帰路
リアムが事務所を後にすると、エルガーはテーブルのコーヒーを片付け始めた。彼のために用意したコーヒーはあまり飲まれていなかったのが、残念である。
それに……。
「その場で採用するとは驚きでしたよ、カーター所長」
リアムが入室して以来、沈黙を貫いていたエルガーは初めて口を開いた。
声をかけられたカーターは、デスクの上でリアムが置いていった履歴書を眺めているところだった。
「すまないね。……君には不満だったかい?」
「いいえ、自分は構いませんが……ただ良いのでしょうか。こうもあっさりと決めるというのは」
エルガーの言葉に、カーターはふっと笑った。
「構わんさ。リアムは人柄もいい。それにこれは私の直感だ。あの問題児のいいバディになってくれることだろう」
「だといいのですが……」
カーターとは対称的に、エルガーはどこか憂いを帯びた表情だ。
「人柄と言うのは、仕事ができるよりも重要な事柄なのだよ」
「それは否定しません、所長。しかし、あの問題じ……こほん、ルーナ・ヴァイオレットを新人に当てるのは早急すぎでは?彼女が原因でこれまで5人のバディが異動、退職しています」
「ふむ……」
実のところ、それはカーターも全く心配していないわけではなかった。
彼女ーールーナと呼ばれる少女はベルローズ事務所の調査員である。その性格は、今日やってきた謙虚そうなリアムとは正反対。気が強いだけに収まらないほど傲慢で、高飛車で、喧嘩っ早い。
「いやこれは、かえって彼女のためにもなる」
「ルーナにですか?それは一体どういう……」
「俺はリアム君に一縷の望みを賭けるね。彼女は一度、誰かと本心でぶつかる必要がある。私ではだめだ。彼女の経歴が全く響かない世界の人間と……」
「……」
エルガーはカーターが何を考えているのかが、よく分からなかった。しかし、ルーナを幼い時から見ていた彼にしか分からないことがあるようだ。
「とりあえず朗報を期待しておきます」
エルガーは眼鏡のブリッジを押さえた。
コンコン。
部屋の窓ガラスを何かが叩く音が聞こえ、カーターが振り返ると、そこには一羽のカラスが何かを咥えて、窓の縁に立っていた。
「君のカラスが返ってきたぞ」
窓を開けると、カラスはカーターの手元まで降り立ち、咥えていたものを落とした。そして、今度はエルガーの方に肩に止まる。
「ちょっとばかし報告が遅いがいいだろう。見てやろう」
にやりとしながらカーターは、ガラスの持ってきた紙を広げた。
「すみません、リアムに関してこれといって報告することがなさすぎて……」
「はは、分かっているよ。普通すぎる人間と言うのも、かえって怪しく見えるからな。念入りに調べておいて損はない」
カーターが広げた紙には、情報屋で仕入れたリアム・グランシーの個人情報がびっしりと書かれていた。生年月日から出身地、家族構成、通った学校、前職ーーそして交友関係まで。
「やはり彼は普通の人間です。魔法界にも全く馴染みがないですし、一切の天賦能力も持たないようです。彼の魔力レベルは0と言っても差し支えありません」
「やはりそうか。君がそう言うなら間違いないようだな」
「ええ。しかし……」
「ああ、そうだな」
カーターは困ったような顔で、エルガーを見る。
「なんで一般人には見えないように、魔力が施されたチラシを見ることができたんだろうな?」
〇●〇
給料の受け取り、保険に加入するための書類を済ませて簡単な説明を受けたあと、リアムは気分上々の足取りで、帰路についていた。
街は正午を過ぎたあたりで、通りの人はまばらだ。
採用が決まった!母さんにも報告できるぞ!と嬉しさのあまりガッツポーズをする。
先程の違和感は、事務所を後にして緊張が溶けたのか、リアムの頭から吹き飛んでいた。
足を踏み入れる前までは怪しい団体かと訝しんだが、上司の人柄も良さそうだし、思ったよりしっかりとした施設だったし、新人への育成もきちんと行われているようだ。従業員も多そうで、しかも誰かとバディになって、共同で仕事に当たるのならますます安心だ。
リアムは普段から節約しているのもあって、自分へのご褒美も欲しいものも滅多に買わない。母親からの仕送りは全て断っているし、むしろ定期的に実家に送金しているくらいなのだ。就職のお祝いに、久しぶりに美味しいスイーツを買ってもバチは当たらないだろう。
ここは街中だし、百貨店にでも赴こうか。そう思って辺りを見渡すと前方にグリーンのワゴン車が停まっていたのが見えた。『オリバーおじさんのドーナツ』という店名が大きく車両にある。リアムが幼少期から知る、老舗のドーナツ屋だ。店頭でも販売しているが、たまにこうやってワゴン車で回っていることもあるのだ。
気づけば自然と、いい匂いのするワゴン車に近づいていた。
「いらっしゃい。お兄ちゃんずいぶんご機嫌な顔をしてるね。よかったらドーナツでも買っていかないかい?」
車の中には、初老のおじさんが座っていた。
「はい、喜んで」
普段は買い食いなど滅多にしないリアムだが、今日は甘いものを食べたい気分だった。ドーナツはリアムの大好物でもある。
「はいよ。人気のクリームショコラはまだ残ってるからね。好きなの選びな」
「ありがとうございます」
ケースに並べられた小さなドーナツは、どれも美味しそうだ。クリームショコラは、昔からみんなに愛される古参の人気商品だ。リアムはこのクリームショコラが1番好きだった。もう3つしか残っていない。
「じゃあ、えと……クリームショコラ3つと、マロン1つと……」
「ちょっと。クリームショコラはそれで終わりじゃない。私のがなくなるから、あなたはひとつにしなさいよ」
「え?ああ、すみません……ってえ?」
後ろから突然聞きなれない声が降ってきて、振り返ると女性ーーいや少女か?がリアムを睨みながら立っていた。
目が宝石みたいだーーと思った。サファイアをそのまま嵌め込んだような深い青。青空よりも深いそれは、暗い洞窟で光り輝く鉱石のようだ。
「早くして。次の仕事があるから急いでいるの」
「じゃあ、えと……クリームショコラ3つと」
「ちょっと!私の話聞いてなかったの!」
後ろから怒った声が飛んでくる。リアムは今の状況が掴めず、脳内は疑問符でいっぱいだった。
先程、少女は何と言っていた?唐突すぎて、内容が頭に入ってこなかった。
それにしても綺麗な瞳だった……。いやいやいや。そもそもこの人、誰だ?なぜ俺は怒られている?
リアムは少女を振り返って、二度見した。
しかし、少女はリアムに一瞥を加えることもなく、そそくさと進み出て、
「おじさん。クリームショコラ2つとキャラメル2つくださいな」
としれっと注文した。
おじさんはしばらく呆然としていたが、
「えっ。あ、350ペンスだけど……」
と、戸惑いつつ応答した。唐突な少女の割り込みに驚いているようだ。無理もない。リアムは割り込まれたことすら、忘れていた。
少女はお金をポケットから取り出してさっとトレーに置き、それを見届けたおじさんは慌てた動きで袋にドーナツを詰め始める。
その間、リアムは改めて、まじまじと少女を観察する。
紺色の髪は、貝殻のバレッタでハーフアップされている。黒いパフスリーブのワンピースに、プリーツスカートには白いラインが入っている。胸のリボンの真ん中には、青い石が嵌められていた。良家のご令嬢を思わせる上品な身なりだ。
「はい、毎度あり」
「どうもありがとう」
ドーナツが入った紙袋を受け取ると、彼女はリアムの顔を得意そうに、ちらりと見た。まるで一個残してやったから感謝しろと言わんばかりの表情だ。むしろリアムは最初、3個とも頼んで食べようとしていたから、2個分強奪されたことになる。
少女は何事もなかったかのような澄ました顔で、通りをそのまま歩いていく。
(なんだ……なんだあの子は……)
「きみ……あの子はきみの妹かい?」
立ち去っていく少女の背中を見ながら、おじさんがリアムに問いかけた。
「いえ……知りません」
リアムはクリームショコラを横取りされた事実よりも、少女の存在に呆気に取られたままだった。少女はやがて曲がり角で消えたが、リアムはあのブルーの目が脳裏からなかなか消えなかった。
後書き
登場人物紹介
リアム・グランシー
ベルローズ事務所に応募してきた23歳の青年。人当たりが良く、謙虚な性格。家族に母と弟がいる。
ベン・カーター
ベルローズ事務所の所長。気さくな性格で、リアムの採用を決定した人物。事務所の個性的なメンバーをまとめる親のような存在。
エルガー・スタンウェル
冷静沈着なカーターの秘書。背が高く、細身。表情に乏しいが、仕事は万能にこなす。助っ人としてカラスと手なずけている。
???
濃い緑の目が印象的な少女。刺々しい雰囲気を持っているが、令嬢を思わせる上品な装いをしている。
ベルローズ事務所
私的な依頼を担う探偵事務所。ヨーロッパのいくつかの国には、ベルローズとは違う名前で、同じ事務所が存在しているらしい。
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