星の間を駆けるだけ(6)
百合さんはきびきびとした、だけどどこか神経質そうにスカートやジャケットをしきりに整えながらソファに座った。
急いでいる事もあるのだろうが、それにしても何にそんなに不安がっているんだろう……
「いすず、学校はどう? ここの生活には慣れた?」
「あ……うん、愛誠院は楽しいよ。先生もいい人ばかりだし。学校も……大丈夫」
いすずちゃんは顔を伏せたままポツリポツリと話す。
元々活発な話し方をする子じゃなかったけど、今は特にどこか……萎縮しているように感じられた。
「そう。なら良かったわ。先生、いすずの様子はどうですか?」
「はい。学校では成績優秀です。特に国語と算数に強い興味を持っているようで、これらの科目は学年でも頭一つ抜けています。愛誠院では年下の子供たちのお世話や教職員の補助を率先して行うなど、私どもが心配になるくらい日々頑張っています」
百合さんは私やいすずちゃんの話すことを逐一メモに取りながら聞いていたが、それが終わると早口気味に言った。
「そう……なら良かった。これからも頑張りなさいね。自分の身を守るには頼れる味方を多く持つ事と学力だから。それでいい会社に入りなさい。そうすればお金も稼げる。そうすれば自分を守れるようになるから」
「うん、分かった。そうする、ママ」
百合さんはそれを聞いて初めて笑顔で頷くと、いすずちゃんに言った。
「でね、いすず。今日あなたに会いに来たのは、最初に言ったように大切なお話しがあるの。実はね……ママ、今凄く信頼している人たちが居るのよ。その人たちは、誰もが持っている不浄な物……お金なんだけど、それを渡す代わりに私たちに清らかで真の平穏を与えてくれる。そんな凄い活動をしている人たちなの。あなたにも何度も言ったけど、ママも昔酷い目に合わされて誰も信じられなくなった。でも、その人たちはママの全てを受け入れてくれた。ありのままの自分で良いって。だから凄く信頼してる……ほら、あなたがまだこの施設に入る前、代表の方にお会いした事あったでしょ? 落ち着いた優しい男性」
「あ、あの……星野さん。一度に話してもいすずちゃんも混乱します。すいませんが……」
私がたまりかねて制すると、百合さんは不満げにため息をついて続けた。
「それもそうですね。じゃあ結論を言うと……いすず。ママと一緒に来なさい。その人たちを束ねる頼れる方がいらっしゃるんだけど、さっき話した方。その方に改めて最近のいすずの写真を見せて、あなたの事を話したらすっごく気に入って下さってね! あなたと一緒だったら私を特別な待遇にしてあげる、って。ね? あなたもママと暮らしたいでしょ? だって親子だもん」
それって……
私は内心の動揺を隠しながら、横目でいすずちゃんを見た。
賢い彼女も同じく理解したようで、表情が硬くこわばっている。
それは……絶対ダメだ。
私は児童養護施設における親子分離の要否の用件を思い出した。
これは、法で定められた親の元からの子供の一時引取りを可能とするための要件で、その一つに「在宅では子供の心身の発達を阻害する」と言う項目があった。
百合さんは明らかに新興宗教の施設に彼女を連れて行こうとしている。
内容は分からないが、あきらかに不穏すぎる。
私はそっとポケットのボイスレコーダーを触った。
保護者との面談時、私達はみんな必ず密かにボイスレコーダーを用いている。
もちろん自分達や子供を守るためだ。
他に「子供が宗教を選択する能力を自ら身に着けるまでは、特定の宗教を強制されない」と言うのもあった。
だが……これも、逆を言えばいすずちゃんが自らの意思で百合さんについて行きたい。百合さんと同じ施設で暮らしたい、と言ったらもう私に出来る事はない事も意味している。
私はいすずちゃんを見た。
いすずちゃんも私の顔を見ている。
顔色は真っ白で唇が震えているのが分かる。
私はいすずちゃんに微笑みかけると、百合さんに向かって言った。
「それは……宗教施設に彼女を連れて行く、と言うことですか?」
「……なんで先生にそんな事言わないと行けないんですか?」
「事実確認のためです。書類にまとめるのに必要なので」
「そんな書類が本当に必要なんですか? 根拠は?」
「星野さんがそうだと言うわけでは決してありません。ただ、最近児童相談所の案件になるような出来事が多く、それがあると子供や保護者様の不利益になるので、その防止として」
「……それは、私がいすずを虐待してると言うの? 宗教の強制で」
「そのような事は一言も言ってません」
「あなた、会話を録音してるわね。そういう人ってしゃべり方が共通してるからすぐ分かる」
「いえ、そのような事は決して。ただ、いすずちゃんはあなたと会える、と分かった最初の反応は……喜びでした。星野さんはいすずちゃんにとって大切な母親なんです。だから、その気持ちを大切にして頂ければ」
「だからここに来たんじゃ無いの?」
「私がこんな事を言う立場では無いかも知れませんが……人の心にはすべからず時間が必要では無いでしょうか? いすずちゃんの人生に関わる重要な決断を迫るのであれば、重要な決断を迫るのでは無い……親子としてどこかに遊びに行ったり、一緒にゆっくりと近況を話したり。そんな親子としての時間を毎月1回でも定期的に彼女に過ごさせてあげてもいいんじゃないですか?」
私は百合さんの顔を見ながら続けた。
「星野さんは母親なんです。焦ることはありません。養護施設の子供は親の愛から引き離され、心がフワフワと浮かんでいます。それをしっかりと繋げるまで……せめて高校生になるくらいまでは大事な決断は待っても良いのでは無いでしょうか」
私は話しながら自分が非常に危ない橋を渡っているのを感じた。
百合さんは今、私を敵と思い始めてる……
これ以上深追いしたら……でも、こうしないといすずちゃんを守れないような気がする。
百合さんは左手で反対側の爪をしきりにむしっていた。
そして無表情で私の顔を見ると、今度は笑顔でいすずちゃんの方を見た。
「いすず、あなたはどう思ってるの? 怒らないから正直に聞かせて。この先生が良いの? ママがいいの? 正直に言って」
「星野さん、そういう選択は子供にとって負担に……」
「あなたは黙ってて。ねえ、いすず? ママに教えて。大好きなあなたの言葉を聞きたいの。あの悪者に酷い目にあって、その悪者の家族からもどれだけ辛い目に遭わされたか、話したよね? あの家族のせいでママは普通じゃ無くなっちゃった。それであなたもママとお別れすることになったの。ママと一緒に来て。それでいつか一緒に……あの家族をやっつけよう。お約束したよね?」
百合さんの波のように押しよせる悪意……お父さんや私たち家族へのどす黒い悪意が私の心臓をギュッと締め付ける。
やっぱり、憎んでたんだ。それも特大に膨らんだ形で。
落ち着くんだ、楓。
今は……だめ。いすずちゃんのためにも冷静に。
でも……ああ……いすずちゃんの顔が見れない。しっかりしろ、楓!
そう思いながら自分を奮い立たせたとき、いすずちゃんの言葉が聞こえた。
「うん、ママ……お約束は……忘れてない。私もあの人たちは大嫌いだよ。ママがこんな目にあったのはあの人達のせいなんだよね?」
「そう。さすが賢い子ね。全部あの家族が悪い。ママを酷い目に遭わせて、そんなママを笑いものにして……あの家族の冷たい視線は忘れない。ね? だからママと……」
「ゴメンねママ……もうちょっと……時間が欲しい……高校生になるくらい……まで。菅原先生が言ったように」
その時、百合さんの表情が引きつったのが分かった。
いすずちゃんを混乱と怒りの混じった目で睨み付ける。
「それは……隣の先生が言ったから?」
「ねえ、ママ……私、ママの事大好き。この前だってママから会おうってライン来たとき、泣いちゃいそうなくらい嬉しかった。でもね……まだ、ここと……菅原先生とお別れしたくない。私にとって菅原先生は北極星なの。迷ったときお空の沢山の星の間を駈けて駈けて……そしていつも目指してる。今まで迷いそうになったときも、菅原先生を目指してたら、何も怖くなかった」
「いすずちゃん……」
「私、将来菅原先生みたいな大人になりたい。だからここでもっと生活したいしお勉強したい。ママの言う施設じゃお勉強できないし、菅原先生に会えない……それは……嫌なの」
「いすず……何を……」
「嫌なの! 菅原先生が大好きなの!」
いすずちゃんは泣きながらそう言うと、私にしがみ付いてきた。
私は駄目だ、と思いながらも涙をこらえていすずちゃんの背中に手をまわした。
百合さんは、そんないすずちゃんを呆然と見た後、ポツリと言った。
「もう時間になっちゃった。ママ、もう行くね。ママ……とってもがっかりした。あなたはもっと優しくて賢い子だと思ってた。いいえ、今でもそうなんだよね? でも……変な人にたぶらかされちゃったんだよね」
そう言いながら私を視線で殺しそうなほどの表情で睨んだ。
「あなた……名前を教えてもらえない?」
「菅原……楓です。何かご不明点有ればお渡しした名刺の番号にお問い合わせください」
「名刺、もう1枚……いいえ、もう2枚頂けないかしら?」
私は言われるままに名刺を2枚渡すと、百合さんはそれを受け取りバッグに仕舞うと立ち上がった。
「じゃあこれで失礼します。またね、いすず。……菅原先生も……また」
「本日はお忙しいところ有り難うございました」
立ち上がってそう言いながら、私は背筋が冷や汗でビッショリになってるのを感じた。
あんな……憎悪に満ちた表情を向けられたのは初めてだ。
お父さんの事件の後でも記憶に無い。
車に乗って施設の門を出ていく百合さんを見送った後も、私は汗が止まらず深々と息を吐いた。
でも……何はともあれいすずちゃんを守れた。
私の正体もばれなかった。
それでいい。
今は……それでいい。
「楓さん、本当に……有り難うございました。私……最初にママの宗教施設の代表さんにお会いした時……凄く嫌な……気持ち悪い目で全身じろじろ見られて……それがどうしても浮かんじゃって……」
「そっか……辛かったね。そして……さっき、よく頑張ったね。あなたはとっても強かった。自分一人できちんと戦ったんだよ。いすずちゃんは」
「ううん。楓さんがいたから戦えた。1人だったらママと一緒に行ってた。楓さんとなら凄く強くなれるんです。楓さんも辛かったのに……甘えちゃった」
深々と頭を下げるいすずちゃんに私はニッコリと笑って、頭を撫でた。
「何言ってんの? 一番大変だったのはどこの誰? 頭なんて下げなくて良いから、かき氷一緒に食べよ? 実は面談の前にこっそり厨房のおばちゃんが提案してくれてたの。面談の後の子には必ず出してもらってるんだよ」
「え、そうなんですか! やった!」
「私もすっごく楽しみ。シロップ、いすずちゃんは何が好き? 私はレモン」
「私は……イチゴです!」
「良かったら、途中で交換しない?」
「はい!」
「よっし! じゃあ戻ろうか? この北極星に着いて来なさい! かき氷のある所に導いてあげるから」
そう言うと、いすずちゃんは笑いながら頷いて私の横に駆け寄った。
「これからも……こうやって歩いてくれますか?」
「もちろん。いつでもいすずちゃんの先にいるからね」
私といすずちゃんは笑顔で頷き合うと、施設に……私たちの家に向かって歩いた。
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