あなたは空で、私は海

 身体が熱を持った泥のようになってベッドの中に沈み込んでいく。

 ぼんやりする頭に浮かぶのは、後悔ばかり。

 お父さんへの後悔。

 そして……いすずちゃんへの後悔。


 やってしまった……


 あれだけ私なんかで汚しちゃいけない。彼女だけは守らないと。

 そう思ってきたのに。

 世界の誰よりも私だけは。

 私だけはいすずちゃんを愛しちゃ行けなかった。

 加害者側である私だけは。

 彼女の憎む存在である私だけは。

 

 なのに愛して、汚してしまった。


「どうしよう……」


 いすずちゃんも私を「好きだ」と言った。

 その事実は私の心をまるで中学生のようにときめかせ、高揚させた。

 こうしている今も胸が心地よく暖かくなっている。

 そんな自分が嫌だ。

 熱のせいで余計に思考能力が無くなっている。


 こんな状態でもし私の正体がバレたら、いすずちゃんの心は壊れてしまう。

 私もそれに耐えられない。


 私は両手で顔を隠すといやいやするように顔を振った。

 でも現実は変えられない。

 もうおしまい、全部おしまい。


 熱がある中でアレコレ考えたせいだろうか。

 いつの間にか眠っていた私は酷い喉の渇きで目が覚めた。


 全然飲んでなかったな。

 お腹は空いてないけど、飲み物は飲みたい。

 汗も凄くかいちゃったし。


 フラフラしながら冷蔵庫を開けると、何も入ってなかった。

 しまった、家に帰る前に何か買っとけば良かった。

 どうしようかと思ったけど、喉の渇きを我慢できそうに無かったのでアパートから20メートルほどの場所にある自販機の存在を思い出した。

 今日は日曜だから人が多いかな……

 シャワーも浴びずに人前に出るのは嫌だったけど仕方ない。

 黒のハーフパンツと無地の白いTシャツという色気も何もない格好だけど、人前に出るにはギリギリ行けるだろう。 


 そう思いながら外に出て、フラフラしながら歩くとはるか向こうの自販機の前で女の子がせっせと飲み物をビニール袋に入れているのが見えた。

 あれは……

 

 私はハッと気付くと、慌てて回れ右をした。

 あの子……いすずちゃんだ!

 ってか、なんでここに!

 いや、そんな事はどうでもいい。

 今の自分の姿……


 Tシャツと膝上のハーフパンツ。色気も何も無い。

 汗ビッショリで……臭いかも。

 髪もボサボサだし、化粧だって……


 こんな格好で会いたくない。

 

 そう思い、小走りで戻ろうとした時。

 頭がクラッとしてしまい、そのまま思わずしゃがみ込んでしまった。

 すると、後ろから「楓さん!」と声が聞こえると、いすずちゃんが駆け寄ってきた。

 ああ……


「大丈夫ですか!? 立てますか!」


「大丈夫、大したことないから」


「でも、しゃがみ込んじゃってるじゃないですか! 何で出歩いてるんです!」


 いすずちゃんの強い口調に、まるで先生に怒られている生徒のような気持ちになって「ご免なさい」とポツリと言った。


「いいんです……でも、あまり心配させないで下さい。飲み物買いに来たんですか? 熱でお休みって聞いて心配になって……飲み物も買ってきました。後、厨房をお借りしてカットフルーツを……そしたら厨房の伊藤さんがヨーグルトも持たせてくれて」


「……ありがと。後は大丈夫だからもう……いいよ。帰ってもらって大丈夫だから」


 そう言うといすずちゃんは唇を尖らせて、私の手をギュッと握り、引っ張るように歩き出した。


「はい、わかりました。なんて言うとでも思ったんですか! ご飯くらい作ります。熱有るのにフラフラ出歩いてる人をそのままには出来ません」


 ※


「……ゴメンね。何から何まで」


 部屋に戻ってベッドに横になった(正確にはさせられただが……)私は、ぼんやりと視線を動かしながらポツリと言った。

 いすずちゃんは作ったばかりのお粥を装うと、ベッドまで持ってきてくれた。

 見ると、卵まで入っていて隣の小皿には梅干しまで乗っている。

 

「あまり上手じゃないから……口に合わなかったらごめんなさい」


 そう言って頭を下げるいすずちゃんに私はブンブンと首を振った。


「ううん、すっごく美味しそう。私、お腹空いてたんだな……って思い出した」


 そう言いながらお粥を口に入れると、お粥と卵の自然な甘さが身体に染み渡っていくようだった。


「……美味しい。これ何杯でもいけそう。お代わりってあり?」


 いすずちゃんはそれを聞くと、可笑しそうに笑った。


「なんですか、それ。楓さん、子供みたい」


「え!? だ、駄目だった……かな」


「ううん、意外な一面を見れました……可愛い」


 エプロン姿で口を押さえながらクスクス笑ういすずちゃんは、年齢よりもずっとずっと大人びて見えて、急に恥ずかしくなった。


「ゴメンね……汗臭いでしょ? 髪もボサボサだし。こんなんでいすずちゃんに会いたくなかったんだ……さっき」


 うつむいてポツリと話していると、突然頬を軽くつねられたのでビックリして顔を上げると、いすずちゃんがムスッとした表情で見ていた。


「熱あるんだから当たり前です。それに、私は楓さんの見た目を好きになったんじゃ……ないです。だから、どんな風でも好きなんです」


 ああ……なんて真っ直ぐなんだろう。

 そう。

 彼女は、あんな母親の元で育ち、ネグレクト同然の扱いを受けてもなお真っ直ぐだ。

 健やかに真っ直ぐ。

 そんないすずちゃんを見ていると、自分の曲がった部分にも光が当たって居る気がする。 それはとても心地よかった。


 ああ……私、この子が……好きだ。


「好き……」


 思わず口から出してしまったあと、慌てた私を優しく見つめていすずちゃんは言った。


「私も楓さんを愛してます。どんな楓さんでもです。だから、私を信じて下さい。楓さんをもっと見せて下さい」


 私はゆっくりと首を振った。


「私を知ったら……いすずちゃんは嫌いになる」


「絶対になりません。世界のみんなが楓さんを嫌いになっても、私は最後まで大好きです。大人になっても、おばさんになっても、おばあちゃんになっても。ずっとずっと好きです。だって、楓さんは私に未来を見せてくれたんだから。楓さんと出会って初めて、未来が楽しみに思えたんです」


 いすずちゃんは私をじっとみると続けた。


「初めて、誰かとずっと一緒に歩いて行きたい、って思ったんです」


 熱で心が弱っているせいなのか。

 私は目の前がぼんやりして、涙が出そうになった。

 

「ごめんなさい、体調悪いのにしゃべらせちゃって。横になって下さい。まだ食べれそうですか?」


「お腹空いた……」


「ふふっ、じゃあ食べさせてあげます」


 それからまるで子供のようにいすずちゃんにお粥を食べさせてもらうと、そのまま眠りの中に落ち込んだ。

 そして身体や頭に感じる心地よいヒンヤリとした感触に目覚めると、アイスノンや冷えピタが貼られていて、いすずちゃんが首元を拭いてくれていた。


「あ、起きたんですね。良かった……元気そう。本当は身体の方も……拭きたかったんですけど……さすがに」


 恥ずかしそうに話すいすずちゃんに、私はニッコリと笑って言った。


「大丈夫だよ、有り難う。かなり元気になってきた」


 横になって汗がさらに出たせいだろうか、身体がかなり楽になってきていた。


「ホントですか! 良かった……」


 ホッとした表情で瞳を潤ませているいすずちゃんを見ていると……まるでお日様のように見えた。

 私のお日様……

 そう思った時、ふいにお父さんの顔が浮かんだ。

 

 ちょっとだけ。

 ホンのちょっとだけ、いすずちゃんに甘えたい。

 いすずちゃんの「信じて」を信じたい。


「さっきの男の人……私のお父さんだったの」


「え……」


 キョトンとするいすずちゃんに向かって私は続けた。


「昔、許されないことをしちゃったの。で、相手の人をかばって全部の罪を被って。お陰で私も弟もお母さんもずっと辛い目に遭ってきた。それを許せなかった。だからあんな事を……言っちゃった」


 本当の事は全て話せなかった。

 でも、こんな一部をぼかした言い方でも、口に出すと救われる。

 

「お父さんは私や弟の事をずっと愛してくれていた。でも、そんなお父さんを私は捨てた。今になって後悔してる。でも……もう会えない」


 そう言うと私は目を閉じて横向きになった。

 心はスッとした。

 でも……たまらなく悲しかった。


 すると突然、背中に暖かい感触がした。

 いすずちゃんがベッドに入ってきたのだ。

 そして私の背中にくっついている。


「会いましょう、お父さんに」


「……無理だよ」


「ううん、楓さんなら大丈夫。楓さんは強くて優しい海みたいな人ですから。お父さんを探す方法、一緒に考えませんか? 楓さんには絶対にお父さんに会って欲しい。そして……仲直りして欲しいんです」


 いすずちゃんの温もりが背中に伝わる。

 すると、不思議だけど全てが上手くいくかも、と思えてきた。


 強くて優しい海か……

 じゃああなたはまるで大きな空だ。

 空の光があるから海は青いし綺麗にもやさしくもなれる。


「……一緒に、探してくれる?」


「はい。一緒に」

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