触れようとした、その直前。


———ブ——!!


 その時、けたたましいクラクション音が近くから鳴る。甲刹は思わず視認した。


 なんと、大型トラックが彼等目掛けて、横から突っ込んできていたのだ。けれど猶予はあり、彼ならば避けることも十分可能であった。

 

「っ!」グッ


 それが出来なかったのは、突如後ろ腕を強烈な力で引っ張られたからだろう。そう。振り返ればマスターがニヤリと笑いながら掴んでいた。


・・・・・・

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