英雄を称える家畜讃歌《2》

 巨大な眼球が、卵の殻の内側でギョロりと周囲を見回す。瞼は無いのか、瞬きをする様子はない。



『Brr? Barrr!』


『Barrrrr!』



 卵の変化には蜂人間達も気がついたようで、生き残った数体が卵のある方へと振り返る。その間も乾いた音を立てて亀裂は広がっていき、地面に落ちる殻の破片が増えていく。

 やがて空いた隙間からは、ペンキを塗りたくったように黄色く膨れた指が現れた。五指の動きはバラバラで、明らかに人間とは違う関節の可動域をしているということが、その生物が異質な存在であるということを意識させる。

 そして再び、さらに広がった亀裂からは二つの目玉が覗いて――パチリ。ヴィクターと目が合った。



『GyyyyyyAaaaaaa!』


「うるさっ……! 人の顔を見て奇声をあげるとは、失礼だとは思わないのかね!」



 耳を塞ぐ意味もないほどに、その声量は先程の比にはならない。

 卵の亀裂から聞こえる絶叫は、今までヴィクターが聞いたどんな音よりも鋭く耳を刺し、目眩を起こすほどに脳を揺らした。

 その声に共鳴して、部屋全体が大きく震える。どうやらあの殻の中はよほど優秀な防音室となっていたらしい。ここがガラス張りの部屋ならば、今頃全て割れてしまっていたはずである。



『Barr!? Brrrr!』


『Barrrrrrr!』



 声が止むと蜂人間達は分かりやすく動揺し、忙しく仲間内でなにかを話し合っていた。

 様子を見るに、既にヴィクターへの敵意は無い。敵意そのものを失ったというよりは、優先順位が変わったという方が正しいだろう。

 卵からは、殻を剥がす不穏な音が続いている。


 やがて蜂人間達は次にすべき行動が決まったのか、次々に手にしていた槍を地面に置くと――一目散に、その場から逃げ出した。それも全身の筋肉をフルに活用し、今度こそ地に足をつけての全力の逃走である。

 一見間抜けにも見えるが、それが生物として正しい行動を行っているということは、遠目に見ていたヴィクターでもすぐに理解することができた。



「ふぅん……なるほど。魔獣達はこれを恐れていたわけか」



 完全に卵が割れると、その中からは満を持してずるりと長いナニカが這い出てきた。

 あの金切り声の主――それは蜂人間達の主。世間一般的にはきっと『女王蜂』と呼ばれるのであろう高位的な存在。


 生まれたばかりの女王蜂はまだなのか、蜂人間達とは似ても似つかない見た目をしている。

 顔は首を折って無理やり横向きにくっつけた人間のようだし、無数に生える腕は水分を吸って膨らんだ水死体のようだ。

 唯一同じなのは全身を覆う黄色。少し濁った芥子色からしいろに近い。


 そんな女王蜂が揺りかご卵の殻から降りて、一番最初に行った行動は食事であった。

 魔獣のすぐ近く、転がっていたのはヴィクターのガラス玉によって遠くへ飛ばされた蜂人間の死骸。

 その死骸に目を留めた女王蜂は考える間もなく飛びつくと――仲間内なかまうちなど気にもせず、むしゃむしゃと頭から丸かじりにしてしまったのだ。



『Yaaaam……Aaam』



 バリボリと音を立てて、早々に三メートル近くもある大きなをペロリと平らげてしまった女王蜂は、次の獲物を求めて重い頭を持ち上げる。

 そんな魔獣の目に入ってきたのは――逃げ惑う、活きのいい蜂人間達だ。



『Gyyy!』



 そう女王蜂が叫ぶと、ピタリと蜂人間達の動きが止まった。きっとあれが静止の命令なのだ。

 そして女王蜂は壁を這い、身体を引きずり移動を始めると――早々に次の食事を開始した。

 女王蜂の前では、本能的に逆らうことのできない哀れな蜂人間達はもちろん、既にヴィクターの手で程よく火の通っていた焼き蜂人間すら好き嫌いすることなく、全てが平等。餌に他ならない。


 魔獣達の悲鳴がこだまする。

 しかし、やがてそれも聞こえなくなり――目に見えて腹の膨れた女王蜂は、残った最後の生存者であるヴィクターに向けて振り返った。

 距離にして、五十メートルも無い。ゆっくりと右に左に身体を揺らしながら距離を縮める様子は、さながら獲物を前にして機会を伺う肉食獣のようである。



「なんだ。ワタシのことは襲ってくれないのかと思って見入ってしまったよ。もしかして、口直しのデザートにでも取っておいてくれたのかね」


『Gyrrrr……』


「肯定かい? なら嬉しいね。デザートってなんか特別感があるし、クラリスも大好きだ」


『Gy――Aaaaaaa!』



 瞬間、女王蜂がヴィクターに向けて飛びかかった。無数に生えた腕で地面を踏みしめ、あの長い身体からは考えられないような跳躍。

 だがヴィクターに避ける様子はない。彼はステッキを上空の女王蜂に向けて高く突き上げると、照準を調整。魔力を凝縮した輝く光球を撃ち放った。


 目にも眩しい昼光色。軌道にはぐれた光の粉を撒き散らし、ぐんぐん高度を上げて光球は女王蜂に接近する。

 そして光の輪郭が魔獣の柔らかい腹に触れた刹那――凝縮されていた魔力は弾け、この巨大な魔獣の巣全体を大きく揺らしてしまうほどの衝撃を引き起こした。



『Gyyyaaaaa!』


「けっこうタフだな……ワタシの魔法はあまり屋内で暴れるのには向いていないのだけれど」



 記憶では、この巣は中身をくり抜かれた巨木に繋がる複数の小部屋からできていたはずだ。ひとつひとつがパイプのように繋がり支え合ってはいたものの、自然界で、ましてや魔獣の手によって建てられたものならば耐久面には不安がある。

 現に今の爆発の影響で地面は絶えず揺れている。遅かれ早かれ崩壊するのは確実だろう。


 ――最悪、村人のことは捨ててでも、ここが駄目になる前にクラリスを連れて脱出しないといけないな。彼女がこの揺れに気がついて逃げてくれればいいのだが。


 そうヴィクターが考えている間にも、べちゃり。女王蜂が地面に落ちて、土煙をあげる。

 しかし息をつく間もなく魔獣は体勢を立て直すと、隙だらけなヴィクターに向けて煙の中を飛び出してきた。



「おっと……ははっ、大きい犬とでも遊んでいる気分だね。ならば食後の運動だ。キミ達、手伝ってあげたまえ」



 そう言って彼が指を鳴らすと、それまで隣で命令を待っていたガラス玉達が一斉に動き出した。

 赤いガラス玉が女王蜂の二対の目の前を通り過ぎ、注意を引く。誘導に掛かった女王蜂の目がぐるりと右後ろへと回り、わずかに頭が持ち上がった隙を狙って――青いガラス玉が顎の下から魔獣の顔面を殴り上げた。

 堪らず仰け反った女王蜂の横っ腹には、すかさず回り込んだ二つのガラス玉が体当たりを仕掛け、その二十メートルにも及ぶ巨大な身体を軽々と殴り飛ばす。



『Gyeeeeee!』



 飛距離はぐんぐん伸びていき――行き止まりまで飛ばされたところで、女王蜂は苦しげなうめき声をあげて崩れ落ちた。

 巨体がぶつかった壁にはわずかなヒビが入り、隙間から外の光が漏れ出す。


 ヴィクターは左手でステッキをくるくると弄びながら、女王蜂へと近づいていく。

 帰ってきた二つのガラス玉は彼にひと撫でされた後、杖先が地面を打ち付ける音が聞こえると共にその場から消失した。



「……さて。そろそろここも限界みたいだ。キミがまだ続けたいのなら、場所を変えて相手してあげるけど。どうする?」


『Aaaaa……』


「んー、なに言ってるのか分からないな。とりあえず崩れる前に移動しようか」


『Aa?』



 ヴィクターが女王蜂の身体に片足を乗せ、回していたステッキを逆手にして持ち直した。

 体重を乗せれば靴底が魔獣の腹に沈み、皮膚の下から食べたばかりの食事の形が伝わってくる。まだ少し固い。


 そして――女王蜂が異変を察知し、起き上がろうとした時にはもう遅かった。

 ヴィクターの指先から流れた魔力がステッキの全体に伝わり、宝飾から溜める間もなく密着した地面へと放出される。

 刹那、ジェット機が離陸するかのように、ロケットが宇宙へ飛び立つかのように。その噴出した膨大なエネルギーを利用して、ヴィクターは女王蜂を蹴り飛ばした。



『Agyy!?』


「――ッ、眩しいっ……」



 その勢いは壁を破壊して、この部屋の外へと飛び出してしまうほどであった。

 仰向けに空中に投げ出される女王蜂の身体。腹の上に乗ったままのヴィクターは、急に開けた視界に射し込むたっぷりの陽の光に思わず目を細めた。


 ずいぶん高いところにいたのだろう。瞼の隙間から見えたのは、どこまでも続く広大な森と空。

 空気が美味しいなどとは思ったこともなかったが、あの広くも閉鎖された空間で、煙と焦げた肉の臭いを嗅ぎ続けていた後だ。こんなにもただの空気が清々しいと思えたことは、ヴィクターにとって初めての体験である。



「ん……? あそこにいるのは……」



 光に目が慣れてようやく、落下地点を見定めるべく地上の様子に目を向ける。

 そこにいたのは――人間だ。風に吹かれたゴミのごとく、あちらこちらへ散り散りに逃げている。

 しかしそんな人間達の中に一人だけ、その場から動かない者がいた。


 ――あれは……


 自然と口角が上がって、それまでの眩しさすら忘れて大きく開く彼の瞳。

 顔はよく見えなくとも、ヴィクターは考える間もなくその人物が誰なのかが分かった。答え合わせは必要ない。なにせ彼が彼女を見間違えることなど、天地がひっくり返ろうとも起こるはずがないのだから。



「クラリス!」



 はやる気持ちを極限まで抑え込み、脳の端の端に残されたほんのわずかな部分の理性で地面との距離を計算する。

 そうして女王蜂を足蹴に空へと舞ったヴィクターは、実に短かった別れを終えてクラリスとの再会を果たしたのだった。

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