楓といすずと雨の部屋(3)

 いすずちゃんは頬を桃色に染め、潤ませた瞳をハッキリと見開いたまま私を見ていた。

 両手は私のシャツのお腹の部分をしっかりと掴んでおり、目線はハッキリと何かを決めたみたいに、私から離れなかった。


「あ……あ……」


 私は恥ずかしいくらいに狼狽えていた。

 さっきまで心地よかった雨音が、今はたまらなく心をざわつかせる。

 

 どうしよう、どうしよう……聞かれちゃってた。

 落ち着いて、楓。

 落ち着い……


「えっと……ね、いすずちゃん。さっきのは……さっきの言葉だけど……」


 最近、流行ってるラブコメのドラマがあるじゃん?

 そのセリフにこんなの無かったけ?

 私、ずっと彼氏もいないからさ、そういうの時々ポツリと言っちゃうんだよね!

 ホント、年考えろって……


 そんな言葉が浮かび、私はそれに縋り付こうとした。


「楓さん……好きです」


「え……え?」


「ずっと、好きでした。先生としてじゃないです。女性として好きです。楓さんもですよね? 言って……くれたんだから」


 頭がクラクラする……

 いすずちゃんも……私を? 好き?

 そんな……そんな……


「駄目……駄目」


「何でです……子供だから? じゃあなんでキス……って?」


「あれは……ほら、ドラマで……」


「『冗談でした』なんて言わないですよね? 楓さんはそんな軽い人じゃ無い。私だって……軽くないです」


 駄目だ。どうしよう……

 気が動転している私の中にいすずちゃんの仄かな香りが入ってくる。

 肩に当たっているいすずちゃんの胸元から激しい心臓の鼓動を感じる。

 それは私の中の何かを狂わせ始めていた。


 外の雨は激しさを増している。

 それは雨の部屋の中に2人だけ閉じ込められたような……

 世界に私たちだけしか居ないような。


 私はいすずちゃんの目を見ながらポツリと言った。


「いすずちゃん……頬……濡れてるね? 私、泣いてたから……」


 いすずちゃんは私をじっと見ている。

 それはまるで私の言おうとしている事を分かっているかのようだ。


「綺麗に……してあげるね」


「はい……」


 いすずちゃんは頷くと首を僅かに傾けた。

 涙に濡れた彼女の頬を見ながら、私はそっと唇を近づけた。

 これはキスじゃ無い。

 いすずちゃんの頬を……綺麗にするだけ。


 私はいすずちゃんの頬にそっと唇をつけると、舌先でそっと涙を舐めた。

 それは仄かな塩の味がした。

 熱い……

 彼女の頬は信じられないくらいに熱かった。

 その熱に脳の奥まで痺れるような感じになって私は二度、三度と唇をつけて……舌を這わせる。


 いすずちゃんが私のシャツを握りしめているのが分かる。

 顔は桃色を通り越して、真っ赤になっていた。

 

 唇を離して吐息を漏らした私は、突然冷静になった。

 冷静になって……ゾッとした。


 これ以上は……駄目。


 私を見つめるいすずちゃんの瞳は潤んでいるだけで無く、その奥に……見たことの無い別の光があった。 

 よく分からないけど、このまま進んだらマズい。

 そんな不安を感じさせる様な光だった。


「今度は……私……」


 そう言いかけたいすずちゃんの頬を私はそっと撫でた。

 そして優しく、でもキッパリと言った。


「もう……綺麗になったね」


 いすずちゃんは瞳を半開きにして、唇を僅かに開けたまま私をじっと見ていたが、少しの後ゆっくりと頷いた。


「有り難う……ございます」


 そう言うと、いすずちゃんは突然私の鼻先にキスをした。

 驚いて目を見開いた私にいすずちゃんは微笑みながら言った。


「涙……ついてました」


「有り難う」


 それから私たちは雨が止むまでの間、何もしゃべらずに肩を寄せ合っていた。

 そして雨が止むとお互いに見つめ合ってニッコリと笑い合うと、手を繋いで建物を出た。


 ※


 いすずちゃんと末社を出て施設に戻ると、早番だった私は退勤時間になっていたのでバッグを持つとタイムカードを押して職員室を出たが、疲れ切っていて頭の芯が妙に熱かった。

 

「菅原先生、さよ~なら!」


 高学年や低学年の男の子が手を振るのを見て、私も笑顔で手を振り返す。

 その中にいすずちゃんの姿も見えたが、なぜか手を振らずさよならも言わず、恥ずかしそうに微笑むだけだったので、私も微笑みかえして職員用の裏口から出ようとした。

 すると、後ろから物音がしたので振り返るといすずちゃんが立っていた。


「いすずちゃん……」


「……ちゃんと挨拶したかったから」


 そう言うと、いすずちゃんは私に近づいてギュッと抱きつくと、私の胸に顔を埋めた。

 だ……誰も見てないよね?

 慌てて周囲を見回す私に構わず顔を上げたいすずちゃんは「お疲れ様でした」とニッコリと笑って言うと、小さく手を振った。


 その笑顔は今までのいすずちゃんと変わらないもので、安堵しながら手を振り返した。


 そして、アパートに帰った私は疲れ切って、そのままベッドに倒れ込んだ。


 身体の芯から何かがまとわりついてるような疲労だった。


 そのまま夢も見ずに眠り込んだ私はその夜、酷い熱を出し翌日の仕事を休んでしまった。

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