あなたのつぼみ(3)

 いすずちゃんは学校に行く以外は完全に閉じこもっているらしい。

 一体どうしようか……


 私はいすずちゃんの部屋の前に立って、声をかけてみた。


「ねえ、ちょっとお話ししたいんだけど……いいかな?」


 するとややあって、中からポツリと声が聞こえた。


「……ごめんなさい」


「それはお話がダメって事?」


「それもあるし……この前、途中で出て行った事も……です。洗い物もしなくて、ゴメンなさい」


「そんな事は気にしなくていいよ。ねえ、この前の事……ちょっとした行き違いになっちゃったね? お話出来ない? 少しで充分なんだけど……」


 その途端、ドアの向こうのいすずちゃんの声が、はっきりと固くなった。


「……ちょっとした? それに、少しでって……あの時の言葉やした事ってちょっとした事だったんですか? それに少しの時間でどうにかなる、って思われてるんですか?」


 しまった……

 私は自分が失言をしてしまった事に気付いて焦った。

 って言うか、いすずちゃん……こんな指摘をして来るんだ。


「あのね……それは……」


「もうヤダ……勉強したいので、これで」


 それからは何度声をかけてもうんともすんとも言わなくなってしまった。

 ああ……やっちゃった。


 トボトボと職員室に戻り、矢野さん……二人のときはその呼び方でいい、と言われたので、に先ほどの事を報告すると、苦笑いを浮かべた。


「あのくらいの歳の子は難しいですね。大人と子供の狭間で、自分でも気付かない心の成長に戸惑っている」


 そうなんだろう。

 そして、それに加えて私たちはさらに厄介な事も挟んでいるのだ。

 そう思うとつくづくいすずちゃんに酷な事をしている。


「ゆっくりと行きましょう。最後に解決するのは僕や菅原先生じゃない。あの子自身の心の整理だと思います」


 ※


 施設の夜は静かで時間が長く感じる。

 高齢者や障害のある方の施設の夜勤は中核症状の影響で、精神的に不安定になりやすいため適時対応が必要になるが、児童に関しては比較的落ち着いている。

 もちろん時にはホームシックになったり、虐待を受けていた子の場合はフラッシュバックへのケアも必要ではあるが……


 そして、今もそんな心の傷を思い出したのだろう。

 小学5年生の女の子が廊下に出てシクシク泣いていた。

 綾瀬亜矢あやせあやちゃんだ。

 

 母親と義理の父親からの暴力とネグレクトによる虐待を1年間受けていた後、児童相談所の介入によって半年前からこの愛誠院に入ってきた。

 

 肩まで伸びた髪と眼鏡の似合う小動物のような愛くるしい容姿だが、普段は口喧嘩で歳上の男子も完全にやり込めるような賢さを持っている。

 そんな亜矢ちゃんだが、夜中になると時々酷く不安定になってしまうのだ。


 それに虐待の影響か男性や男子の接近、接触が全くダメなので、必然的に私が関わる機会が多く、今ではかなり心を開いてくれている。


 私は亜矢ちゃんを優しく抱きしめると、背中を何度も撫でる。


「大丈夫だよ。先生がついてるから。何も怖がらなくていいんだからね」


「先生……なんで私、一人ぼっちなの? パパ……いないよね? 怖い……」


「1人じゃないから。それにパパもいないよ。大丈夫。先生がいるだけだから……」


「先生……ずっと亜矢のそばにいてくれる?」


「うん、当たり前じゃん」


「先生、大好き……大好き」


「うん。私も亜矢ちゃんの事、大好きだよ」


「亜矢、先生の事困らせてない? わがまま言ってない?」


「こんなのワガママじゃないよ。亜矢ちゃんはいつもいい子じゃない。なんにも困った事なんてない」


「わがまま言わない亜矢の事、好き?」


「うん、好きだよ。いつも優しくてしっかりした良い子だもん」


「良かった。亜矢、先生にだけは絶対いい子になるから」


「うん、有難う」


 そう言って抱きしめていると、廊下の奥のほうで微かに物音がしたので見ると、いすずちゃんがポツンと立っていた。

 そして、何か言いたげな表情でじっと見ている。

 

 あ……


 声をかけようかと思ったが、今は亜矢ちゃんのケアが最優先だ。

 この子をほっとけない。

 

 私は亜矢ちゃんに意識を集中して、抱きしめ続けた。


「先生、いつもこうやってギュッとしてくれるから好き。この前みたいにもっと……抱きしめてね」


 え? 


「えっと……この前って?」


 すると亜矢ちゃんはチラッと視線を周囲に向けた後、恥ずかしそうに言った。


「あ、ゴメンなさい。亜矢、勘違いしてたみたい……怒ってない?」


「大丈夫だよ。この位で怒るわけないじゃん」


 ふと視線を向けると、いつの間にかいすずちゃんはいなくなったようで、また私と亜矢ちゃんだけの空間になる。


 それから少ししてやっと落ち着いたのか、亜矢ちゃんはニッコリと笑顔になると私から離れてぺこりと頭を下げて、部屋に戻っていった。

 落ち着いたようで良かった……


 一息つくと、私は念のためにいすずちゃんの部屋だけ見てから巡視の続きをしようと、何気なく窓の外を見て……ギョッとした。


 施設の中庭を外に向かって歩いていくのは……いすずちゃんだった。

 しかもパジャマ姿のまま。


 今は夜の11時。

 この変は最近不審者の目撃情報もある。


 何やってるの!


 私は懐中電灯だけ持って、急いで後を追ったが、走っていたのかいすずちゃんの姿は小さくなっている。


「いすずちゃん!」


 思わず声をかけると、小さな影はわずかに止まったように見えたが、そのまま裏山の方に走っていく。

 

 まずい……

 こんな夜中に……なんで!

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