何もしらない少女
「お帰り、いすずちゃん」
私は偶然見つけた風を装い、いそいそと建物の外に出て彼女を出迎える。
「あ、楓さん。ただいまです」
いすずちゃんは足を止めて、私を見るとニッコリと微笑んで頭を下げる。
「学校は平和だった?」
「はい、今日も楽しかったです。あ、でも……体育の授業で転んだときに手を突いちゃって、手首が痛いかな……くらい」
「え! 捻挫? ちょっと見せて。ひどかったら病院行かないと」
「有難うございます。でもズキズキするけど、動かせないほどじゃ……」
「ダメよ! そういうのをほっとくと痛みが残るから。私もそれでひどい目にあったんだからね。ちょっと保健室に行きましょう」
「でも……楓さん、遅番ですよね? 今から夕飯の準備とか……」
「食事は他の指導員がいるから。あなたの身体は代わりなんか無いんだから。たまには甘えなさい」
いすずちゃんは右手を押さえながら、恥ずかしそうな顔でぺこりと頭を下げた。
「有難うございます。じゃあ、甘えちゃいます」
そんないすずちゃんを見ながら、私は胸がジンワリと暖かくなるのを感じた。
彼女と保健室に入り、手首を見ると少し腫れていたので応急処置でシップと包帯を巻く。
「明日になっても痛みが引かなかったら教えてね。病院行きましょう」
「有難うございます。たぶん大丈夫だと思いますから」
「あなたに任せるとこっちに気を使うからね。私が見て判断するわ」
「すいません。保育士さんや指導員の皆さん、いつも急がしそうだからつい……」
「大人には甘えなさい。特に私たちはあなたたちの親代わりなんだから」
そう言って頭を軽くぽんぽんと叩くと、いすずちゃんは視線を逸らしながら、どこか照れくさそうに頭を下げる。
こういうとき、いつもギュッと抱きしめたい衝動に駆られて嫌だ。
いすずちゃんは私の正体を知らない。
自分の母親の心をずたずたに引き裂いて、一生消えない傷を残した極悪人。
その実の娘が目の前にいるなどと夢にも考えていないだろう。
私が彼女のことを知ったのは4年前。
当時大学で児童福祉を専攻し、卒業後は児童養護施設で働こう。
これなら一生かけての罪滅ぼしになる、と考えて実習のため数箇所の養護施設に出向いていた頃だった。
その内の一つが今の施設だが、そこの児童名簿を見て鳥肌が立った。
星野いすず。
それだけならたまたまと思ったけど、保護者の名前が明らかにパパがわいせつ行為を働いたという取引先の女性だったし、何よりいすずちゃんを始めてみたとき。
裁判の場で見た女性……パパの被害者である星野百合さんにそっくりだったのだ。
職員室で1人で居たとき、いすずちゃんのファイルを見ると母親の写真があり、間違いなくあの裁判所の席に座っていた星野さんだ。
それから私は迷わず卒業後の勤め先に愛成院を選んだ。
まさに天の配剤と思った。
これなら罪滅ぼしが出来る。
パパの事件の被害者の娘。
それなら、この真綿で口を閉められるような、ぼんやりとした罪悪感も抜けるだろう。
彼女と同じ施設で働き、トコトン彼女の助けになろう。
私にとって最も確実でかつ負担の少ない償いに思えた。
もちろん彼女への許されない思いと共に、墓場まで持って行こうと思っている。
施設の一日の中で最も騒がしくなる時間。
それは芸能人やスポーツ選手の慰問を除けば、間違いなく夕食の時間だった。
この対応のお陰で遅番の人気は下がる一方なのだけど、私は好きだ。
なぜならエプロン姿のいすずちゃんがいそいそと配膳や小さい子の対応をしてくれている姿を見られるからだ。
自分もまだ子供と言ってよい歳なのに、私たちに近いくらいに動いてくれている。
「いすずちゃん、無理しなくていいよ? 疲れたでしょ。まして手首をひねってるのに」
私の言葉にいすずちゃんは笑顔で首を振る。
「有難うございます、心配して下さって。でも平気です。出来る事はしたいから……」
そう言っているいすずちゃんに4~6歳の子供たちが「お姉ちゃん、こっちにす~わ~ろ!」と、可愛らしいイントネーションで声をかける。
「はいはい、もうちょっと待っててね」
まるで母親のような口調でそう言うと、配膳があらかた終わったのを確認すると、私たちにぺこりと頭を下げて、幼児たちの席に座った。
私はそんな彼女をひそかに目で追いかける。
将来どんな男性と付き合うか分からないけど、ラッキーどころじゃない。
宝くじ当選みたいだな……と、考え深々とため息をついた。
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