【完結】僕とオレンジ(作品230729)
菊池昭仁
僕とオレンジ
第1話
白い診察室が今日はやけに広く感じた。
重い沈黙を破り、谷田貝医師は言った。
「検査の結果、末期の肝臓ガンでした。
他の臓器にも転移しており、残念ですが手術は・・・、出来ません」
私は誰が末期ガンなのか? 誰に対する告知なのか? それを理解することが出来ずにいた。
まるで他人事のように。
そしてようやくその意味を理解した私は谷田貝医師に訊ねた。
「先生、あとどのくらい・・・、ですか?」
「それは私にもわかりません。5年大丈夫だった患者さんもいれば、そうでない人もいらっしゃいます。
実際、人間の余命は我々医者にも大体の事しかわかりません。
このデータの数値がいくらだからこうだというお話ではないのです」
谷田貝医師は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「緒方さん、ご家族はいらっしゃらないんでしたよね?」
「ええ、両親はすでに他界し、8年前に妻とは離婚して、それ以来家族とは音信不通になっています。今、どこに住んで、どんな生活をしているのかもわかりません」
「ご兄弟は?」
「妹がひとりおりますが、色々と迷惑を掛けてしまい、今は疎遠になっています」
「そうでしたか。いずれにせよ、痛みが激しい時はいつでもおいで下さい。 出来るだけのことはしますから」
「ありがとうございます」
谷田貝医師は慈愛に満ちた表情で私に言った。
「病気が治って退院していく患者さんを見ると、医者になって本当に良かったと思いますが、こんな時は自分が医者であることに対して、複雑な気持ちになります」
「別に先生が悪いわけではありません。私は医者ではありませんが、人は病気や事故で死ぬのではなく、それが神様がお決めになった寿命だと信じています。
私の寿命がそれだけだったという事でしょう。
今まで色々とお世話になりました」
いつの間にか私は涙を流して嗚咽していた。
それは酷く冷たい涙だった。
先生は私の手を握ってくれた。
「緒方さん!」
谷田貝先生も、看護師さんも泣いてくれた。
「先生が私の主治医で本当に良かった」
私はハンカチで涙を拭うと深く一礼をして、何事も無かったかのように診察室を出て行った。
診察を待っている老婆が、私を哀れむような目で見ていた。
放心状態のまま、私が大学病院の燃え立つような銀杏並木を歩いていると、バーバリーのマフラーを首に巻いた、女子高生とすれ違った。
40年前、私はこの女子高生のような美しい女の子に恋をした。
私が「オレンジ」と名付けたその彼女は今、どうしているだろうか?
私にはオバサンになったオレンジを想像することが出来なかった。
私とオレンジは、青春のすべてを賭けて愛し合った。
(オレンジ、今、君は幸せなのか?)
秋晴れの突き抜けるような青空の下、私はオレンジの面影を抱いて、黄色い落葉の舗道を駅へ向かって歩いて行った。
第2話
私は駅へ続く道を歩きながら、ふるさと富山を思い出していた。
立山連峰は手編みのセーターのような紅葉を纏い、富山の冬が躊躇いがちに足音を忍ばせ近づいて来る、そんな晩秋の日のことを。
そこで高校三年生だった私は進学も就職も考えず、喫茶『都』でのバイトに明け暮れていた。
私の通っていた高校は、地元では名の知れた進学校だったので、同級生たちは少しでも偏差値の高い大学に入たるため、血眼になって受験勉強に励んでいた。
だが、私にはそれが理解出来なかった。
いい大学に入って、医者や弁護士、安定した公務員や大手企業に就職し、モデルのように美しい女性と結婚してしあわせな家庭を築く。
それが「幸福な人生」だと人は言う。
でも私はまだ、人生の目的が定まってはいなかった。
人は何のために生きるのだろうか?
親友の黒田は言った。
「緒方、おまえは成績がいいんだからさあ。取り敢えず東京の有名大学に入って、それから将来のことをじっくり考えればいいんじゃねえか?
いっしょに行こうぜ、東京に」
黒田以外、私を心配してくれる奴はいなかった。
競争相手が少しでも減ることは、寧ろ彼らにとっては都合が良かった。
「バカなヤツ」
私は陰でそう囁かれていた。
幸福に生きるということは、安心して生きるということなのだろうか?
カネがあれば人生の成功者なのだろうか? 人の評価はどれだけカネを持っているかで決まるものなのか?
私はそんなことをぼんやり考えてばかりいる、青臭いガキだった。
父はそのお手本のような人生を送って来た人だった。
日本の最高学府を出て、大手都市銀行に就職し、才色兼備の母と結婚し、そして私が生まれた。
平和で安定した暮らしが続いていた。
ところが、その順風満帆の父の人生が大きく狂い始めた。
それは私が中学2年生の時だった。その日はめずらしく、父はかなり酒に酔って帰宅した。
「来週から富山に転勤だから準備しておいてくれ」
母は聡明な人だった。
「あら素敵、北陸って一度は住んでみたかったのよ。
お魚も美味しいし、美味しいお店もたくさんあるんでしょう?
楽しみだわ」
「単身赴任でいいよ、潤のこともあるし。お前たちはこのまま東京で暮らせばいい」
「そうはいかないわよ、あなたばっかりズルいじゃないの? そうはさせませんからね? うふふ」
「都落ちだぞ?」
「そんなの考え方次第よ。出世だけが人生じゃないわ」
そして私たち家族は富山へやって来たのだった。
銀行の派閥抗争に敗れた父は、報復人事を受たのだった。
最初は酷く落ち込んでいた父だったが、ついに富山に家まで建ててしまった。
それは東京へ戻ることも、海外赴任の道も諦めたということを意味していた。
母はいつも楽しそうだった。
庭には野菜や花、果物を育て、父とふたりで石窯まで作り、休日にはパンやピザを焼いてくれた。
「潤、ほら見てごらんなさいよ、このトマト。このいい匂いは東京のスーパーじゃ味わえないわ」
母はそう言って、私にもぎたてのトマトを手渡してくれた。
「食べてごらんなさい、甘くておいしいから」
「このままで?」
「もちろんそのままでよ」
私はガブリと艶やかなトマトを丸齧りをした。
口いっぱいに広がるトマトの甘酸っぱさは鮮烈だった。
「ねっ? 美味しいでしょう? 来年はトウモロコシも植えちゃおうかしら?」
私たち家族はこの北陸の地方都市をすっかり気に入ってしまった。
「いいか潤、目的もないまま大学に入って就職してもこんなもんだ。
人生は勝ち負けじゃない、いかにしあわせを感じる心を持つかなんだ。
所詮、偏差値なんて100個の計算問題を82問正解する奴と、62問正解する奴の違いしかない。
そんなに大差はないんだよ、人の一生なんてものはな?
焦ることはない、大切なのは後悔しない人生を生きることだ。
人生は短いというが、青春は長い。それはこれからの人生に飛び出すために「屈む時期」だからだ。
大きく飛ぶためにはなるべく小さく「屈む」必要がある。
潤の納得できる人生を歩めばそれでいい。親のスネなら多いに齧れ。あはははは」
「そうよ潤。青春を楽しまなくっちゃ。お勉強はいつでも出来るわ。
先の事はゆっくり考えればいいのよ。
本をたくさん読んで、いろんな人とお友達になりなさい。
いい本と素敵な人との出会いは、人生を豊かにしてくれるわ」
私はこの両親の子供に生まれて、本当に良かったと思った。
第3話
授業が終わると、 ボクはバイト先の喫茶店へ急いだ。
店の名前は喫茶『
総曲輪のアーケード近くにある、5階建ての楽器問屋の地下に『都』はあった。
地下の店は敬遠されがちだが、ここの店は常連も多く、いつも賑わっていた。
この店では、希望すればお気に入りの珈琲カップを購入して店にキープして置くことが出来た。
珈琲はすべてサイフォンで淹れられ、バリスタの花山さんが作る珈琲は、当時としては珍しい物だった。
ずらりと並んだサイフォンは圧巻だった。
スタッフはマスターの柴山さんとバリスタの花山さん、それにセーラ・ロウエルに似た美人ウエイトレスの明美さんとボクの4人だった。
「ジュン君、このクリソーは6番さんにお願い。
それからこのウィンナコーヒーとツナサンドは10番さんね。
あと、灰皿も交換して来て頂戴」
「はい、わかりました」
明美さんはボクの憧れの女性だった。
仕事はいつも的確で、笑顔の素敵な女優さんのようにきれいな人だった。
明美さん目当てでお店に通うお客さんも多かった。
常連の猪俣さんが、いつものカウンターの席で花山さんと話をしていた。
「どうしたのマタさん? いつもの元気なマタさんじゃないようだけど?」
「ノボルと喧嘩しちゃったの」
「喧嘩の原因は?」
「何のビデオを観るかで・・・。
ノボルったら酷いのよ、私は「E・T」が観たいっていうのにさ、絶対「ランボー」だって言うのよ。それでエッチもしないで帰って来ちゃった。
そういう時は女の子に譲るべきでしょ? この先、好みの合わない私たちって、本当にうまくやっていけるのかしら?」
猪俣さんは、両肘を着いたまま、珈琲を啜った。
花山さんはサイフォンで淹れた珈琲を、慎重にカップに注いだ後、笑いながら言った。
「大丈夫だよ、もうノボル君は怒っていないから。
昨日、店に来てマタさんと同じことを言っていたから」
「えっ、彼、昨日ここに来たの?」
「自慢していたよ、マタさんのこと」
「なんて言った?」
「内緒、直接本人に訊けばいいじゃない?」
花山さんはアメリカ人のようにおどけてみせた。
「花山さんの意地悪!」
「大好きなんだってさ。マタさんのことが」
すると猪俣さんの顔が、曇り空から突然覗いた太陽のようにパッと輝いた。
「そんなこと言ってたんだ、ノボルのヤツ」
猪俣さんは必死に嬉しさを噛み殺していたが、花山さんも明美さんも笑っていた。
ボクはこの店にやって来る、そんな大人の人たちを見るのが大好きだった。
翌日、店に出勤するとマスターの柴山さんと女の子が話していた。
「ジュン、今日からウチで働くことになった森山柑奈ちゃんだ。
お前が彼女に仕事を教えてやってくれ。
だからと言って、手なんか出すんじゃないぞ」
マスターの目は笑っていた。
それはまるで「しっかりやれよ」とでも言っているようにも感じた。
「はじめまして、森山柑奈です。ピチピチの16歳でーす。
今日からお世話になりますね? よろしくお願いします。
「ジュンさん」て呼んでもいいですか?」
「う、うん」
ボクはすっかり動揺していた。
微笑み掛ける彼女の笑顔は、眩しいくらいに輝いていた。
スラリとした長い足、小さなお尻と胸。サラサラな栗毛色の髪をポニーテールに束ね、吸い込まれてしまいそうな鳶色の瞳をしていた。
森山柑奈、16歳。
ボクは柑奈の柑という名前から、爽やかで甘いシトラスを想像し、彼女のことを密かに「オレンジ」と名付けた。
オレンジの勤務が終わり、
「お先に失礼します」
「疲れただろう? 初日だったからね? 気を付けて帰るんだよ」
マスターは伝票を整理しながらオレンジに言った。
「はい、明日もよろしくお願いします」
オレンジに少し遅れて、ボクも店を出た。
「みなさん、お疲れ様でした。お先に失礼します」
ボクがバス停に向かって歩いていると、店から少し離れた路上で、派手な紫のシャコタンのシルビアの前で、リーゼント頭のスカジャンを着たヤンキーと、オレンジが深刻そうな顔で立っていた。
オレンジは私に気付くと、目を逸らした。
ボクは気まずくなり、バス停に向かって駆け出した。
翌朝、オレンジが話し掛けてきた。
「夕べ会っていたのは元カレだったの。
やり直したいって言われたけど、さよならしちゃった」
「そうだったんだ」
ボクは少しホッとした。
人の不幸を喜ぶのは良くないが、これで自分にもチャンスが訪れたと思ったからだ。
「私ね? タバコを吸っているのがバレて退学になったの。
酷い高校でしょ? タバコ位で」
ボクは思った。
タバコ、ヤンキーの彼氏。
オレンジはバージンではないと思うと、少し寂しくなった。
「私、不良だよ」
オレンジは私の心を見透かしたように笑っていた。
その仕草にボクのハートは完全に撃ち抜かれてしまった。
第4話
オレンジが店に来てくれたおかげで、ボクは増々バイトが楽しくなった。
「柑奈ちゃん、このダージリンは9番さんにお願いね?」
「明美さん、ガムシロはここですか?」
「そうよ、それを使ってちょうだい。
ストローとミルクも忘れないでね?」
「はい、わかりました」
オレンジと明美さんは、まるで仲の良い「美人姉妹」のようだった。
常連の池田さんはいつものように、自前のシナモンスティックを使って珈琲を混ぜていた。
「好きだねえー、シナモン」
マスターの柴山さんが言った。
池田さんの席は、いつもカウンターの左端から2番目の席と決まっている。
池田さんは30代の独身男性で、背の低い、小太りのお坊さんだった。
いつも#くたびれた__・__#スポーツバッグを持って店にやってくる。
「マスター、新しい女の子が入んたんだね? ヒッヒッ」
池田さんはいつも、ヒッヒッと言って笑うのが癖だった。
「なかなかの美人やろ? おかげで売り上げもアップやちゃ」
「それは良かったですね、ヒッヒッ」
でも、池田さんはオレンジには興味がなかった。
池田さんのお目当ては、実はボクだったのだ。
「ジュン君、これお食べ」
そう言って、池田さんはスポーツバッグの中から大きな葬式饅頭を、恥ずかしそうにボクに差し出した。
「あらジュン君、モテモテね?」
「いいなあ、ジュンさんばっかり」
明美さんとオレンジがボクを冷やかした。
「ジュン、池田さんとラブラブやな?」
マスターの柴山さんまで、面白そうに笑っていた。
ボクは池田さんにお礼をいい、葬式饅頭を休憩室に持って行った。
そこへオレンジがやって来た。
「食べる?」
「いらないわよ、お葬式のお饅頭なんて気持ち悪い」
「そうだよな?」
「だったらどうして貰うのよ」
「だって悪いだろ? 折角くれるっていうのにさ」
「ジュンはお人好しね?」
いつの間にか、ボクはオレンジに「ジュンさん」から「ジュン」に呼び捨てにされていた。
でもそれは別にボクを軽視しているからではなく、親しみを込めたものだった。
ボクはそれがうれしかった。
ボクとオレンジはすぐに打ち解けた。
明美さんはそんなボクたちを見て、
「ジュン君と柑奈ちゃん、兄妹みたいね?」
「止めて下さいよ明美さん。こんな#真面目__・__#なお兄ちゃんじゃ柑奈、つまんないもん」
「そこがいいのよ、男は真面目がいちばんよ」
「そのとおり、俺みたいにな?」
マスターも、みんなも笑った。
お店は20時を過ぎると、こっそりと常連さんだけにはお酒も出していた。
明美さんも少し柱の影に隠れてお酒を飲んでいた。
足をフラミンゴのようにちょっと曲げて立ち、片手には両切りのショートホープ、そしてもう一方の手でウイスキーをロックで飲む姿はとても様になっていた。
(美人は何をしてもカッコいいなあ)
ボクは明美さんに見惚れていた。
するとお店の隅で、オレンジもこっそりビールを飲んで、タバコを吸っていた。
どうやらオレンジも、将来的に明美さんのような姐御になるのかと、ボクはそれを想像すると楽しかった。
「ジュン、何を笑っているのよー?」
「似てるなあと思ってね? 柑奈と明美さん」
「私、明美さんって大好き」
「柑奈、兄弟は?」
「いないよ、ひとりぼっち」
一人っ子と言わず、「ひとりぼっち」と言ったそのオレンジの横顔に、ボクは心を奪われた。
守ってあげたいと思った。
オレンジは寂しそうにタバコの煙を細く静かに吐いた。
「ジュンは?」
「俺も一人っ子だよ」
「じゃあ私たち、兄妹になろうよ」
ボクはそれに返事をしなかった。
オレンジの兄ではなく、恋人になりたかったからだ。
ボクはオレンジに恋をしてしまった。
第5話
毎日、店には様々なお客さんたちがやって来る。
そして今日もそうだった。
20代後半の女性と30代半ばの背広の男性は、もう2時間も何も会話をすることもなく、注文した珈琲にも手を付けてはいなかった。
折角淹れた花山さんの珈琲も、すっかり冷めてしまっていた。
すると、ようやくふたりは無言のまま席を立ち、レジへとやって来た。
「ご一緒でよろしいですか?」
とボクが訊くと、女性の方が答えた。
「はい、おいくらですか?」
「900円になります」
女性は千円札を出したので、ボクは100円のお釣りを彼女の白い手に乗せた。
ボクの手が彼女の手に触れた瞬間、彼女の手は氷のように冷たかった。
彼女はお釣りを財布に仕舞うと、持っていたスイートピーの花束をボクに渡した。
「活かしてあげて下さい」
そのままふたりは店を出て行った。
ボクは明美さんにその花を見せた。
「こんなものを置いていかれました。
活かせてあげて下さいと言って」
すると明美さんは優雅にタバコを燻らせながら言った。
「これから死ぬんじゃないの? あのふたり」
「えっ、どうしてですか?」
「ジュン君も大人になれば分かるわよ」
大人って、色々面倒なんだなあとボクは思った。
休憩室で花瓶を探していると、そこへオレンジがやって来た。
「あら、きれいなお花。スイートピー?」
「うん、そうらしいね?」
「どうしたの? それ?」
「お客さんに貰ったんだ」
「それ、私にくれない?」
「別にいいけど」
「ノンにプレゼントしてあげようと思って。
あの子、お花が大好きだから」
ノンちゃんはオレンジの友だちで、スナックでアルバイトしている女の子だった。
少しぽっちゃりした色白のノンちゃんもまた、オレンジと同じ高校を中退していた。
ノンちゃんはお母さんと二人暮らしで、学費と生活費を稼ぐために夜はスナックで働いていたのだった。
そして飲み屋でのバイトがバレて学校を退学になった時、
「これで堂々とスナックで働けるわ」
そう言って、まだ16歳の彼女は寂しそうに笑っていたらしい。
彼女は高校を退学したくはなかったようだ。
「ねえ、ジュン、今度の水曜日、ヒマ?」
「ヒマだけど」
「私とデートしない? ボーリングとか、映画とか?」
「いいけど・・・」
ボクは天にも昇るような気持ちだった。
オレンジとデートだなんて、夢のようだった。
オレンジは上目遣いにボクを見て微笑んでいた。
淡いピンクのスイートピーの花を抱えて。
第6話
空は高く、絹雲たなびく秋空だった。
ボクはその日、オレンジとのデートのために学校を仮病で休んだ。
「ジュン、まずはボーリングしようよ」
私服姿のオレンジは、かなり大人びて見えた。
膝下までのフレアスカートが、彼女がボーリングをする度にセクシーに揺れた。
ボクはそれを見ないように努力はしたが、ダメだった。
オレンジの投げたボウルはゴロゴロと転がって、丁度ピンの配列の先頭に当たった。
バラバラとピンが倒れ、右端の2本のピンだけが惜しくも残ってしまった。
「絶対にスペアを取るからね?」
「がんばれ、柑奈」
オレンジは強い決意と共に、真剣に残ったピンに狙いを定めると、美しいフォームでボウルを投げた。
少しゆっくり目のボウルは、徐々にピンに近づいて行き、やがて2本のピンは小気味の良い音と共にはじけ飛んだ。
「やったー! ジュン、スペアだよ! スペア!」
オレンジは小さくジャンプを繰り返し、ボクとハイタッチをした。
その時、ボクは初めてオレンジの手に触れた。
その手はとても柔らかく、少し冷たい感触があった。
ボクの番になった。
ボクはオレンジにいいところを見せようと、やや緊張していた。
そのせいで、ボクの投げたボウルはかろうじてガーターこそ
でも、オレンジは笑わなかった。
「ジュン、スペアだよ! 大丈夫、絶対に!」
オレンジはじっと残ったピンを見詰めていた。
その美しい横顔にボクは見惚れた。
結果として5本が残ってしまい、ボクもオレンジもがっかりした。
ボクたちはよく笑い、そしてはしゃいだ。
スコアはボクが135でオレンジが96という、低レベルなボーリングではあったが、とても楽しいボーリングだった。
ランチはモスバーガーで食べた。
「このモスのソースがいいのよねー、バンズも美味しいし。
それにこのクラムチャウダーも最高」
オレンジは口の端についたハンバーガーのソースを薬指で拭い、小さな舌でそれを舐めた。
「私ね、ばあちゃんとふたりで暮らしているの。
パパはいない。ママは京都の祇園でクラブをやってる。
ジュンのところは?」
「父さんは銀行員で母さんは家にいるよ」
「いいなあ、ジュンにはパパとママがいて」
オレンジは少し寂しそうだった。
ボクはそんなオレンジを守ってあげたいと思った。
ハンバーガーを食べ終わると、ボクたちは映画を観に行った。
「グリース」という、ジョン・トラボルタが主演の映画だった。
スピード感のある、ダンスシーンの多い映画だった。
観客は若いカップルが多かった。
映画が終わりに近づいた時、オレンジの手がボクの手を握った。
そしてオレンジが耳元で囁いた。
オレンジの髪がボクの頬に触れ、甘いシャワーコロンの香りがした。
「好きよ、ジュン」
みんなが映画に集中している最中、オレンジの柔らかい唇がボクの唇を捉えた。
ボクたちはそのままトラボルタを無視して、キスに没頭した。
初めてのキスだった。
映画の内容はほとんど覚えてはいなかったが、それはボクにとって最高のラブシネマとなった。
第7話
ボクは息苦しい教室を出て、ひとり、お気に入りの樅の木の下で、母が作ってくれた大きな弁当箱を開けた。
秋空の気持ちの良い昼時、風はなかった。
グランドではサッカーボールを蹴ったり、バドミントンをしている連中の嬌声が聞こえ、土埃の匂いがした。
「またひとりで弁当を食べてるのか?」
「教室での俺は、ただの目障りな存在でしかないからな?」
クラスの連中は弁当を食べる間も惜しんで必死に勉強をしていた。
いい大学に入って金持ちになって成功者になるために。
「黒田、もう弁当食べたのか?」
「男は早飯、早糞じゃないとロクな人間にはなれねえっていうのが親父の口癖なんだ」
「いいのか? アイツらみたいに勉強しなくても?
お前は早慶狙いなんだろう?」
黒田はボクの隣に寝そべって、空を見ていた。
「ジュン、俺はお前が羨ましいよ。
お前は青春を楽しんでいるもんなあ。
みんな暗い顔して少しでもいい大学に入ろうと
それなのにお前は焦ってもいない」
「いい大学に入って、いいところへ就職してきれいな嫁さん貰ってガキが出来て、将来は金に困らない豊かな生活をする。黒田、人間にとってそれがいい人生なのか?」
ボクは母の作る最高の卵焼きを口に入れた。
甘くてふっくらとした卵焼きのおいしさが、口いっぱいに拡がった。
「俺はそんな安心を得るために生きるのは違うと思う。
安心とは安定だろう? つまりその生活を維持するために自分の意思とは異なることも容認しなければならない。
それは自分の人生に妥協するということじゃないのか?
何のために俺たちは生きるんだ? 生きているんだ?
俺は「生き甲斐」が欲しい。
所詮、しあわせの価値観なんてみんな違うだろう?
東大法学部を出て、財務省に入って政治家になって、大臣になって日本を動かす人間になりたいという奴。
畑で土まみれ、汗まみれになってトウモロコシを収穫する農家さんたち。
お互いに相手の生活を羨むことはない筈だ。
それはしあわせを感じる心が違うからだ。
多くの人間を従えるのがしあわせだと思う奴と、自分の育てた甘いトウモロコシにうっとりして幸せな人。
俺は今、こうしてお袋の作ってくれた卵焼きを食べて「しあわせだなあ」と感じている。
だから俺は今、しあわせなんだよ。
黒田、俺は思うんだ。しあわせって、しあわせを#感じること__・__#じゃないのかと。
ただ俺はまだ、それが見つからないだけなんだ」
「しあわせを感じることがしあわせか? なんだか倫社の授業みてえだな?」
「そろそろ午後の授業だぞ」
「まあどうせまた自習だろうけどな?」
ボクは食べ終えた弁当を仕舞い、立ち上がってズボンに付いた芝生の草を払った。
気怠い午後の日差しの中、ボクと黒田は教室へと歩いて行った。
第8話
「もしもし、ママやけど、アンタ学校クビになって今何してはるの?
明日、そっちに行くよって、これからのこととかな、相談しまひょ。ええな?」
「うん、わかった・・・」
母親はすっかり京都弁が染み付いてしまっていた。
柑奈は久しぶりに母親に会うのがうれしかった。
「柑奈、あまりお婆ちゃんを困らせたらあかんよ」
「わかってるよ・・・」
祖母は柑奈に甘かった。
それは娘である母親の愛情が、孫の柑奈に不足しているという負い目があったからだ。
柑奈の母親も高校を中退していた。
同棲していた男との間に子供が出来て、籍を入れた。
その時の子供が柑奈だった。
当時、母親はまだ19歳で、子供が子供を産んで育てるのにはかなり無理があった。
母親は1年で男と離婚した。
父親は元暴走族の総長で、警察に捕まり少年院へ送られてしまった。
止む無く柑奈の母は水商売の世界に入り、柑奈を必死に育てていた。
柑奈の母は地元では評判の美人で度胸もあり、頭の回転も速く、お客との会話も上手な彼女はすぐに夜の街の伝説になっていった。
オレンジはある日、ジュンに母親の話しをしたことがあった。
「あのね、私が中学2年の時、ママがいつも土曜日の夜に家に来ていた男と京都に行くって言うの。
私は京都には行かないよって言ったら、「アンタはお婆ちゃんと暮らしなさい。後で迎えに来るから」ってそれっきり。
信じられる? 可愛い娘を置いて、男と京都だよ。
ママは凄い美人でね? 中森明菜に似ているの、それが私の自慢でもあるんだけどね?」
オレンジはうれしそうに母親の写真をジュンに見せた。
「ねっ? 明菜に似てるでしょ?」
「うん、柑奈はお母さんに似て美人なんだね?」
「うれしいジュン、もっと言って」
オレンジは嬉しそうに笑った。
憧れの母親に似ていると言われたことに、喜んでいた。
「ただいまー、これ京都のおみやげ。
お母さんの好きな生八つ橋と鯖寿司、柑奈は?」
「部屋で寝てるがやちゃ」
「そう。柑奈ーっ!」
母親は柑奈の部屋に入ると、ベッドで寝ている柑奈を揺り起こした。
「柑奈、もうお昼やし。いつまで寝てはるの? いいかげん、もう起きんと。
焼肉でも食べに行こか?」
だらだらと柑奈は身体を起こした。
「早く洗面所に行って、顔を洗ってきなはれ。出掛けるよって」
柑奈は久しぶりに会った母親に、少し照れていた。
柑奈は早速外出の支度に取り掛かった。
在日朝鮮人のキムがやっている焼肉屋で、柑奈と母親は遅めのランチをしていた。
「やっぱりキムさんの焼肉は最高やわ、ほら柑奈、どんどん食べなはれ」
母親はうれしそうに肉を焼き、柑奈の皿に肉を乗せた。
「アンタ、今、ヒマでっしゃろ?
なあ、祇園に来いひんか?
ママと一緒に暮らそうやないの?」
「ダメだよ、今、喫茶店でバイトしているんだから」
「そんなの辞めてしまいなさい、ママのお店を手伝ったらええがな?」
「イヤだよ、クラブなんて」
「結構楽しいで? お金にもなるよってな?
喫茶店のウエイトレスなんて、たかが知れてはるやないの?」
「お金だけじゃないよ、バイトしてるのは」
「柑奈、アンタにはママみたいな苦労はさせとうない。
男なんてみんな同じやで。特に顔なんかで選んでは絶対にあかん。
柑奈はもう大人みたいなもんやからわかるやろうけど、子供だけは絶対に作ってはあかんで。
わかるな?」
「大丈夫だよ、私はママの子だよ、そんな軽い女じゃないって」
柑奈はジョッキの生ビールを飲み、タバコに火を点けた。
「アンタは増々私に似てきたよってな? だから尚更心配なんやで?」
「おかしなママ。すみませーん、生ふたつおかわりー!」
「そういうところも昔のママそっくりや」
柑奈と母親は顔を見合わせて笑った。
ふたりの母娘の会話はいつまでも続いた。
第9話
「ジュン君と柑奈ちゃんはいつも楽しそうだね?」
「まるで昔の私を見ているみたい。
いいわよね? 若いって。
何も恐れるものがなくて・・・」
「明美ちゃんだってまだ若いよ」
「それは花山さんやマスターに比べればね?」
お店のカウンターでは、バリスタの花山さんと明美さんがボクとオレンジを見て目を細めていた。
オレンジはボクの青春そのものだった。
「ねえジュン、明日のお休みはどうする?」
「そうだなあ、海なんてどう? お弁当を持って」
「うん、いいねそれ!
じゃあお弁当はよろしくね? 私、食べる係だから」
「なんで俺なんだよ? 普通は女の子が作るもんだろう?」
「私、普通じゃないから。不良だし。あはははは
というよりも私、お料理したことがないの。
だからジュン、お弁当の方はお願い」
オレンジはボクに両手を合わせた。
「しょうがねえなあ、まあどちらにせよ、母ちゃんが作るんだけどな」
「私、ジュンのママの卵焼き大好き。
明日、何を着ていこうかなあ?
パンツが見えちゃうようなマイクロミニにしようかなあ? うふっ」
オレンジはうれしそうにトレイを持ってテーブルの後片付けに向かった。
ウエイトレスの制服の揺れる大きなリボンと、オレンジのヒップラインにボクはドキリとした。
当日は太陽の匂いがするような、気持ちの良い晴天だった。
いつの間にかボクは、バイトが休みの水曜日には学校をズル休みするようになっていた。
ボクとオレンジは路線バスに乗って、車窓から見える富山湾を眺めていた。
「きれいな海ね? ダイヤモンドをばら撒いたみたいにキラキラ光ってる」
「そうだな。きれいだな」
でも、ボクが「きれいだ」と言ったのは海のことではなく、オレンジのことだった。
オレンジは眩しいくらいに美しかった。
ボクたちは海に一番近いバス停でバスを降りると、そのまま防波堤に沿って歩いて行った。
磯の香りと混じって、少し天然ガスの匂いがしていた。
この辺りは天然ガスが産出されるので、その天然ガスを貯蔵するタンクが点在していたからだ。
防波堤の手前の道路に小さな
オレンジはビールの自動販売機で缶ビールのロング缶を2本買った。
ボクとオレンジは外からは見えない防波堤の下にシートを広げ、海が見えるように並んで座った。
灰色の海と潮騒の音が心地良かった。
ボクは母の作ってくれた弁当を広げた。
「うわー、美味しそう!」
「母さんがオレンジのために卵焼きを多く焼いてくれたんだ」
「どれどれ、それではジュンのお母さん、いただきまーす。
んっ、美味しいーっ! ビール、ビール!」
オレンジはすぐに缶ビールを開け、一口だけ飲むと、それをボクに渡した。
「はいどうぞ、私と間接キッスだよ! うふっ」
そしてオレンジは自分用にもうひとつの缶ビールを開けて、ボクたちは乾杯をした。
さざ波が砂に滲み込む音がしていた。
「ジュン、キスしてもいいよ」
「・・・」
ボクはオレンジと、まだ覚えたてのキスを夢中でした。
それは蕩けてしまいそうなキスだった。
その後、ボクたちはお店の常連さんや明美さん、花山さんやマスターの話で盛り上がった。
「ジュン、店舗デザインをやっている建築士の沢村さんって知ってる?」
「ああ、この前ヘンなネクタイをボクに沢山くれたんだ。ボロボロのやつ」
「沢村さんて面白い人だよね?」
「俺はあまり好きじゃないな、いつも俺を子供扱いするんだ、あのオヤジ」
「だってジュン、まだお子様じゃない?」
「バカを言え、俺はもう大人・・・」
大人だと言い掛けた時、オレンジがボクの口をキスで塞いだ。
「ほらね? これだけでもうドキドキしている。
ジュンってカワイイ」
ボクは恥ずかしさと嬉しさのあまり、そのまま海へと駆け出し、スニーカーを空高く放り投げると、波打ち際まで入って行った。
オレンジもサンダルを脱ぎ、ボクと手を繋いで波と戯れた。
オレンジの笑顔が眩しかった。
夜、ボクとオレンジはノンちゃんのスナックに寄った。
「ノン、これおみやげー」
そう言ってオレンジは、今日、海で拾った貝殻をノンちゃんに渡した。
「いいなあー、ふたりで海に行って来たんだー? 私を誘わないで?」
「ごめん、だって今日はジュンとデートなんだもん。
今度は一緒に行こうね? ダブルデートしようよ」
「うん、行く行く」
そこへママが出勤して来た。
「あら柑奈ちゃん、この子、彼氏さん?」
「そうだよママ、イケメンでしょう?」
「あらホント、どう? おばさんとしない? まだ童貞君でしょ? おばさんが色々と教えてあげるから」
「ダメよママ! 私のダーリンなんだから、私が教えてあ、げ、る、の! あはははは」
みんな楽しそうに笑った。
その後、お店が開店するまでの間、オレンジは中森明菜を数曲歌った。
帰り道、暗がりの公園でボクとオレンジは昼間の続きのキスをした。
オレンジのキスは、より濃厚にネットリとしたものになっていった。
「ジュン、大好き・・・」
「俺もだよ、柑奈」
ボクたちの恋は、増々スピードを上げていった。
第10話
「ジュン、これ見て見て、いい絵でしょう?
沢村さんからもらっちゃった!」
それは断崖に立つひとりの男が描かれた素描だった。
嬉しそうに沢村の絵を見せるオレンジを見て、ボクは沢村に嫉妬した。
「ジュンも描ける?」
「どうせ俺には描けないよ、美術は3だからな」
と、ボクは不機嫌に吐き捨てるようにそう答えた。
「柑奈、明日の休みは映画に行かないか? 見たい映画があるんだ」
「ごめんなさい、明日はちょっと・・・」
「そうか? じゃあまた今度」
ボクは酷くがっかりした。
週に一度のオレンジとのデートがすごく楽しみだったからだ。
その光景を明美が見ていた。
明美は柑奈をレジの隅に手招きした。
「柑奈ちゃん、ジュン君がかわいそうよ、かなり落ち込んでいるみたいじゃないの」
「でも明日は・・・」
「知っているわ、沢村さんと会うんでしょ?
柑奈ちゃん、沢村さんだけはダメ、女にだらしない人だから。
私も何度か誘われたことがあるの。それにあの人には奥さんも子供もいるのよ、あの人の話に乗るのは辞めなさい」
柑奈は黙っていた。
翌日、柑奈は沢村と沢村の作ったというレストランに出掛けた。
「すごーい! このお店、沢村さんが設計したんですか?」
「そうだよ、いいお店だろ? 僕の作品の一部に過ぎないけどね?」
その広い店内は、まるで南青山にあるレストランのようだった。
もっともそれを真似ただけのデザインだったのだが、柑奈はそんな沢村を尊敬した。
「いつもありがとうございます、沢村先生。おかげで店はこの通り、とても繁盛しています。ありがとうございました。素晴らしいレストランにしていただいて」
店のオーナーシェフの森本が挨拶にやってきた。
「いやー、僕の設計がいいんじゃなくて、オーナーの料理が素晴らしいからですよ」
「今日は新作のドルチェをサービスしますから、どうぞごゆっくりしていって下さい」
そう言うと、オーナーは柑奈を一瞥して厨房へと消えた。
「オーナー、またアイツ違う女をつれて来てますね?」
「病気だよ。かわいそうにあの子、まだ高校生じゃねえのかなあ?」
「出禁にしたらどうです? あのゲス野郎」
「駄目だ。アイツからはこの店の設計料を回収しなきゃならねえ。
見栄を張って高い料理ばかり注文してくれるからな?」
「俺、アイツ嫌いですよ」
「俺もだよ」
ふたりはそう言って笑った。
沢村は近くの森林公園にクルマを停めると、柑奈にいきなりキスをした。
「柑奈ちゃんが好きなんだ」
沢村は柑奈の胸をやさしく揉んだ。
柑奈は大人の沢村に心が奪われかけていたので、柑奈も沢村に合わせるようにキスに応じた。
沢村の行為はさらにエスカレートし、柑奈のスカートの中へ手を入れて来た。
「ここじゃ、イヤ・・・」
柑奈はそう弱々しい声で言った。
「それじゃあ落ち着けるところに行こうか?」
沢村は近くのラブホに移動すると、沢村は大人の性行為を見せつけるかのように柑奈を抱いた。
柑奈は手慣れた沢村の行為についていくのがやっとだった。
柑奈はぐったりと疲れ果て、いつの間にか眠ってしまった。
柑奈が目を覚ますと、沢村はタバコを吸っていた。
「目が覚めた?」
沢村はベッドから降りると、鞄からスケッチブックを取り出した。
「柑奈ちゃん、少し斜めを向いてごらん。そう、そんな感じ」
沢村はコンテで柑奈のヌードを描き始めた。
柑奈は言われるままにポーズを取り、じっとしていた。
1時間ほどでそれは完成した。
「すごく綺麗、私じゃないみたい!」
柑奈はスケッチブックの自分をいつまでも眺めていた。
「よかったらあげるよ、それ」
「貰ってもいいんですか?」
「どうぞ」
柑奈は愛おしそうにその絵を抱き締めた。
そしてそれが柑奈の不適切な恋の始まりだった。
第11話
木曜日の休み明け、ボクはオレンジに会えることを楽しみに店に行くと、なぜかみんながボクによそよそしかった。
「おはようございます」
「ジュン、今日からまた一人だからよろしく頼むよ」
(今日からまた一人?)
「柑奈ちゃん、もう辞めたがよ」
「えっ?」
ボクは目の前が真っ暗になってしまった。
ボクに何も言わず、オレンジは店を辞めたと言うのか?
どうして何も言わずに辞めてしまったのか? ボクにはその理由が分からなかった。
ボクはいつものように仕事をしたが、心はうわの空だった。
そんな情けないボクを、マスターも花山さんも気の毒そうに見ていた。
明美さんは失恋した弟を労わるように励ましてくれた。
「ジュン君、初恋なんて所詮そんなものよ。
私だってたくさん辛い恋をしたわ。
そして失恋するたびに想った、「どうして恋なんかしたんだろう?」って。
いつかあなたも巡り会うはずよ、本物の素敵な恋に」
「何で柑奈は急に店を辞めたんでしょうね?
仕事が終わってから電話してみます」
「そっとしておいてあげなさい。柑奈ちゃんから連絡があるまでは」
実はその時、オレンジがなぜ店を辞めたのかはボク以外、みんなその理由を知っていた。
だが、その理由がボクにとってあまりにも残酷なものだったので、皆、口を噤んでいたのだった。
オレンジが店を辞めると、不思議なことに沢村も店に来なくなった。
どうしてもオレンジを諦めきれないボクは、ノンちゃんにその理由を確かめようと、ノンちゃんのいるスナックに行ってみることにした。
ノンちゃんなら、何でオレンジがボクに黙って店を辞めたのか、そのワケを知っていると思ったからだ。
そしてオレンジとそこで会えるかもしれないと、淡い期待を抱いて店に向かった。
スナックのドアを開けた瞬間、ボクは心臓が止まりそうだった。
そこにはオレンジと沢村の姿があったからだ。
オレンジは咄嗟に沢村からカラダを離した。
オレンジと沢村、そしてノンちゃんとママ。
全員が言葉を失った。
ボクがオレンジと沢村の前に行くと、震える声でボクは言った。
「そういうことだったんだ・・・」
オレンジは黙って俯いていた。
「そういうことって、どういうことだい?」
沢村が席を立った。
その時、ママが沢村に冷たく言った。
「他のお客さんに迷惑だから、そういう話は外でしてちょうだい」
ボクと沢村、そしてオレンジとノンちゃんは店の外に出た。
「俺と柑奈はただ酒を飲みに来ていただけだよ、勘違いしないでくれよ、ジュン君」
沢村はオレンジのことを#柑奈__・__#と呼び捨てにしていた。
ボクは沢村を無視してオレンジを問い詰めた。
「柑奈が誰を好きになろうと、ボクには関係ない事かもしれない。
でも、黙って行くことはないだろう?」
「ごめんなさい・・・」
ボクはオレンジの気持ちを知りながら、さらに追及した。
「柑奈はこのオヤジを選んだんだな? 俺を捨てて」
オレンジは泣き出してしまい、ノンちゃんがオレンジを
「ジュン君、君は勘違いをし・・・」
と沢村が言い掛けた時、ボクは沢村を思い切り2発殴った。
1発はボクの怒りと憎しみ、そしてもう1発はオレンジの分として。
「柑奈の前でカッコ悪いマネはするな!」
ボクはそこから逃げるように走った。
夜の冷たい雨の中をどこまでも走った。
そして誰もボクの後を追い駆けては来なかった。
追い駆けて来たのは、ボクのオレンジに対する未練だけだった。
第12話
街にはクリスマスソングが流れ、様々なクリスマスデコレーションで彩られていた。
楽し気に歩く恋人たち。
ボクはそんな中で自分だけが取り残されたような気分だった。
ボクの初恋はジンジャエールの泡のように儚くも消えた。
ボクはオレンジという生き甲斐を失い、何もする気がなかった。
明日はクリスマスイブ。ボクはバイトを終え、重い足取りでいつものバス停に向かって歩いていた。
かなり冷え込んで来たようで、粉雪が舞っていた。
「ジュン!」
後ろからボクを呼ぶ、オレンジの声が聞こえた。
ボクは驚いて足を止めて振り返ると、そこにはダッフルコートに白いマフラーを巻いたオレンジが立っていた。
「バイトが終わるの、ずっと待ってたの」
オレンジのコートや髪に、薄っすらと白い雪が降り積もっていた。
ボクはすごくうれしかった。
もう会えないと思っていたオレンジがそこにいることに。
「風邪をひくよ、どこかで暖まろう」
するとオレンジはボクと手を繋いだ。
それは極めて自然に、恋人同士がいつもそうするように、さりげないものだった。
ボクは直接オレンジの手に触れたかったので、手袋が酷くもどかしく感じた。
ボクとオレンジはクリスマスツリーの飾ってある、小さな緑色の壁の純喫茶に入った。
「何がいい?」
「ココア」
ボクはオレンジのためにココアを注文し、自分は少し大人ぶってロワイヤルコーヒーを頼んだ。
店員さんがスプーンに乗った角砂糖にウイスキーを滲み込ませ、それに火を点けた。
青白い炎が美しく揺れていた。
「きれいだね?」
オレンジが言った。
彼女の美しい鳶色の瞳にその青い炎が映っていた。
オレンジは温かいココアで凍えた両手を温めながら、小さな溜息を吐いた。
「この前はごめんなさい」
「どっちのこと?」
「どっちのって?」
「柑奈がボクに黙って店を辞めた事か? それとも沢村との事かって話だよ」
「じゃあ、その両方・・・」
ボクはその時、落胆した。
沢村のことは誤解だと、オレンジに弁解して欲しかったからだ。
ボクの淡い期待はロワイヤルコーヒーの炎のようにすぐに消えた。
「これからどうするんだよ?」
「わからない、まだ何も決めていないの・・・」
「沢村は奥さんも子供もいるんだろう? どうすんだよ?」
「だからわからないって言ってるでしょ!」
ボクはオレンジが怒鳴るのを、その時初めて聴いた。
この店にさっきから繰り返し流されている、陽気なジングルベルが不愉快だった。
「ごめんなさい、つい大きな声をだして・・・。
ジュン、私、どうしたらいい? どうしたらいいと思う?」
もちろんボクの答えは決まっていた。
ボクは少しだけ考えるふりをして、勇気を出してオレンジに言った。
「俺のところへ戻って来いよ、柑奈」
しかし柑奈はボクを見ようともせず、ただココアを見詰めていた。
「そんなに好きなのか? 沢村のことが?」
オレンジは小さく頷いた。
「じゃあどうして俺に会いに来たんだよ? おかしいだろ? そんなの」
次第にボクは苛立ってきた。
「ジュンにどうしても謝りたくて・・・」
「俺は柑奈に謝ってなんか欲しくはなかった!
嘘だと言って欲しかったんだ! 沢村とのことは間違いだったと!」
その後、ボクたちの沈黙は続いた。
ボクとオレンジは店を出た。
「ねえ、ノンのお店に行かない?」
ボクはオレンジの提案を受け入れることにした。
オレンジが沢村を選んだことに絶望はしたが、それでもボクはオレンジが好きだったからだ。
ボクは少しでもオレンジと一緒に居たかったのだ。
ノンのスナックに行くと、中年のサラリーマンが谷村新司の『昴』を熱唱していた。
「ジュン君いらっしゃーい、お飲み物は?」
「水割り」
「柑奈は?」
「私はロックで」
「了解」
ボクとオレンジは無言でグラスを合わせた。
(何のための乾杯だろう? ボクの失恋に? それともオレンジと沢村の祝福のために?)
その光景を哀れむような目でノンちゃんは見ていた。
オレンジがボクに体を寄せて来た。
オレンジから大人びた甘い香水の香りがした。
これも沢村の好みなのかと思っただけで、ボクは叫びたい気持ちになった。
「お代わり」
ボクはノンちゃんに空になったグラスを振って見せた。
「大丈夫なの? そんなに飲んで?」
「大した事ないよ、こんな色水」
するとオレンジはボクの手に自分のやわらかくて白い手を重ねた。
「ジュン、もう帰ろう・・・」
ボクとオレンジは手を繋ぎ、外へ出た。
クリスマスで賑わっている雪の街を、ボクとオレンジは行く宛てもなく、ただ彷徨っていた。
オレンジが急に足を止めた。
そこはクリスマスの電飾が怪しく光る、ラブホテルの前だった。
「寒いから、入ろうか?」
オレンジはボクの手を引いてその建物の中に入って行った。
ボクは恥ずかしさと期待で胸が張り裂けそうだった。
ホテルのピンクとブルーのネオンサインが、融けた雪に鳴っていた。
第13話
オレンジはホテルのロビーにある部屋の写真パネルの前に立った。
「クリスマスだから1つしか空いてないみたい」
オレンジがそのひとつ残った部屋のボタンを押すと、ガランという音と一緒に鍵が落ちて来た。
そのピンク色のアクリルの棒には、302と白字で刻印がされていた。
オレンジは慣れた手つきでそれを拾い上げると、エレベーターへと向かった。
(このホテルを利用したことがあるのか? あのヤンキーと? それとも沢村と?)
エレベーターは客同士が一緒にならないようにと、部屋へ昇るエレベーターと、部屋から出口へ降りるエレベーターとに2つに分かれていた。
ボクとオレンジは無言のまま昇りのエレベーターに乗ると、オレンジが3階のボタンを押した。
ボクは緊張と興奮で息が詰まりそうだった。
3階に到着すると、チンという小気味の良いチャイムが鳴り、ドアが開いた。
ボクにはこの時間がとても長く感じた。
オレンジは部屋の番号を確認すると、部屋番号のある矢印の方向に向かって歩いて行った。
ボクはその後を付いて行った。
途中、あちらこちらの部屋からは艶めかしい女性の喘ぎ声や、アダルトビデオらしき音も聞こえ漏れていた。
部屋の前でオレンジは再度鍵のナンバーと部屋の番号を確認した。
「この部屋みたい」
オレンジが鍵を差し入れ、それを回した。
ドアの向こうに大きな丸いベッドがあった。
ボクはドキドキしていた。
オレンジが鍵を黒いガラステーブルの上に置いた。
天井は鏡張りになっていた。
「ねえ、少し寒くない? 温度、上げようか?」
オレンジはエアコンのリモコンを探し出すと、部屋の温度を29度に設定した。
部屋が暖まり出すと、オレンジはコートを脱ぎ、マフラーをハンガーに掛けた。
「ジュンも脱いだら?」
ボクもコートを脱いでソファに座わると、オレンジもボクの隣に座った。
「ジュン、ラブホは初めてだよね?」
ボクは黙っていた。
それを肯定すれば情けない感じだし、かと言って否定するのも嘘を吐くことになるからだ。
ボクはオレンジの指摘通り、童貞だった。
オレンジがボクにキスをした。
ボクはオレンジが以前よりもキスが上手くなったように感じた。
(沢村に教え込まれたのだろうか?)
「私が教えてあげるね?
取り敢えずお風呂にお湯を入れて来るから待っていて」
オレンジは浴室へと入って行ったが、ボクはその光景に驚いた。
ベッドの置いてある部屋から、風呂場が丸見えだったからだ。
浴槽に湯が落ちる音がして来た。
オレンジが戻ってきた。
「脱がせてあげる」
オレンジはボクに万歳のポーズをさせると、次々とボクの服を脱がせていった。
ボクの上半身が露わになった。
「次はこっちも」
オレンジはボクのベルトを外し、ズボンを降ろした。
ボクはパンツひとつにされてしまい、今度はオレンジから要請があった。
「お願い、私も脱がせて」
ボクの手が緊張で震えていた。
ボクがオレンジのセーターを脱がせると、オレンジは自らスカートを脱ぎ捨て、パンストとブラジャー、そしてショーツだけの姿になった。
オレンジが厚手のストッキングを脱ぐと、ほんのりと薄い水色のブラとレースの付いたお揃いのパンティだけの姿になった。
ボクは目のやり場に困惑した。
オレンジは丸いベッドの中央に寝そべると、ボクを呼んだ。
「ジュン、おいで」
ボクはオレンジに言われるままにオレンジに覆い被さりキスをした。
それはぎこちないものだった。
ボクは父親の隠していたアダルトビデオを見た事を思い出し、無我夢中にそれを真似た。
オレンジのアシストの元、ボクがブラジャーを外すことに成功すると、やや小さめの乳房が現れた。
オレンジがやさしく言った。
「触ってもいいよ」
ボクはオレンジの命令に従った。
「ジュンは女の人のここ、見た事ないでしょ?」
オレンジはそういうと、自らショーツを脱いだ。
まるで霞のように頼りないアンダーヘアーが出現した。
「ジュンも早く脱ぎなさいよ。私ばっかりズルい・・・」
ボクもパンツを脱いだ。
既に勃起したそれを手で隠そうとしたが、それは隠しきれないほどに成長していた。
「お風呂に入ろうか?」
オレンジはボクの手を取り、浴室へ誘った。
オレンジはスポンジを泡立てると、ボクの体を洗い始めた。
そして遂にオレンジの手がボクの直立したそれを洗いだした。
「ジュンのこれ、大きくて硬いね?
入るかな? 私の中に?」
オレンジはシャワーを使い、ボクに付いた石鹸を丁寧に洗い落とした。
そしてボクのそこも入念に流し終えると顔を近づけ、それを咥えてゆっくりと上下させた。
オレンジの動きが次第に早くなった。
「ダメだよ柑奈、もう出ちゃいそうだよ!」
するとオレンジは一端それを口から離すと、
「いいよ、私のお口にそのまま出して」
行為が再開され、ボクはあっけなくオレンジの言葉に甘えさせてもらう結果になってしまった。
オレンジは口からそれを掌に吐き出し、私にそれを見せて笑った。
「いっぱい出たね?」
射精を終えたことで自信がついたボクは、オレンジの体を隅々まで観察した。
オレンジの左胸には米粒大のホクロがあった。
風呂から上がり、ボクたちはそれぞれバスタオルでからだを拭いて、主戦場へと赴いた。
オレンジがベッドに置かれた小箱からコンドームを取り出すと、ボクにそれを装着した。
そしてオレンジは仰向けになると、
「いいよ、入れても」
ボクはヌルヌルに潤ったオレンジのそこに顔を近づけ、指でそこを広げてみた。
保健体育の時に見た、女性器のイラストとオレンジのそれと照らしあわせ、その照合を終えるとボクはゆっくりと慎重に、オレンジの中に侵入を開始した。
オレンジのそこはとても温かく、窮屈だった。
すぐにボクのそれはオレンジの奥に到達した。
ボクはアダルトビデオの男優のように腰を動かした。
オレンジの喘ぎ声が次第に大きくなって、ボクもそれに合わせるように腰の動きを加速させて行った。
そしていよいよオレンジとボクがクライマックスを迎えよとした時、オレンジが信じられないことを口にした。
「あんっ、あっつ、沢村さん!」
オレンジは無意識に、そしてはっきりと沢村の名前を叫んだ。
ボクはオレンジから自分を抜き去り、カラダを離した。
オレンジは黙ったままだった。
するとオレンジはそのまま布団を頭から被り、じっと息を潜めていた。
まるで嵐が過ぎるのを待つ船のように。
ボクはその時すべてを理解した。
そう、明日はクリスマスイブ。
そして沢村も父親として、夫として家に帰り、何食わぬ顔でケーキやチキンを食べ、子供や奥さんにプレゼントを渡す筈だ。
オレンジは寂しかったのだ。
ボクは到底そんなオレンジを責める気にはなれなかった。
ボクとオレンジは無言のまま服を着ると、雪の降るイブ前夜の街を、手を繋いで歩いた。
ボクはそんなオレンジに、明日サンタが来ることを願った。
第14話
12月28日。クリスマスを終えた師走の慌ただしさの中、純喫茶『都』が休みの日、ある話し合いが持たれたらしい。
その翌日、ボクが店に出勤すると、明美さんはボクを店の片隅に呼んだ。
「夕べは大変だったのよ。昨日、この店で家族会議があったの」
「誰の家族ですか?」
ボクはイヤな予感がした。
「沢村さんと柑奈ちゃん、そして奥さんと沢村さんのお兄さんよ。
ほら、沢村さんのお兄さんはこのビルの楽器店の重役だから。
ジュン君も知っているでしょう? いつもお店に来ていたあの白髪の人。
そしてマスターと花山さんの私たち三人もオブザーバーとして参加したわけなのよ」
ボクは愕然とした。
(まさかここでそんなことが?)
それは沢村が柑奈と一緒になるために、家族を捨てるということを意味していた。
「それがね? 柑奈ちゃんと奥さんの直接対決になったのよ」
「・・・」
ボクは更に驚いた。
奥さんと沢村だけならまだしも、そこに柑奈までがいたことに。
「そして奥さんが柑奈ちゃんにこう言ったの、「お願いだから主人と別れて」って。
でもね、柑奈ちゃんはきっぱりと言ったのよ、
「別れられない」
別れたくないんじゃなくて、「別れられない」って。
私たちも奥さんもびっくりして、何も言えなかった。
奥さん、かわいそうに泣いていたわ」
「それで沢村は何て?」
「アイツは男の、いえ人間のクズよ!
ただ黙って見ているだけだった。まるで他人事みたいに」
ボクはまた沢村のことを殴ってやりたいと思った。
いや、もしもアイツが今、ボクの目の前にいたら、殺していたかもしれない。
そんな奴に奥さんも子供も、そしてオレンジもしあわせにすることなんか出来るはずがない。
ボクは怒りに震えた。
「でもね? 私は柑奈ちゃんの気持ちが分かる気がしたの。
周りから何と言われても、たとえ非難されようとも自分の想いに正直でいることに。
ジュン君、悪いのは柑奈ちゃんじゃないわ。奥さんも誰も悪くはない。みんな被害者なのよ。
悪いのはあの男だけ。
だから柑奈ちゃんのことは責めちゃだめ、許してあげて」
「そんなのおかしいですよ! 柑奈だって沢村のことが好きなんだから同罪でしょう!」
ボクは冷静さを失い、興奮気味に明美さんにそう言った。
「ジュン君、それはね? これからわかるわ。
柑奈ちゃんが#夢__・__#から覚めた時に」
ボクにはその時、明美さんの言葉の意味がまだよく分からなかった。
お正月の三が日が開けて店が始まった。
「みなさん、新年あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!」
ボクはお店のみんなに元気よく新年の挨拶をした。
晴れ着姿の明美さんはとても綺麗だった。
「ジュン君、あけましておめでとう。
でもおめでたくないニュースもあるの。あのひと、奥さんと離婚したそうよ」
ボクの心は秋風に揺らぐコスモスのように揺れていた。
そして最悪の新年が明けたのだった。
第15話
「緒方、ちょっといいか?」
ボクは学校の廊下で英語の金森先生から呼び止められた。
金森先生はボクの大好きな先生だった。
スワヒリ語の研究では日本の第一人者で、大手出版社から新書も出している先生だった。
黒縁のブ厚いメガネを掛け、いつも髪の毛はボサボサの学者肌の先生だった。
先生の担当教科は英文法で、ボクはすっかり英語が好きになった。
金森先生はボクを近くの音楽室へと誘った。
「緒方、おまえ進学しないんだってな? 担任の久保田先生から聞いたよ。どうしてだ?」
「大学に行く目的が見つからないからです」
すると金森先生は笑って言った。
「なるほど、それはいい考えだ。
緒方、人生には生きる目的が必要だ。俺もお前と同じだよ、ここで教師をしていることに目的を感じなくなったんだ。
俺はスワヒリ語の研究のために、再びケニアのナイロビに行くことに決めたんだ。
どうだ緒方、俺と一緒にアフリカに行かないか?」
「えっ、アフリカですか?」
「そうだ、アフリカだ。
面白いぞアフリカは。
アフリカは何もないが、人間に必要な学びがたくさんある。
俺と一緒にアフリカで、生きる目的を探してみないか?」
ボクは先生の申し出に戸惑っていた。
それは予想もしない事だったからだ。
(アフリカ・・・)
正直なところ、アフリカと言えばキリンや象、ライオンのイメージしかなかった。
ボクはどちらかといえば水族館派だったので、動物園にはさほど興味もなく、土埃の中で泥水を飲んでいる漆黒の肌をしたアフリカ人の印象しかなかった。
「先生、どうしてボクなんですか? なぜボクを誘って下さるのですか?」
「うーん、お前がヘンな高校生だからかな?
でもそれは悪い意味で言っているんじゃないぞ、お前みたいなやつもいるんだなあと、俺は少しうれしくなったからだ。
何のためにいい大学を目指すのか?
所詮はカネだろう? 偉くなって人から尊敬されたいか? そんな下らないことに何の意味がある?
重要なのは人間としての役割じゃないのか?
緒方、お前はいいことに気付いたんだ。
人生はな? How to live? なんだよ。
いかに生きるか? それはとても大切なことなんだ。
だからお前に見せたいんだ、アフリカの情熱を」
「先生、アフリカに行けば人生の目的が見つかりますか?」
「それはお前次第だ。でもな? そのヒントがアフリカにはたくさんあると俺は思う。
それをお前に感じて欲しいんだ」
「先生、人間の一番大切なことって何ですか?」
「それはな? 緒方。愛だよ」
「男女の愛ですか?」
金森先生は照れることなく真面目に言った。
「それも含まれるが、もっと大きな愛だ。
人間同士の思いやりと言った方がわかり易いかもな?
孔子はそれを「
愛は人間だけが持っているすばらしいチカラだ、パワーなんだよ。
そしてそれはアフリカの大地に溢れている。
それを俺と一緒に見に行かないか?」
「アフリカで愛を探す?」
「そうだ緒方。それからでも遅くはないよ、お前が人生の進路を決めるのは」
ボクは金森先生が熱弁を振るうアフリカを想像してみた。
数日後、金森先生はボクの家にやって来て、ボクのアフリカ行きを両親に勧めてくれた。
「いかがでしょう緒方さん。 息子さんをアフリカに行かせてあげてくれませんか? 私は緒方君が若いうちに、あの大きな大地で暮らす人々の生活に触れさせてあげたいのです。
それが必ず緒方君のこれからの人生を有意義なものにしてくれると信じています」
そして父は言った。
「息子をよろしくお願いします」
そしてボクは金森先生とアフリカへ行くことを決断した。
第16話
ボクがアフリカ行きを決めたのは、オレンジとの別れもあったからだ。
ボクの初恋はあっけなく終わった。
「潤、すげえよお前! 本当にすげえ奴だな!
俺もお前に必ず会いに行くからな! ケニアに!」
黒田は自分のことのように、ボクのアフリカ行きを喜んでくれた。
ボクは未だにオレンジのことが気掛かりだった。
沢村が離婚した以上、オレンジは堂々とアイツと暮らすことが出来る。
そして自由に愛し合うことも・・・。
そんなことを考えただけで、ボクは頭がおかしくなりそうだった。
そんなある日、ノンちゃんが店にやって来た。
「ジュン君お久しぶりー、元気してた?」
「まあね? ノンちゃんは?」
ボクはさりげなくオレンジのことを聞こうとしたが止めた。
「沢村さんと仲良くやってるよ」なんて話は聞きたくはなかったからだ。
「私はいつもと同じ、可もなく不可もなくっていったところかなー?
でも、柑奈は違うみたいだけど」
そう言ってノンちゃんはボクに含み笑いをした。
「知りたいんでしょ? 柑奈のこと?」
ボクは痩せ我慢をした。
「別に。もう忘れたよ、柑奈のことなんか」
ノンちゃんはそう言って珈琲にミルクを入れた。
「そう? 残念だなー、これ柑奈から預かって来たメッセージカードなんだけどなあ。
でもいいか? 関係ないんだもんね? ジュン君は柑奈を忘れちゃったんだもんねー?」
「・・・」
「もー、素直じゃないんだからー、ジュン君は。
だからあんなオヤジに柑奈を盗られちゃうっつうの!
素直に言いなさいよ「柑奈は今、どうしてる?」のかって」
「ごめんノンちゃん、それで今、柑奈はどうしているの?」
「どうしようかなー? 教えてあげようかなー? それとも止めようかなー?
タダじゃイヤだなー、何かごちそうしてくれたら教えてもいいよ」
「わかったよ、じゃあナポリタンをごちそうするから」
「あともう一声」
「レアチーズも付ける!」
ボクは必死だった。オレンジのことがどうしても知りたくて。
するとマスターが笑って言った。
「ノンちゃん、寿司でも取ろうか? ジュンの奢りで?」
「えー、そんなことも出来ちゃうんですか?
いいなあ、お寿司かあー。あはははは
あんまり意地悪したらかわいそうだから教えてあげるね?
柑奈、別れたんだよ、あの男と」
ボクは複雑な気持ちだった。
確かにオレンジが沢村と別れたのはうれしいが、あんなに沢村のことが好きだと言っていたオレンジの気持ちを思うと、素直には喜べない自分がいた。
「本当はね? 柑奈からのメッセージを届けに来たんだ。
今日、バイトが終わったら、この前の緑の喫茶店で待ってるって。ハイ、これ柑奈からのメッセージ」
ノンちゃんは私に小さなメッセージカードを渡してくれた。
そこには、
ごめんね潤
会いたい
柑奈
とだけ書かれていた。
「よかったね? ジュン君がアフリカに行く前に柑奈ちゃんに会えて」
明美さんがそう言うと、ノンちゃんは驚いていた。
「えっ、何それ? アフリカって何?
ジュン君、アフリカに行っちゃうの?」
「そうなんだ、卒業したらケニアのナイロビに行くことに決めたんだ」
「悲しむだろうな? 柑奈・・・」
ボクは早くオレンジに会いたいと思った。
でも、どうやってオレンジを慰めてあげればいいのか、ボクにはそのセリフが浮かばなかった。
第17話
オレンジは頬杖をついて、物憂げにクリームソーダのアイスが溶けていくのを眺めていた。
少し痩せたオレンジがボクの目の前にいる。
ボクは今すぐにでもそんなオレンジを、強く抱き締めてあげたかった。
「メシ、ちゃんと喰ってんのか?」
ボクがやっと思いついた言葉がこれだった。
「食べてるよ、ちゃんと・・・」
「そうか」
「・・・たくさん、ジュンにはたくさん嫌な想いをさせちゃったね?・・・」
オレンジは俯いて泣いた。
「ジュン、いいのよ、私の事、笑っても。
思い切り笑って、ううん、ぶって、いっぱいぶって欲しい!
哀れな女でしょ? 私って・・・。
いっぱい私のことを愛してくれたジュンを裏切って、あんなオジサンを好きになって・・・。
あの人、私以外にも女がいてね? 私はただ遊ばれただけだったの。バカみたい。
奥さんや子供さんも苦しめてしまった。
私、今すごく惨め。
後悔しているの、ジュンと別れてしまったこと・・・」
ボクは黙ってオレンジの話を聞いていた。
「なあ、柑奈。
どうしてこのトマトジュースにはタバスコが付いてくるんだろう?
これって必要なのかな? このトマトジュースに?
でも不思議だよな? タバスコを入れるとトマトジュースに深みが出る。
甘味が増すのか、とてもいい味になる。
俺、何も怒っていないよ。だって俺、タバスコ入りのトマトジュース、嫌いじゃないから」
「私、ジュンにたくさんタバスコ掛けちゃったんだよ、それでも赦してくれるの?」
「俺、それでも柑奈のことが好きだから」
オレンジはテーブルの上のボクの手に、自分の手を重ねた。
「本当にジュンを苦しめた私を許してくれるの?」
「許すって何を?
どんなことがあっても、俺の柑奈に対する想いは変わらないよ。
だからもう泣くな、すべては終わったことだから。
俺、3月に卒業したらアフリカに行くことにしたんだ」
「ノンから聞いた。それでいつ帰ってくるの?」
「わからない。行ってみないと」
「私、待ってるから。
ジュンが帰ってくるまでずっと待っているから。
私もジュンのこと、待たせちゃったから」
「いつになるかわからないぞ、それでもいいのか?」
「ずっとずっと待ってる。ジュンのこと」
店を出ると、外は羽毛のような雪が降っていた。
ボクはオレンジと手を繋ぎながら、雪の中を歩いた。
ボクとオレンジの熱い想いが、降り積もる雪を溶かしていくようだった。
確実にボクたちに春は近づいていた。
第18話
ボクがアフリカに出発する1週間前、マスターたちが店でボクの送別会を開いてくれた。
送別会にはたくさんの人たちが来てくれた。
お店の常連さんや、足りない食材を買に行かされた近所の八百屋さんや酒屋さん、そしてノンちゃんやスナックのママさんまで来てくれて、お店の中はそんなあたたかい人たちでいっぱいだった。
「えー、それではみなさん、本日はウチのジュンのためにこんなにも大勢の人たちのご臨席を賜り、ジュンの育ての親として感無量です。
ジュンがこの店に来たのは今から2年前でした。
私には子供がおりません、ですからジュンは私の子供だと思って付き合って来ました。
たくさん叱りつけましたし、たくさん学ばせてもらい、一緒に遊んでももらいました。
ジュンのいいところはあまりありません! なんてウソです。
ジュンの素晴らしいところはたくさんあります。
その中でもジュンは、人の気持ちに共感出来るという特技があります。
ジュンはバカみたいにやさしいヤツです。
人が嬉しい時には自分のことのようにそれを喜び、人が悲しんでいる時には一緒に泣いてくれる子です。
今回、アフリカに行くと聞いた時は正直、驚きましたし、寂しいとも思いました。
でも言うじゃないですか?「かわいい子供には旅をさせろ」って。
ジュンはかわいい私の子供です。だからジュンのアフリカ行きに私は大賛成しました。
みなさん、どうかこれからもジュンのことを見守ってやって下さい。お願いします。
そして今日、本物のご両親も駆けつけて下さいました。
ではご紹介します、ジュンのお父さんとお母さんです!」
休憩室から父と母が出て来た時には驚いた。
家を出る時には何も言っていなかったからだ。
マスターの柴山さんのスピーチで、父も母も泣いていた。
「・・・はじめまして、緒方と、申しま、す・・・。
ジュンの、父と、母です・・・。
すみません、涙もろくて・・・。
まさか、まさか今日、息子の送別会に、こんなにも、大勢の人が、来て、くださるなんて、思いもしません、でした。
私はこちらのお店で、息子の潤がバイトを、させていただいて、本当に、本当に良かったと思っています・・・。
たくさんご迷惑、を、お掛けしたと、思います。すみません、でした。
みなさん、本当にありがとうございました。
息子はとても、しあわせ者です。
こんなにも素敵な、すばらしい方々に支えられて・・・。
マスターの柴山さんを始め、みなさんには本当にお世話になりました・・・。
アフリカが、どんなところなのか、私も妻も知りません。金森先生のご指導の元、多くのことを学んでくれたらと思っています。
今日はこんなにも盛大な送別会を開いていただき、お店の方々はもちろん、皆様にはとても感謝しております。
本当に、ありがとう、ございました・・・」
泣きじゃくる父に代わって、母が挨拶を始めた。
「潤の母です。
今日は本当にありがとうございました。
息子はしあわせだと思います。
こんな素敵な人たちにかわいがっていただいて。
親として、こんなにしあわせなことはありません。
自分の子供がこんなにたくさんの方たちに愛されていたなんて。
どうかこれからも息子の潤を見守ってやって下さい。お願いします。
本日はありがとうございました。
親バカですみません」
母はうれしそうに笑っていた。
お店が大きな拍手と笑顔に包まれた。
「それじゃあジュン、みなさんに一言ご挨拶を」
ボクはマイクを握った。
「みなさん、今日はボクのためにこんなにも大勢の人に集まっていただき、とても感激しています。
あらためて思いました、ボクはこんなにも多くのひとの愛情の中にいたんだと。
マスターの柴山さんや花山さん、そして明美さんはボクの自慢の家族です。
みんなが進学する中、ボクは人生の目的に迷い、考えました。
でもその目的が何なのか? 未だにボクにはわかりません。
もしかすると一生分からないかもしれません。
だからこそ、アフリカで考えてみたいのです、生きるとは、人生とは何なのかを。
アフリカでその答えが見つかるかどうかはわかりません。
でも、この目で見てみたくなったのです。
人類の祖先が生まれたアフリカの大地を。
そしてどうぞ期待していて下さい、アフリカに行って大人になったボクを。
今日は本当にありがとうございました」
ボクは深々と頭を下げた。
大きな拍手と歓声の中、みんなで乾杯をした。
乾杯の音頭は花山さんが取ってくれた。
「それではみなさん、ジュン君の門出を祝して、カンパーイ!」
常連さんの村井さんがボクの肩を叩いた。
「がんばれよジュン君!」
「向こうに着いたら絵葉書くれよな!」
「ジュン君、気を付けてね?」
いろんな人がボクを励まし、勇気づけてくれた。
送別会も中盤に差し掛かった頃、珈琲豆の空き缶が、ボクへの餞別箱としてみんなに回わされた。
「みなさん! こんなにもたくさんのジュンへのご寄付、ありがとうございました!
ジュン、これは俺と花山さん、そして明美ちゃんからの餞別だ、一緒に入れておくからな?
がんばれよ、ジュン」
再び大きな拍手と歓声が巻き起こった。
「それではみなさん、ジュンを個人的に見送りたいと、この寒い星空の下で待っている女の子がいますので、ジュンはその彼女へお預けするとして、後は我々大人で楽しく飲もうじゃありませんか!
それではジュン、達者でなー!」
ボクはみんなにもみくちゃにされながら、花束を持って店の階段を駆け上がって行った。
そしてそこには、美しく微笑むオレンジが立っていた。
「ジュン、行こうか? 最後の夜に」
オレンジとボクは腕を組んで、星降る街を歩いて行った。
第19話
涙雨が降っていた。
ホテルの窓の下からは、行き交うクルマの水を跳ね上げる音が聞こえていた。
オレンジとボクはお互いの身体に精一杯の愛の記憶を刻み付けていた。
「ジュン、私ね? ママと祇園で暮らすことにしたの。
ジュンのいないこの街にいても、寂しくなるだけだから。
そしてこの街には忘れたいこともたくさんあるし・・・」
ボクはオレンジに腕枕をして、彼女の話をただじっと聞いていた。
オレンジの温かくて柔らかい肌の温もりが伝わる。
オレンジの細い艶やかな栗毛がボクの頬にかかっていた。
「柑奈、恋ってこんなにも苦しくて切なくて、そして素晴らしいものなんだね?
それをボクに教えてくれたのは柑奈、君だ。ありがとう。
柑奈には黙っていたけれど、ボクは柑奈のことを「オレンジ」って勝手に渾名を付けていたんだ。
柑奈の柑って蜜柑の柑だろ? だからオレンジ。
甘くて爽やかで、そしてあの太陽のように綺麗な橙色をした大きなバレンシアオレンジ。
いいニックネームだろう?」
オレンジはボクの背中に、白く細いしなやかな指で「スキ」と書いた。
「素敵な名前・・・。
ノンにもオレンジって呼ばせちゃおうっと。
ジュン、愛しているわ、私のこと、忘れちゃイヤよ・・・」
オレンジはボクに熱いキスをした。
「いつか祇園に行ってもいいかい?」
「もちろんよ。言ったでしょ? ジュンをいつまでも待っているって」
「ボクも忘れないよ、オレンジのことは絶対に」
ボクとオレンジは抱き合い、そして最後の口づけを交わした。
ボクはこのまま時が止まればいいとさえ思った。
今、このホテルの小さな部屋は、ボクたちの愛でいっぱいに満たされていた。
窓をたたく激しい雨音が、すべての雑音を消してくれた。
ケニアに着くと、ボクはオレンジに絵葉書を添えて手紙を書いた。
愛するオレンジへ
アフリカは不思議なところだ。
なぜかとても懐かしい気持ちになるんだ。
もしかすると、それは人類の起源がアフリカに
あるからなのかもしれない。
今、俺のいるこの家には電気もガスも水道もない。
冷蔵庫もテレビもないんだ。
何もないんだよ、ここには。
でもね、ここには何でもあるんだ。
何もないのに何でもあるってヘンだろう?
真っ黒い肌に黄色い歯を見せて笑うケニアの人
たち。
なぜか俺もつられて笑ってしまう。
来たばかりなのに、もうオレンジに会いたくて
仕方がありません。
でも耐えてみせるよ、オレンジのために。
身体に気を付けて下さいね? 再会を楽しみに
しています。
JUN
そして2か月後、オレンジからも京都の祇園の絵葉書が届いた。
海外の郵便事情は日本のそれとは違い、届いただけでもまだマシだった。
大、大、大好きなJUNへ
毎日JUNのことばかり考えています。
寂しくて寂しくてたくさん泣いています。
私もJUNについてアフリカへ行けばよかった。
今、日本は梅雨です。
おそらくこれはJUNを想って泣いている、
私の梅雨前線が影響しているのかも?
絵葉書のアフリカ、本当に何もないんだね?
でもみんな真っ黒だけど笑顔がステキ。
私もすごくJUNに会いたい!
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたー
い!
今度日本に帰ってきたらいっぱいチューして
ね! 約束だよ!
いつまでも待っています。
祇園から愛を込めて
JUNのORANGEより
私は1年後、日本に戻りオレンジと再会した。
私は京都大学で国際政治学を研究することにしたからだ。
オレンジとは2年付き合ったが、その後、別れた。
何で別れたのか? その理由は今も思い出せない。
そして私は大学を卒業すると、国連職員として再びアフリカを訪れることになった。
そして色々なことがあり、30年が過ぎたというわけだ。
最終話
オレンジとの青春を思い出しながら、いつの間にか私は駅に着いた。
心地よい風がホームをすり抜けて行く。
水曜日の午後のホームは人も疎らで、気怠い駅のアナウンスが流れていた。
私はホームの自販機で温かい缶コーヒーを買った。
「まもなく3番線に電車が参ります。
危ないですから黄色い線の内側に下がってお待ち下さい」
減速した電車がホームに近づいてくるのが見えた。
その時、反対側のホームに私を見て微笑むオレンジが立っていた。
それは紛れもなく、あの時のオレンジだった。
長く美しい栗色の髪、スラリと伸びた長い足、そして鳶色の澄んだ瞳。
間違いなくそれはオレンジだった。
彼女は私に何かを言った。
「何? オレンジ、今何て言った?」
すると彼女は笑って言った。
「好きよジュン、愛しているの。今でもずっとあなたが好き・・・」
私はオレンジのその言葉を聞いて安心した。
「柑奈! 俺もお前が好き・・・」
私がそう叫ぼうとした時、ホームに入って来た上り電車に私は吸い込まれていった。
駅の空き地には枯れたススキの穂が秋風に揺れ、線路には潰れた缶コーヒーが転がっていた。
空は溶けたクリームソーダのような色をしていた。
『僕とオレンジ』完
【完結】僕とオレンジ(作品230729) 菊池昭仁 @landfall0810
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