2.がまんがまん

「樋口。すまないが5限、体育館履きを貸してはくれないだろうか。戸塚、忘れてしまってだな…。」

男女の会話らしからぬ文面だが、この高く透き通った声色の持ち主はもちろん戸塚だ。

球技大会から1週間が経ち、定期テストの対策へと重きを置き始める初夏この頃である。

球技大会女子チームの結果はと言うと、惜しくも決勝にて敗れた次第である。2回戦3回戦と勝ち抜き、優勝候補の2年1組と当たった訳だが、2-1と惜敗。3年5組、2年3組と快勝を記録していたが、力及ばずであった。というのも、戸塚と共に風神雷神の如く、サイドラインを構築していた女バス所属のメイが3回戦目にて、捻挫を発症。攻撃力の低下を危惧した彼女らは縦横無尽に駆け回っていた戸塚をFWに転置する事で、元サッカークラブ所属田宮、闘神戸塚のツートップスタイルを作成し、前半から畳み掛ける超攻撃型プランを実行した。が、大切な物というのはいつも無くなってから気付く。戸塚の存在はあまりに大きすぎた。MFには大きな穴が空き、コート中盤が手薄となって、円滑なボール回しが不可能になった。

責任を感じたメイは泣いてしまい、釣られてここまで見事なまでに司令塔としても機能していたキーパーのマミも自責の念を吐露した。互いに讃え、慰め、笑い合う。そんな女子チームを見て、我々「軟弱者〜's(笑)」はいたたまれなくなっていた。なんせ、あの初戦敗退後30分には、ケロッと色情話に花を咲かせていたのである。

話を戻して今。戸塚は僕に体育館履き貸出の懇願を申し出ている。男子は外で陸上競技。女子は体育館でバレーボールなので何も問題は無い。もっと言えば、足長も問題ない。実は当方、身長に対して足が小さいのだ。身長171.2cmに対し、足のサイズは24.5cmと何とも不規則な組み合わせ。そのせいか、足をよく挫くクセがある。

打って変わって、戸塚は身長166.3cm並びに足長24cmと女子にしては大きい部類に属する。

う〜ん、何とも都合のいい設定だ。

「良いよ。ロッカーに入ってるから適当に取ってくれ。クサいだの汚いだの、文句言うなよ。」

「戸塚、痛恨のミス…恩に尽きるぞ。」

「にしても、お前が忘れ物なんて珍しいな。」

「あぁ、朝ちょっと考え事をしていて、市民ジム用にと、うちに持って帰っていたのをすっかり忘れてしまっていたんだ。」

勘のいい読者はお気づきであろう。戸塚の圧倒的「!」の減少率に。言っておくと、これは球技大会を悔やんで、トーンダウンしているのではない。戸塚は落ち込まない。常に前を向く。知りたい物、触りたい物、やってみたい物で彼女の世界は溢れている。落ち込む暇など無い。

前回のインパクトが強すぎたであろうが、これが普段の彼女である。

再三言うが、神奈川というワードが彼女を変貌させるだけで、普段は風変わりな口調の才色兼備な女子高生なのだ。常時あんなパトスを発動させている訳でも無い。

「お前市民ジム通ってんの?」

「うむ。朝4時に朝日市民ジムまでアップとして走って向かい、一連のルーティンをこなした後、ダウンも兼ねて大沼公園1周をグルっとジョギングして、そのまま帰宅。ジムは金曜と日曜の2日間のみだが、ジョギングは毎朝行っている。」

「へぇ〜、精が出るね。」

「適度の運動は良い。精神にも身体にも好影響だ。神奈川県の健康寿命と幸福度の底上げに微力ながら貢献だ。」

「ふ〜ん…そうか。まぁいいや。てかお前、数Aそろそろ始まるぞ?席、戻った方がいいぞ。」

「おおう、まずいまずい。黒木先生が来る前に早く戻らねば。」

席に着くや否や、戸塚は苦虫を潰すような面持で、ロダンの考える人みたいな体勢をとった。しかし、戸塚は落ち込まない竹を割ったような性格の女だ。

これは…かなり深刻な苦悩に陥っているのではないか?


「今日は、時々思い詰めた顔をしてたけど、どうかした?」

「時々ではない。今日は朝からジョギング中もバーベルスクワット中もストレッチ中も絶ゆることなく思案に暮れていた。」

「そのせいで俺の体育館履きの紐が切れたんだけどね。」

「本当に申し訳ない…戸塚がちゃんと靴紐を結び直していれば…そもそも体育館履きを忘れていなければ…もちろん、弁償する。」

「いやいや、いいよいいよ。もう解れかけてたし、消耗品だしな。んで、その朝から幼気な女子高生を悩ませた事案ってのは何なんだ?」

「…崎陽軒だ…。」

「は?」

「ん?」

「いやいやいやいや、なに『伝わらないとは思わなんだ』みてぇな顔してんの?意味わかんないよ?」

「あぁ、そうか。樋口は、まだ歴2年新米カナガワーだし、崎陽軒は知らぬか。」

「知ってるわ舐めんな。てか食ったことあるわ。」

途端に目が見開き、豆鉄砲を食らった鳩みたいな表情をしている。無論、豆鉄砲を食らった鳩など、見たことも見たいとも思わないが。

「樋口!お前、崎陽軒の味を履修済みか!そうか…そうだよな!当然だよな!」

また”始まった”と思ってしまった。

「そうだ!我々同志神奈川県民は、キャベツ大根マグロといった農林水産物はもちろん。ハムやベーコンといった加工食品。家系ラーメンやサンマーメン。ありあけハーバーに鳩サブレ!これらを血肉とし、生きるべきなのだ!おっと、ワインは大人になってからだぞ、樋口!それまではこの戸塚と足柄茶で乾杯と行こうな!ワハハハハ!」

「は、はあ…。」

僕は時々彼女が怖い。

「そしてそして何より…」

「崎陽軒のシウマイ!」

そう彼女が叫びながら天高く掲げた右腕は、危うく僕のこめかみを殴打するところであった。

「おい戸塚、お前は一体何が言いてぇんだ。」

戸塚がくるりと身を翻し、僕に背を向ける。

「先日、いつもの4人で昼食をとっていた時だ。戸塚の弁当に冷凍のシューマイが入っていたのだ!これはこれは…と思わず、崎陽軒のCMソングを口ずさんでしまった!あ、旅の窓辺の思い出は♪では無いぞ?さすがに世代が違うからな!我々世代はやはり…」

さも「当然あなたもお分かりでしょうが…」みたいな言い方をするが、僕は何もピンと来ていない。

「♪本当は今すぐ食べたいけれど〜♪

♪大好きなおじいちゃんへのお土産だから〜♪

♪我慢我慢♪」

言わずもがな、知らん。

「くぅ〜!なんといじらしい!そして愛おしい!

あのCMの女の子ったら可愛くってしょうがない!そして何より、偉い!分かる…分かるぞ!食べたいよな!でもおじいちゃんが待ってる!よく我慢したぞ少女よ!戸塚は貴殿に最大限のリスペクトを送る!」

「さっきから何言ってんだが1個もわかってないんだけど。てか何今の気の抜けたような歌は。」

「え!?樋口ん家って、テレビ置いていないのか!?ミニマリスト?」

「違ぇよ。うちの東芝さんはシャカリキに頑張ってるよ。でも見たことねぇよそんなの。」

「なぬ!?TVKで流れてるではないか!」

TVKは分かる。確か”テレビ神奈川”略してTVK。神奈川の地方局だ。番組表に出てくるから認知こそしてるが、チャンネルを開いたことは無かった。

「TVK観ないもん。そんなCMやってるのか。」

「そうか…樋口は、ベイスターズもフロンターレも応援していないんだもんな…関内デビルとかキンシオとかカナフルTVとか。面白い番組がいっぱいあるぞ。」

「帰ったら見てみるよ。」

半ば投げやりに戸塚を宥める。

「んで、その崎陽軒がどうしたって?」

「いやいや、崎陽軒のシウマイを前にして理性を保つだなんて、大した精神力を持っているよなと感心していたら、田宮がこう言ったんだ…」

戸塚が手をパタパタさせながら話す田宮のクセを模倣する。

「私ぃ〜崎陽軒食べたことないんだよねぇ〜」

これまた田宮の語尾を伸ばすクセも模倣する。

「戸塚は、あまりの不可解に脳がショートした!どういう事だ!?神奈川県民であれば、崎陽軒は食べていて当然であろう!するとメイがだな…」

今度はメイのバブルヘッドみたいに頭を揺らしながら話すクセを模倣する。

「えっ、あたしも。てか、逆に神奈川県民って食べないよね。」

パッと、マナの今にも寝てしまいそうな目を模倣する。

「うん。食べたことないなぁ〜。うちのパパも、知り合いへの贈物に買うけど、自分用に買ったことは無いって言ってたぁ〜。」

見事なまでの変面は終わり、戸塚が戸塚に戻る。

「その瞬間、戸塚は目の前が真っ白になり、失神してしまったのだ…神奈川は、崎陽軒を捨ててしまったのか…?横浜の民は、崎陽軒を忘れてしまったのか…?と、失意の暗夜行路を奮走していたんだ…。だが!今ここに!我らが崎陽軒攘夷志士が2人集った!さぁ行くぞ!樋口どん!いざ横浜!」

「あっ、俺が崎陽軒食ったのって、相当前だぜ。愛知にいた頃だから…小学2年だな。当然だが、神奈川に越してから、1回も食ってない。」

「ミ°ッ°」

聴いたことのない声を聴いた。と、同時に戸塚が卒倒した。慌てて、抱える。

顔を見ると端正な顔立ちが、どう考えても再現出来ぬ、アホ面へと変貌していた。

この表情…なんか見た事ある…。

確か、崎陽軒のシウマイ弁当に入っていた醤油差しに印刷されたひょっとこ顔だ。

「おーい。しっかりしろー?」

ぺちぺちと頬を叩いてみると、魂が戻ってきたかのように正気を取り戻した。

「ハッ!?あれ!?シウマイは!?」

「何、言ってんだ?幻覚でも見ちまったのか?」

「あ、あぁ…そうか…私はまた…。」

たちまち、赤ん坊のようにえぐえぐと泣き始めた。

「うぅ…崎陽軒のシウマイは最強なのだ…

関東北部から東北地方の自然豊かな養豚場で育てられたジューシーで甘い豚肉…そこに加わるシャキシャキとした食感のタマネギ…でもって北海道オホーツク海の肉厚なホタテ貝柱と一緒に、その旨味をたっぷり含んだ戻しスープもぶち込む…そして食感、色合い、味の鮮やかなグリンピース…大地と海のハーモニー…互いに融合し、それでいて個々が個性に富んでいる…そんなタネを、皮が包み込む…産まれたての赤ん坊を抱く聖母の如く優しく…完投勝利した投手を賞賛し、抱擁するキャッチャーの如く強く…その完璧なバランスで保たれた造形は神秘すら感じられる…肉汁を閉じこませるが、タネは留まることを知らない…匂いで我々の摂食中枢を刺激し、食べざるを得ない…あの造形の前に人間は無力なのだ…そこに乗せられた春の宝玉グリンピース…私がマリッジリングに望むのはダイヤモンドなどではなく、あのグリンピースなのだ…牛乳を注ぐ女のように、慈愛を込めてそっと、ひょうちゃんから醤油を差す…そしてEating…」

戸塚はまだ語る。

「桜木町の威厳ある建造物と暖かな自然が織り成す街並みをそのまま口に含んだような豊かな味わい…これを食べる度に私はこの地への誇りと幸福を感じるのだ…頼む、言わせてくれ…『ハオ』」

我を忘れ、ヨダレを啜っていた自分に驚いた。

戸塚の目頭から、そっと一雫が垂れる。

目は閉じたまま、多幸感溢れる微笑を浮かべていた。


その日は戸塚をおぶって、家まで送った。

戸塚のお母さんとは何度か会ったことがあるので、軽く挨拶をして、放り捨てるようにお母さんへ渡した。

時刻は7時。飯時だ。特に戸塚のせいで、腹が減っている。

僕の家は戸塚の家から徒歩五分ほどなので、すぐに着く。

玄関を開けると、ジューシーな豚肉の匂いが鼻を掠めた。

「あらおかえり。今日は高島屋に寄ったから、崎陽軒買ってきたよ。」

なんてグッドタイミング。

十字に結ばれた紙紐をハサミで切り、真っ赤な玉手箱を開けた。

求めていた香りが、求めていた以上の至福を連れて、僕を誘う。

醤油入れのひょうちゃんに目をやる。

今日のあの戸塚のアホ面と瓜二つで、思わず笑ってしまう。

さぁ、いただこう。

前回食べた時とは違う。

僕はこれから野を駆け、森を抜け、海を渡り、

そして、横浜へ帰る。

戸塚。シウマイ復古の大号令だ。


久々にお茶碗3杯も平らげた。腹ごしらえにテレビをつける。すると、ふとTVKの事が脳をよぎった。

番組表を眺めながら、ちょっと見てみようかなと思ったのは、戸塚には黙っていよう。

チャンネルを切り替えると、真っ白な画面の左側から、赤いオープンカーに乗った水色のワニが、「T・V・K〜♪」と陽気に歌いながら、前輪を弾ませ、通り過ぎて行った。

「…何、今の…」

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まさるあらめや お茶 @ocha0725

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