あなたのつぼみ(2)

 あの日から2日経った。

 翌日に何とか熱は下がり、念のためもう一日休みを取って仕事復帰できるくらいには体調も戻ったけど……心は寝込んでいたときと同じ……いや、もっと酷い。

 駐車場に車を停めたまま、ため息をつきつつ中々施設に入れずグズグズとしている。


 子供じゃないんだから……


 自分に向かい内心、独りごちると意を決して車を出て施設に向かった。

 いすずちゃん、まだ怒ってるかな……

 でも、あの時どうすればよかったんだろう。

 いっそ……キスしちゃえば……


 私は勢いよく首を振った。

 それは出来ない。

 これ以上越えたら、きっと遠からず一線越えてしまいかねない。

 

 そうなったら、本当に後戻りできない。

 私の本当の事を黙っているわけに行かなくなる。


 私との事、弟との事、お父さんとの事。

 そして、同性で……大人と小学生で愛し合うと言うこと。

 私と深い関係になることで、あの子にどれだけの壁を与える事になるんだろう……


 考えろ。

 私とあの子は14歳差。

 いすずちゃんが18歳になる頃には私は32歳。

 しかも女性同士。

 その時になって「やっぱり止めた!」なんて虫の良いことを私もいすずちゃんも受け入れられるのか?


 全部全部分からない。

 その時になってみないと。

 でも、その時じゃ遅いんだ。


 そんな事を考えてながら歩いていると、施設の窓から「あ、楓! 復活しやがった!」と男の子達の声が聞こえる。


「誰が楓だって! 楓さんでしょ!!」


「ごめん、楓!!」


 そう言って楽しそうに笑う男の子に、拳を振り上げる真似をすると施設から、低学年の女の子達が駆け寄ってきた。


「かえで先生、お帰り!!」


「うん、ただいま」


「すっごく心配したんだよ! どうしたの! 死んじゃったかと思ったよ」


「ゴメンね。ちょっと風邪引いてたんだ」


「良かった、治ったんだ! あ、いすずも連れてくるね! いすずね、すっごく心配してたんだよ。後ね、すっごく泣いてたの」

 

 そう……なんだ。

 私は心臓をみっともないくらいにドキドキさせていた。

 やっぱ……怒ってる……よね。

 低学年の女の子達は、弾かれるように施設の中に入ると、やがていすずちゃんの手を引いてやってきた。

 でも、私と目を合わせようとしない。


「おはよ、いすずちゃん」


「……おはようございます」


 顔を伏せて目を合わせずにポツリと言ういすずちゃんを見て、自分の心がビックリするくらいにジクジクとうずくのを感じた。

 ああ……悲しいな。

 

 すると、女の子がいすずちゃんを見上げて、大きな声で言った。


「どうしたの、いすず! ずっと『かえでさんがいい』って泣いてたじゃん」


 え?

 ビックリしていすずちゃんの方を見ると、丁度私と目が合った。

 いすずちゃんは顔を赤くしながら慌てた感じで言った。


「あのね……違うの。お姉ちゃん、そういう訳じゃないんだよ」

 

「え~っ! そうじゃん。かえで先生! いすず、他の先生が出かけよって言っても、ずっと『かえでさんがいい』って泣いてたんだよ! ホントだよ!」


「あの……もう、いいから」


 しどろもどろになっているいすずちゃんに、私は言った。


「ごめんね……」


「……どうせ、子供だから。子供は手がかかるな、って思ってるんですよね」


「違うよ……そんな事思ってない」


 だけど、いすずちゃんは小走りで部屋に戻ってしまった。

 ああ……


 私はため息をつくと、職員室に入った。

 すると、中にいた先生達から口々に声をかけてもらった。

 本当に有り難い。

 お詫びのお菓子を配ると、矢野ホーム長が微笑みながら言った。


「体調は大丈夫ですか? 元気そうでよかった」


「はい、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」


「いやいや、僕ら職員は大丈夫。ただ……ね」


「……いすずちゃんの事ですか」


 ホーム長は苦笑いしながら言った。


「いやはや、お恥ずかしい。僕らではどうにも出来なくてね。まるで天岩戸あまのいわとでしたよ」


「……そんなに」


「二日前に帰ってきてからずっと部屋に籠もって泣いててね。心配した職員が代わる代わる声をかけてもずっと、菅原先生がいいと言ってドアすら開けなかったんですよ。あの聞き分けの良い子がね……」


「すいません」


「それは大丈夫です。……先生、ちょっといいですか?」


 そう言うとホーム長は私を相談室に呼んだ。

 何だろう……

 私は不安で息苦しさを感じた。


 あの話の出たタイミングで言われる事は一つだ。

 ひそかに不安には思っていた。

 いすずちゃんと私の本当の関係性……単なる先生と子供ではない、好意を伴うもの……に不信感を持たれた。

 

 不安に息苦しさを感じながら相談室に入ると、お互いソファに座った。

 そして矢野ホーム長は少し天井を見上げながら言った。


「菅原先生……ここからは独り言なんですが……僕は施設の子供たちはみんな僕の子供だと思っている。そして、ここで働く職員みんな……本気で守りたいと思っている」


「はい……」


「それはもちろん菅原先生といすずちゃんも同じです。僕の立場はそのためにある。つまり……僕はみんなを信じている。だから菅原先生も僕を信じて欲しい。すべて話せとは言わない。ただ、あなたといすずちゃんの関わりには僕の伺い知れないものがあるようだ。この前のいすずちゃんのお母さんとの面談……実はあの後、僕のところに『幸福の力』の代表と名乗る男性といすずちゃんのお母さんが来たんです」


「幸福の……力」


「20年前から急速に拡大している所謂いわゆる新興宗教ですね。そしてそこの荒田あらた代表とお母さんは、僕にいすずちゃんの引渡しと菅原先生の人事異動を暗に要求してきました。『あのような人の目があるところでは娘の精神的成長が不安だ』と言って」


 私は背筋に冷や汗を感じた。

 そんな事が……


「あの……ホーム長。あの代表は……」


「分かってます。菅原先生から報告を受けていますからね。荒田代表には未成年の女子に対する性的虐待の疑惑があるようだ、と言われてますね。ネット上の掲示板に留まっては居ますが。後、あのお母さんも代表に……言葉は酷く悪いが洗脳されている疑惑も感じる。なので、それとなく拒否しました」


「……ありがとうございます」


「これが名刺のコピーです。持っていてください。……で、そこに来て今回のいすずちゃん。お二人のつながりが他と一線を画するほど強固なのは知っているし、それは僕としては好ましいと思っています。ただ……隠されている部分が多いと、何かあった時にお二人を守れない」


「……はい」


「すべて話せとはいいません。ただ、支障の無い部分は共有したい。僕のエゴといわれればそうかもしれない。でも、お二人は特に配慮が必要かもしれない」


 矢野ホーム長は私の目をまっすぐに見ている。

 それはこの年代の男性にしては驚くくらい真っ直ぐなものだった。

 その瞳のせいだろうか……私は、話した。


 もちろんいすずちゃんとのお互いの気持ちについては言う事が出来ないが、私の父親の罪。

 そして、いすずちゃんの母親との関係性。

 いすずちゃんと私が加害者と被害者の娘である事。

 話せば、引き離されてしまうかも。

 その不安から言わずに伏せていたのだ。


「すいません、ずっと黙ってて……」


「大丈夫です。そうだったんですね。まあ、こんな事話せばいすずちゃんの担当どころか、この施設から異動になるかもしれないですもんね」


 ニコニコとしながら話す矢野ホーム長に私は驚いた。


「あの……驚かないんですか? それに……怒ったり」


「いえ、特には」


 そう言って矢野ホーム長は小さく笑った。


「あのですね、菅原先生。あまり僕を甘く見ちゃダメですよ。こう見えて僕とて結構色々と潜って来てます。こう言っては何ですが、伺った内容のレベルは……慣れてます」


 私はポカンとしてホーム長を見た。

 これで……驚かない。

 それと共に、私は自分の心の中が急速に柔らかくなるのを感じた。

 乾いたスポンジに水が染み入るように。

 この人なら……


 私は思わず頭を下げた。


「矢野ホーム長。それであれば……ぜひ力になってください。私には……いすずちゃんには……お互いが必要なんです」


「もちろんです。全力で支えますよ。ま、僕はなぜかいすずちゃんにはかな~り嫌われてるみたいなので、窓口は菅原先生にお願いしますが。後、今後、荒田代表や親御さんから何か動きがあったら逐一報告して下さい。虐待案件で県の重層支援センターに上げる準備もしておくので。ただ、気になるのが僕の名刺を持って行った事ですね。もう1枚は誰に渡すんだろう……」


「あ、私もそうでした……」


「ちょっと注意して行きましょう。あ、そうそう。色々話してくださったお礼に、僕もちょっと白状します」


「何ですか?」


「実はですね、荒田代表と話した後、こう思ったんです。『ふざけるな。二度とその面見せるんじゃねえ』って」


 ポカンとする私に矢野ホーム長はメガネの下の柔和な瞳をいたずらっぽく崩して笑った。


「さて、じゃあ次は我がホームに降臨している天岩戸を何とかしないと……どうしましょうね? 復帰早々すいませんが、ぜひご尽力お願いします」

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