あなたの血肉はイチゴジャムサンド《5》
カラカラと、なにかが石畳の上を転がる音に、クラリスが振り返った。
――えっ?
音の先には、ヴィクターが倒れていた。
崩れ落ちた拍子に、先程落としたステッキとぶつかったらしい。主人の異変を知らせるために転がり、音を立てていたステッキは、クラリスに発見されると役目を終えたようにピタリとその場に停止した。
「ヴィクター! どうしたの!?」
血相を変えたクラリスが駆け寄るが、ヴィクターは苦しそうに呼吸をするだけで、彼女の質問に返事をすることはない。まさか意識を失くすまでに限界がきていたとは。
少し揺すってもみたが、彼が起きる気配はなかった。
――どうしよう。さっきの正気を失ったお客さん達が戻ってくる可能性もあるし、助けを呼ぶにしても、さすがに意識のない状態でヴィクターを放置しておくわけにはいかない。でも……うっ、重い。移動させるにも、私一人の力じゃ運ぶこともできない……
腕を引っ張ろうにも、クラリスだけでは成人男性を、それも自分よりも一回り以上も大きな人間を動かすことなど到底できない。
これではこの場を離れることは不可能。
残る選択肢は一か八か――大声で呼べば、まだ正気の残った誰かが気がついてくれるだろうか。
「……よし」
意を決して、クラリスが大きく息を吸った。その時――
『ガァ!』
「わぁっ! な、なに!?」
彼女が声を出すその瞬間、予想だにしていなかった大きな鳴き声が足元から上がった。
ノイズ混じりの、汚いしゃがれた声。それが辛うじて生き物の鳴き声だと分かったのは、聞き覚えのある発音だったからである。
――びっくりした……この子、ちょっと大きいけどカラス……だよね?
驚きで飛び上がったクラリスが声の方向に目を向けると、カラスは艶やかな黒い瞳に彼女の表情を映し出した。
そして、こう
『オイ、オンナァ! 助けヲ呼んでも無駄だゾ。この辺リの人間ハ、みィんな手遅れダ。他人のコトなんて眼中にねぇシ、なンなら医者ですら、今のコイツヲ治療できヤしねェ。今やろうとしてるオマエの行動は無意味なンだよ! ム、イ、ミ!』
それは腹話術でも、誰かがこっそりスピーカーから流している音声でもなかった。正真正銘、目の前のカラスからの発言なのである。
――カラスが、喋ってる。魔獣? そういえば……広場に来た時も何羽か見かけたっけ……
よく覚えている。広場に入ってすぐ、ゾンビ映画のようにナニカに群がる人間と、乗じて
集まった彼らがなにを必死に食い漁っていたのか。それは――今なら分かる。
『アーア、もったいネェなァ。みんな帰っちまったシ、せっかくオマエの作ッたジャムヲ食う奴がいなくなっちまっタ。……ムグ……予想通り、魔法使い産のは味が違うネェ。タダの人間のより、よっぽド美味い』
跳ねるような動作でカラスが意識のないヴィクターの元へと近寄り、彼の吐き出したジャムを嘴で丁寧に啄む。
しかし、それでも食べづらいのか、カラスは嘴の周りをベトベトに汚しながら角度を変えて、優雅に他人様の吐瀉物を味わっていた。
クラリスが状況を整理し終えて、ようやく我に返ったのはその時である。
「や、やめて! ヴィクターから離れて!」
『ギャッ! オイオイ、危ねェじゃねぇカ! ソレは振り回すモンじゃねぇゾ!』
とっさにクラリスが両手で拾い上げたのは、ヴィクターが落としたステッキであった。それを横薙ぎに振り払うと、カラスが慌てて翼を広げて飛び上がる。
叶わず空振りとなったステッキに振り回されたところで、クラリスは一回転しそうになる体を踏ん張って耐えきった。いつもは軽々とヴィクターが振り回しているため、てっきり軽いものだと思っていたが……想像よりも重い。
それでも彼女は距離を取ろうとしないカラスに威嚇の意味を込めて、二撃目をかましてやるべく再びステッキを持ち上げた。
『見た目と違って、凶暴なオンナだなァ……コイツに似てキタンじゃねぇカ?』
「いいから動かないで。アナタ、エイダちゃんの件についてなにか知ってるみたいだけど……ヴィクターに手を出したら許さないからね。私になにか言いたいなら、まずは彼から離れて」
『ハァ? 勢い余って、オレと一緒にコイツゴト潰しそうになったのは、どこノどいつだヨ。……マァいいか。さすが二、ずっとこんな場所にカワイイ
カラスがそう言った瞬間、ふわりと風がクラリスの足を掬い上げ――彼女の体が浮いた。
「なに!? 私、飛んで――」
「おい、暴れるな。三秒でいい……目を瞑ってろ。酔っても知らねぇぞ」
突然、クラリスの耳元で知らない男の声がした。――いや、違う。この声を知っている。これは、今まで彼女が話していたカラスの声。だが、ノイズを取り除いたその声と言葉は、不思議とクラリスの頭にストンと入ってきた。
風に混ざって、地面から無数の黒い羽根が湧き上がり、空へ舞い上がる。
視界がやがて黒一色に染まり、未知を体感していることの恐怖心から、彼女は言われた通りにギュッと目を閉じた。
「――いつまで目ェ閉じてんだよ。三秒でいいって言っただろ。開けろ。着いたぞ」
そう言われたのは、いったいどれくらいの時間が経ってからだろうか。おそらく、十秒も経っていない。
男の声に言われるがままに、クラリスが目を開ける。
不思議な感覚だ。辺り一帯は、ついさっきまで彼女達がいた広場ではない。ここは――二人が泊まっているホテルの客室だった。
見覚えのないペットボトルがサイドテーブルに置かれている。わずかに残った甘い香りから、ここがヴィクターの泊まっていた部屋だというのは容易に想像がついた。
「えっ。私……なんで。いつ帰ってきたの……?」
「移動してきたんだよ、オレの魔法で。つーかオマエ、手ェ汚れてるだろ。その辺を触る前に先に洗ってこい。……あぁなんだこのコート? とっくに冬なんて終わってるんだから、衣替えくらい面倒くさがらずにしろっていうのに。ほら、水なら飲める……ん? この場合、水ってどこに入っていくんだ?」
呆然としているクラリスの目の前で、テキパキと床に伏すヴィクターを介抱していたのは、あのカラス――と同じ声の、彼女が目を閉じる直前に聞いた声の主であった。
身長はクラリスより少し高いくらいだろうか。黒い髪に、同じ色のベストを着用した細身の男である。
男はぶつくさ文句を言いつつも、ヴィクターの着ていたコートをハンガーに掛けたり、ペットボトルに入った水を飲ませようとしてやっぱりやめたりと
まだパニックで思考の追いついていないクラリスは、とりあえず言われた通りにジャムや血のついた手と、握ったままだったヴィクターのステッキを浴室の温かいシャワーのお湯で洗い流すことにした。
赤い水が排水溝へ流れていくのを見ていると、ここだけまるで殺人現場のようである。備え付けのふかふかのタオルで水分を拭き取れば、ようやくステッキは元の黄金色の輝きを取り戻した。
「こんなもんか。あとは詰め込むものが戻ってくれば……」
「あの、私もなにか手伝うこととか……」
「ああ? いいよ。やることはだいたい終わったから。それより手も空いたし……もっとよく顔を見せてみろ」
ようやく男がクラリスの方を向いたのは、ヴィクターの呼吸が落ち着いてからだった。
ベッド脇にしゃがんでいた男はゆっくり立ち上がると、部屋に戻ってきたクラリスの前まで来て、ジロジロと彼女の顔を観察しはじめた。
それはヴィクターのように好意があって、というよりは、まるでクラリスのことを値踏みするかのようである。
「ふぅん、なるほどねぇ。クラリス・アークライト……ヴィクターが好意を寄せている女、か。たしかに顔は良い方だが、スタイルは普通。もっとすげぇ美人に口説かれたことだって数え切れないほどあるだろ。なんでわざわざ、こんな普通の人間に惚れちゃったんかねぇ」
男はクラリスの周りをグルグル歩き回りながら、失礼なことをそう軽々しく口にする。
敵意が無いのは分かるが、同時に人に対する敬意も持ち合わせてはいないらしい。
言い返すにしても、仮にも相手は途方に暮れたクラリスの代わりにヴィクターを介抱してくれている人間である。いくら無礼な態度を取られたとしても、感謝の気持ちくらいは見せないといけない。
「えっと……とりあえず、ヴィクターのことを助けてくれたのよね。ありがとう。私のことを知っているってことは、どこかで会ったことあったかな……」
「いや? オレは一方的にオマエのことは知ってるけど、こうして対面で話すのは初めてだ」
クラリスを観察することには飽きたのか、男が近くのソファに座る。
男は二十代くらいに見えるが、幼い顔立ちからか、クラリスよりも年下の人間にも見える。
だが、彼は魔法使いだ。魔法使いの年齢は見た目には比例しないこともある、とヴィクターから聞いたことがある。
「そういや自己紹介をしていなかったな。オレだけオマエのことを知っているのもフェアじゃないし、最低限の人としての礼儀っつーのは魔法使いにももちろん必要だ」
そう言って男がパチン。指を弾くと、クラリスの視界が変わった。
テーブルを挟んだ目の前に、男は座っている。自分が今の一瞬で対面するソファに座らされたのだと気づけたのは、先程の瞬間移動を体験したからであろう。
そして男は、人当たりの良い笑みを浮かべてクラリスへと手を差し出した。
「オレはフィリップ・ファウストゥス。ヴィクターの一番の親友であり、兄弟みたいなもんだ。よろしく頼むぜ。クラリス・アークライト」
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